「番外編 その2」

近江国  賎ヶ岳
〜 羽柴秀吉に天下人への階段を上らせた一大合戦の舞台 〜

 

本能寺の変の後、信長の家臣たちは互いに反目しあい、
次第に、丹波秀長、羽柴秀吉らと 柴田勝家、滝川一益らの 2大勢力に集約され、
ついに 近江国北部にある賎ヶ岳において 羽柴軍と柴田軍が激突します。
この合戦には、筆者在住の豊能町出身の武将高山右近も参戦しています。
今回は 町主催の合戦場見学ツアーに参加したレポートです。

 

 賎ヶ岳の戦いは、秀吉がライバル柴田勝家を破り、天下人への階段を駆け上がる出発点となった戦いですが、高山右近は、秀吉側の武将としてこの戦の最前線で活躍しました。
 この合戦は、加藤清正らの「七本槍」の活躍で有名ですが、この戦いにおいて周囲の山々に築かれたいくつもの城郭(というより「山上の砦」)は、城郭史研究において非常に貴重なものだそうです。

 北国街道が近江平野に開ける場所で、羽柴軍と柴田軍が長期にわたり「にらみ合い」をすることが、この戦いのスタートでしたので、街道をはさむ両側の山間部にはいくつもの城郭(砦)が築かれたのです。



 本能寺の変の後、山崎の合戦を経て清洲会議にのぞんだ織田家の家臣たちは、信長の次男北畠信雄、丹波秀長、羽柴秀吉らと、三男の神戸信孝、柴田勝家、滝川一益らの2つのグループに大きく分かれていきます。

 天正10年10月、羽柴秀吉は、信長の四男で秀吉の養子である秀勝を喪主にして、信長の葬儀を独断で強行します。これが秀吉と勝家の対立を決定的なものにしたといわれます。

 同年冬、北陸を本拠とする柴田勝家が雪のために動けない間に、秀吉は伊勢の滝川、美濃の信孝を攻め、柴田を孤立する作戦に出ますが、両者とも落ちないまま春が近づきます。雪解けを待たずに柴田軍が北国街道を南下してくると、秀吉は伊勢の滝川攻めから急ぎ帰り、近江平野で合戦を挑むべく長浜に本陣をおきます。このとき秀吉軍4万、柴田軍2万といわれています。

 ところが、柴田軍は近江平野へは出てこず、その手前で強固な陣を築き居座ってしまいます。兵力的に優位な秀吉軍とは平野部で戦わず、山間部に陣を敷くことで秀吉本隊を釘付けにして、滝川、信孝らと挟み撃ちにする作戦でした。

 一方の秀吉軍も、柴田軍が平野部に出てこれないように、余呉湖東岸に防御ラインを敷いた上で、弟の秀長に軍を預け、自らは本隊を引き連れ、挟み撃ちの先手を打って滝川、信孝を討ちに転戦していきます。



 このような両軍の作戦があったからこそ、この北国街道沿いの余呉湖の周辺には、数多くの城郭(山上砦)が作られることとなったのです。

 今日のルートとしては、まずリフトにのり、賎ヶ岳山頂(421m)に向かいました。山頂からは、北は余呉湖を挟んで秀吉の敷いた防衛ラインや柴田軍が陣を敷いた尾根、そして北国街道が一望に見渡せます(上写真)。また、南は北国街道の先に長浜の町がみえ、天気さえよければ近江平野が一望できたと思います。

 ここは桑山重晴が砦を築いた場所で、戦の後半では、秀吉が自ら陣取り、戦いの行く末を見守ったといいます。現在は展望広場が整備され、当時城郭があったことはほとんど窺い知ることができません。


賎ヶ岳の山頂の広場


山頂にある合戦武者像。結構リアル・・・

 賎ヶ岳山頂から、この戦いで全滅した中川清秀の陣跡(立派な墓がある)と高山右近の陣跡を通り、余呉駅付近までの約5kmほどの行程でした。

 中川清秀の陣跡には立派な墓標があり、広場として整備されていましたが、高山右近の陣跡は散策道からそれ、林の中を入らなければなりませんでした。そこには「土塁や掘割の跡」とおぼしき地形がわずかながら残っていましたが、講師の先生がいなければ、単なる林としてなにも気がつかず通り過ぎたことでしょう。なんせ400年も前のお話ですから。


中川清秀の大岩山砦跡。奥に墓標がみえる


高山右近の岩崎山砦の跡・・・らしい・・・

 ところで、賎ヶ岳の戦いですが、秀吉軍は味方の裏切りにより、本隊の不在と軍の陣立てが柴田軍にばれていしまいます。

 そこで、柴田軍の猛将佐久間盛政が、余呉湖西岸を夜陰に紛れ進軍し、賎ヶ岳東方の大岩山に布陣する中川清秀と、その先の岩崎山に布陣する高山右近の砦に襲いかかります。中川清秀軍は壊滅し清秀自身も闘死します。
 また、高山右近も窮地に陥りますが、このとき、後方に控えていた羽柴秀長は再三の援軍要請にもかかわらず、一兵たりとも援軍を差し向けることはしませんでした。

 中川軍と高山軍への奇襲成功したことと、背後には秀吉本隊が不在であることに勢いずいた、佐久間盛政は、柴田勝家の退去命令をきかず、さらに兵を敵陣奥深くに進めてしまいます。

 そこに駆けつけたのが大垣から13里(約50km)の道のりを5時間で走り抜けてきた秀吉軍本隊でした。
 加藤清正、福島正則ら秀吉の小姓だった若武者が先陣争いをして武勲を立てた「七本槍」の活躍もあって、逃げ遅れた佐久間軍は大敗を帰し、退路において秀吉軍を食い止めるはずだった前田利家は一度も戦わずに撤退してしまい、柴田軍は壊走してしまいます。


佐久間盛政は敵陣奥深く進入しすぎたため、秀吉本隊が到着したとき退却できませんでした。
<現地で手に入れたハイキングマップをベースに作成しました。>

 

 この戦いにおいて、中川清秀や高山右近からの再三の援軍要請にも、藤堂高虎などの家臣たちの出陣願いにも、一切耳を貸さなかった秀長の行動は、後年の歴史研究者達の様々な憶測を呼ぶこととなります。

 滝川征伐に遠征する際に兄秀吉が下した「決して動くな」との命令を、兄に忠実な弟秀長は頑なに守り通しただけ、との説から、秀長には、柴田軍が秀吉本隊が帰りつく前に撤退することが分かっていたので、敵を自陣奥深くにおびき寄せるために自らの判断で中川清秀を見殺しにした、との説まであります。
 いずれにしても、中川清秀の壮絶な死のおかげで、羽柴秀吉は天下をとれたのだといえます。

 

 賎ヶ岳山頂は、余呉湖側、近江平野側、琵琶湖側とそれぞれ違う3方向の景色を楽しめる、「パノラマ展望台」のような場所です。今日は小雨ぱらつく曇り空でしたが、天気のいい日にもう一度登りたくなる「お薦めの絶景スポット」でした。 

 

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