勝手気儘な 「らくがき帳」


まちあるきとは何の関係もない、
その時々に、興味を引かれて調べたこと、想ったり感じたりしたこと、
などなど・・・気が向いたときだけ、勝手気儘に、落書きします。

 

 

平成19年11月24日

機中から瀬戸内の島々に想うこと


最近、九州、四国方面に出張することが多くなり、飛行機に乗る機会が増えました。昼間の移動では必ず窓際に席を取り、眼下に広がる瀬戸内海の景色をずっと眺めています。

瀬戸内海に浮かぶ多くの島々には、漁村の街となっている島、巨大な造船場のある島、無人の緑の山として残っている島など様々なものがありますが、その中でもひときわ目につくのが、採石場となり削られて無残な姿晒している島です。




この写真は、播磨灘沖合い10kmにある家島諸島の西島と男鹿島(たんがじま)を写しています。
行政区分上は姫路市にはいっていますが、小豆島の東10kmほどにある独立しが島群で、昔から砕石を島の主産業としています。

瀬戸内の海は、古来から交通の要所として栄えていて、水運の要所としての湊が点在するだけでなく、塩飽や因島などの水軍(海賊)の基地や塩田、造船所、そして、石垣や墓石などの石材を産する砕石場が数多くあります。

たとえば、石材の産地を取り上げれば、高級石材「大島石」の産地として有名な伊予大島(愛媛県越智郡)、青木石の広島(香川県丸亀市)、北木石の北木島(岡山県笠岡市)などがあり、いずれも御影石の産地として全国的に有名です。
それらの島も、この写真のようになってるのかもしれません。

私も仕事で、瀬戸内の御影石を現場で使ったことがありますが、自分も島を削り取るのに一役買ってしまったのか・・・とやり切れない想いに駆られてしまいます。

 

 

 

平成18年10月21日

史実からみる名作映画   「グラディエーター」


 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスに忠誠を誓った将軍マキシマスは、マルクス帝から次期皇帝に望まれますが、その子コモドゥスはそれを嫉み、実父マルクス帝を自ら手にかけ、マキシマスをも抹殺しようとします。マキシマスは間一髪で逃れますが、故郷の妻子は無残に殺され、自分自身も奴隷商人に売られてしまいます。
 なんとか生き延びたマキシマスはグラディエーター(剣闘士)となって、観衆の前で死の闘いを強いられながら、復讐の時を待つのでした。

 この映画に登場するのは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとその息子で次期皇帝となるコモドゥスで、いずれも実在した人物です。

 マルクス・アウレリウス帝は、いわゆる「五賢帝時代」の最後の皇帝として有名で、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウスに続いてローマ皇帝に即位し、幼い頃よりストア哲学を修めた「哲人皇帝」として有名で、彼の著書の「自省録」は今でも全世界で読まれる哲学書でもあります。

 5人もの賢帝が続いた大きな理由には、皇帝が最適の人材と判断した者を養子として向かえ、後継の皇帝に指名したからといわれています。
 ところが、五賢帝の最後の皇帝マルクスは、実子コモドゥスを次期皇帝としたのです。

 世界的な歴史名著「ローマ帝国興亡史」を著したギボンによると、ローマ帝国の衰亡は皇帝コモドゥスの治世から始まったとしており、マルクス・アウレリウス帝が不肖の実子コンモドゥスを後継者にしたことは古来から批判の的となってきました。

 ローマ帝国史上で「悪帝」と呼ばれた皇帝には、第2代皇帝ティベリウス、第3代クラウディウス、第4代カリグラ、第5代ネロなどがいますが、彼らはいずれも初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の血を引く「貴種」でした。
 しかし、コモドゥスはこれに該当しないばかりか、五賢帝の後に血のつながりだけで皇帝になり、ローマ帝国を衰退に向けた稀代の悪帝とされています。

 ただ、賢帝の誉れ高いマルクス・アウレリウス帝が、皇帝に不適な息子と分かっていながらコモドゥスを皇帝としたことについて、後世の人たちは、様々な憶測を加えることとなります。
 人間にとっての正しい生き方の指針を哲学に求めたほどの人が、息子可愛さでそのような無責任は行為をするはずがない、というわけで、映画「グラディエーター」では、コモドゥスが後継者となり数年後に死んでしまう物語に、軍団司令官のマキシマスとコモドゥスの姉のルッチラを登場させます。

 ルッチラはコモドゥスの11歳年上の実在した実姉で、14才の時にマルクス帝の「共同皇帝」(「共同」の意味がよくわかりませんが、この時代にはよくあったことのようです)だった20歳年上のルキウスに嫁ぎ「皇后」の称号を得ています。
 映画の中でマキシマスがルッチラを「Your Majesty」と呼ぶのはそのためです。  事実としては、彼女はコモドゥスより2年も前になくなっているので、コモドゥスの死には関係がないのですが、しかし、夫ルキウスは結婚後に早々に亡くなり、弟の皇帝婦人に息子が生まれたため、自分の「皇后」としての地位が危ういことは感じていたので、反コモドゥス帝の中心人物としてうってつけでした。

 マキシマスも、実在したローマの将軍マクシミアヌスがモデルといわれています。
 映画と同様に、辺境の軍団長として戦った勇士だったようですが、映画と違い、マルクス・アウレリウス帝崩御から6年後に執政官となっています。当時、皇帝の強い推薦がなければ執政官にはなれなかったので、マクシミアヌスは当時の皇帝コモドゥスに忠誠を誓っていたことになります。
 映画では、マルクス帝の遺体を前にして、コモドゥスはマキシマスに手を差し伸べます。その手に接吻することが皇帝への忠誠の証だったのですが、マキシマスはその手もとらずに天幕からでていったため、暗殺者に命を狙われることになるのです。

 ローマ皇帝は、執政官のようにローマ市民の選挙で選ばれるようなことはありませんでしたが、国家ローマの主権者は、都市国家として誕生した歴史から、帝政となった後も引き続きローマ市民だったといわれています。
 そのため、コロッセウムにおけるローマ皇帝とローマ市民との接触はとても重要で、皇帝が万雷の拍手で迎えられれば、その政策は支持されていることを意味し、反対にブーイングか冷たい沈黙であれば、不支持ということを意味しました。
 不評が続けば、皇帝のチェック機関を自負している元老院に、反皇帝の理由を与えかねないため、ローマ皇帝は闘技に興味がなくともコロッセウムに顔を出すように努め、そこでの自分に対する反応にとても敏感であったといいます。

 映画の中でも、コロッセウムでの皇帝と市民との接触の場面が数多くでてきます。
 皇帝の自分に対する市民の冷たい視線と、剣闘士にしか過ぎないマキシマスに対して日々高まる期待感にコモドゥス帝は焦りを感じ、マキシマスとタイマンを張ることになります。

 いくらローマ市民に絶大な人気がある剣闘士といえども、ローマ皇帝が一対一で決闘するなど、映画としては盛り上がるかも知れませんが、現実的にはありえないことに思えます。しかし、逆にこれは史実に近いようです。
 皇帝コモドゥスは、自らをヘラクレスの化身だと豪語し、映画のように剣闘士としてコロシアムに出場するほどの剣闘好きだったといいます。ただ、コロシアムで殺されたわけではありません。

 また、父帝マルクスを殺して皇帝になったわけもありません。

 コモドゥスは、15歳でマルクス帝の「共同皇帝」となっており、この行為は当然、元老院の承認とコロッセウムでのローマ市民の歓迎をうけた上でのことでした。
 まだ少年だったコモドゥスには、失政を行う機会もなかったはずですし、マルクス帝にとって、実子コモドゥスを後継者にする以外に選択肢がなかった、というのが史実として正確なようです。
 また、マルクス・アウレリウス帝の死が、他殺であることはどの史書にも言及されていませんし、ましてや、コモドゥス帝が実父を暗殺したことを示唆する歴史的資料もないようです。

 

 

 

平成18年 9月 10日

史実からみる名作映画   「風と共に去りぬ」


 映画の冒頭で作者は語りかけます。
「 かつて ”古きよき南部” とよばれる地があった・・・」
 映画のヒロイン スカーレット・オハラが生きたのは、まさしく「古きよき南部」が崩壊していく時代でした。

 アメリカ合衆国は、1776年に独立宣言をした後、国土が西部へと拡大するとともに、商工業の発展した北部と奴隷制による大農園に立脚した南部は次第に溝を深めていき、政治的には北部の共和党と南部の民主党の対立という形にあらわれます。
 1860年、共和党のリンカーンが大統領に当選すると、南部は合衆国から離脱することとなり、両者は戦争へと突入します。

 スカーレットはこんな激動の時代を生きていきます。

 生まれ育った生活環境が激変し、既存の価値観がことごとく崩壊していく中で、数多の困難に直面しても、誇り高く、決してあきらめることなく力強く生きていくスカーレットの姿。
 ここに見るものの感動があります。

 しかし、冷めた見方をすると、この映画の描く南部は、この前文からも分かるとおり、南部の裕福な白人支配層にとっての「古きよき南部」つまりノスタルジーでしかありません。
 昔の南部のロマンチズムを賛美し、黒人に侮辱的、つまり「黒人は奴隷の状態で幸せだったのだ。」と映画を見る人を錯覚させるように描かれています。
 多くの人々が、奴隷制度の実態は、世に伝えらているほどひどいものではなく、実はこんなだったと思い込みたい、そのイメージをそのまま語るロマンチックな見方が問題だというのです。
 これは白人の深層心理において、とても従順で優しい黒人奴隷を描いた「アンクル・トムの小屋」と根っこは同じです。

 原作者マーガレット・ミッチェルの原作では、それがより生臭い形で出ています。
 スカーレットが貧民区を通るとき黒人に襲われるシーンやアシュレー達がKKKの集会に参加する場面が描かれ、黒人奴隷が解放されたことで、社会の秩序は乱れ黒人達は路頭に迷い、南部が危険な状態に陥ったとして、クー・クラックス・クラン(KKK)の誕生が、白人自衛のために止むを得なかった措置だとしているのです。

 ミッチェルの小説は、1936年の出版直後から驚異的な売り上げを記録し、世界各国で続々と翻訳され、翌年にはピューリッツァー賞を受賞、当時の発行部数記録を塗り替える歴史的なベストセラーとなりましたが、不思議なことにミッチェルは本作1作を書いたのみで、その後筆を折っています。
 ちなみに、それまでのNO1ベストセラーは1880年にルー・ウォーレスの発表した小説「ベン・ハー」でした。

 出版の3年後に公開された同名の映画「風と共に去りぬ」は、当時としては画期的な長編カラー映画であったことも手伝い、世界的なヒット作となり、アカデミー賞8部門を受賞しましたが、こちらでは「ベン・ハー」の11部門に及びませんでした。

 

 

 

平成18年 9月 10日

史実からみる名作映画   「ベン・ハー」


 1959年に公開された戦車競争シーンの有名な名作映画で、アカデミー賞11部門を受賞したハリウッド映画の金字塔といえます。

 物語の舞台は、ローマ帝国の支配化にあったユダヤ王国(現在のイスラエルとほぼ同じ)です。

 ユダヤ王国ヘロデ王は、キリスト誕生の1年後に死の床に就き、以降ユダヤはローマ帝国の一州として総督支配を受けます。
 物語は、2代ローマ皇帝ティベリウスにより第4代ユダヤ総督としてグラトスが派遣され、抵抗するユダヤ人に対して激しい弾圧が加えられる時代を描いています。

 ユダ・ベンハーは、アダムから数えて72代目にあたり、ヨシュア(モーゼに連れられてエジプトを脱出してからエルサレムに入城する時のユダヤ王)の同僚ハーの末裔で、ユダヤ王侯家と並ぶほどの名門ハー家の跡取りとされています。
 グラトス配下のローマ軍の隊長メッサラは、かつてのユダヤ総督だった父に従い幼少時代をユダヤの地で過ごし、ユダとは幼馴染みの関係にありました。

 総督グラトスに対する暗殺未遂の冤罪でユダ・ベンハーはガレー船送りとなりますが、海戦で将軍アリウスを助けたことで奴隷から解放されるばかりか、やがてアリウス家の養子となり、メッサラとの戦車競争に勝つことで、アリウスの親友でユダヤ新総督ピラトからローマ市民権が授けられます。
 ローマの貴族ピラトは、キリストが磔刑に処された時のユダヤ総督であったため、以降2000年にわたりキリスト教世界の悪玉として歴史に名をとどめることとなります。

 映画の原作は、1880年にルー・ウォリスが発表した同名の小説ですが、これには「キリストの物語」という副題がついていて、キリストの誕生と磔刑にまつわる物語に相当のページが割かれています。

 この小説は2つの物語からなっています。
 一つは、ユダ・ベンハーのメッサラに対する復讐と母妹との再会の物語。二つには、ユダが関わるイエス・キリストの物語です。

 映画では、後半に展開されるメッサラとの戦車競争のシーンばかりが有名になり大きく取り上げられていますが、ノーカット版の映画は全編3時間40分に及ぶ超大作で、そのうち約50分もの時間を割いて、ユダ・ベンハーの関わるキリストの物語が描かれています。

 ガレー船での海戦や戦車競争を中心に描いたスペクタクル映画を期待して見た人にとっては、少々退屈なシーンが多くあります。
 原作では、キリストの物語が、映画より一層大きなウェートを占めています。

 原作の冒頭では、3人の賢者が砂漠で流れ星を見る新約聖書の1シーンから始まり、ベツレヘムでのキリストの誕生、新王にまつわるヘロデ王と三賢者とのやりとりなど、キリスト誕生にまつわるエピソードだけで約30ページ(1960年発行の角川文庫版)を割いて語られます。
 これは、ユダがメッサラと再会し、グラトス総督暗殺未遂犯としてガレー船に送られるまでのページ数よりも多い。
 映画においても、冒頭の約5分間がキリスト誕生に関わる聖書のシーンが描かれ、スペクタクル映画の始まりとして見た人は少々違和感を覚えるはずです。

 また、戦車競争でメッサラに勝利した後、ベンハーが母妹の居場所をつきとめ、ユダヤの新王キリストのために奔走し、ゴルゴダの丘で磔刑に処され復活するまで、約90ページも割いています。

その中で、ベンハーはゴルゴダの丘で
「神よ。神よ。どうして私をお見捨てになったのですか。」
「すべてが終わった。」
という、新約聖書にあるキリストの有名な言葉まで聞いています。

 なんと原作全ページの1/3がキリストに関するエピソードで占められているのです。

 これは「ベンハーの福音書」といっても過言ではありません。


 福音書とは「よい知らせ」を意味する語で、ラテン語のエヴァゲリオンの和訳です。例えば、新約聖書の「マタイの福音書」とは、分かりやすくいうと「マタイの記したキリスト言動録」といえ、キリストの行動、言説を中心に記述されている物語のことです。

 新約聖書は27の独立した文書からなり、その大部分が4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)で占められています。

 最初の福音書は、キリストが磔刑にされてから30年近くたってから描かれたといわれています。つまり、キリストを直接知っている人、またはその人からの又聞きしたキリストの言動を文書にしたものです。
 キリストの教えは、彼のの死後に使徒達によってローマ帝国中に瞬く間に広がり、様々な人が、様々な場所で、様々な言葉で記述することとなりました。
 原始キリスト教において、聖典とされた福音書は数多く存在していましたが、ある時期に今の形にまとめられ、それ以外は「外典」とされ、時が経つとともに忘れ去られ、徐々に組織化され権威を持ち始めたカトリック教会により廃棄処分とされたといわれます。


 そんな外典が20世紀に入りつぎつぎと発見されました。その中で最も有名なのが「死海写本」と「ナグハマディ写本」です。

「死海写本」は、1947年から56年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの洞窟で発見されたもので、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれた様々な文書をヘブライ語などで写された800巻以上の宗教的文書のことです。
 「写本」の名のとおり、全巻が数百人の職業的筆記者(印刷機の無い時代存在した職業)により組織的に筆記されたもので、相当の財力を持った者が、当時存在していた様々な宗教書を何らかの目的で複写したものです。

 その中に、キリストとその教えに関する文書が含まれているのです。
 その中のいくつかの文書には、長年にわたりユダヤを弾圧してきたローマに対して、非常に闘争的な内容が含まれており、パレスチナにおけるローマ人根絶を熱望する思いが著されているそうです。  しかし、現在に伝わる正典「新約聖書」の福音書には、ローマ人がほとんど登場しません。ユダヤ人によるローマへの抵抗運動が盛んだった時代背景を踏まえるととても奇妙です。
 ローマ帝国全体で受け入れられるような、非ユダヤ的な当り障りがなく心地よい宗教を目指した。新約聖書の編集者または筆者はそんな意図を持っていたと推測されています。

 また、「ナグハマディ写本」は、1945年にエジプトで発見されたパピルスに書かれた複写文書です。
 様々な研究により、写本に記された内容は1世紀半ばから2世紀にかけて成立したギリシャ語の文書を、3世紀から4世紀にかけて修道院で筆記したものとわかっており、キリストの死後ローマ帝国中に彼の教えが伝わった時期とぴったり重なります。
 ここに、映画「ダビンチコード」で語られた「ピリポの福音書」や「マリアの福音書」と名づけられた文書が含まれています。

 話をユダ・ベンハーに戻します。

 マケドニアとの海戦に勝利し、海軍司令官アリウスの養子に迎えられたユダは、帝都ローマに凱旋し皇帝ティベリウスに拝謁するシーンが描かれています。
 ローマ帝国第二代皇帝ティベリウスは、初代オクタヴィアヌスの養子で、皇帝となる以前の名前は、実の父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロといいます。
 紀元14年からの在位は23年に及び79才まで生きた長寿の皇帝でしたが、財政引き締めのため皇帝主催の戦車競技会を中止し、元老院をないがしろにただけでなく、統治末期にはカプリ島に居を移し、親衛隊長ルキウスを通じて統治を行ったため、ローマ市民や元老院の人気は低く人気はなかったようです。
 三代皇帝カリギュラはティベリウスの養子ゲルマニクスの子で、四代皇帝クラウディウス、そして悪名高き五代皇帝ネロへと続きます。

 1880年に発表されたべスセラー小説「ベンハー」は、その後何度となく舞台で上演され、それまで3度にわたり映画化されていますが、4度目の映画化はMGMにより、かつてない54億円もの制作費が投入された大ヒットとなりました。
 映画はアカデミー11部門を受賞します。この大記録は『タイタニック』(1997年)、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2004年)がタイ記録を樹立するがまだ破られていません。
 当時は現在より部門数が少なかったので、こちらの方が上といっていいでしょう。

 

 

 

平成18年 7月29日

史実からみる名作映画  「チャップリンの独裁者」


 この映画は、チャップリン監督主演により1939年に撮影が開始され、翌年に完成、公開されています。40年は、ナチスドイツが破竹の勢いで勝ち進んでいた年でした。
 ナチスドイツは、オーストリア、チェコを併合した後、ポーランド、ノルウェー、スェーデンを占領し、40年6月にはパリを陥落させています。まさしくヒットラーとナチスドイツの全盛期に、この映画は公開されたのです。

 映画の中でチャップリンは、ヒットラーや側近のゲーリングとゲッペルス、そしてイタリアの独裁者ムッソリーニ達を徹底的にこけおろしています。
 この時代、世界で唯一安全だったアメリカでこそ撮れた映画だといえますが、それでも、撮影中も上映中も、ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けたといいます。

 物語の主人公は、トネニア国(ドイツ)の独裁者ヒンケル(ヒットラー)と瓜二つのユダヤ人の床屋です。
 将校服を盗んでユダヤ人収容所を脱走した床屋は、オストリッチ(オーストリア)国境でヒンケルと間違えられます。床屋は、何万人もの兵士、群集の歓喜の中で迎えられ、彼らを前に演説をせざるを得なくなります。

 第一次大戦で敗北したオーストリアは、ドイツと同様に経済的困窮に喘いでいました。その中で、ナチスドイツは多くのオーストリア人に歓迎され、ナチスによる自国併合の是非を問う国民投票では99%以上の賛成を集めたといわれ、歴史的にも映画とまったく同じ状況にあったのです。
 映画の中でのオストリッチ国の人々の歓喜は事実であり、演説によるチャップリンからのメッセージは、当時のオーストリア国民に向けられたものでもあったのです。

 この映画は2時間以上におよぶ大作で、全編パロディによる笑いに徹していますが、最後の約5分間だけはシリアスな演説シーンで締めくくられていて、映画はこのメッセージのためにある、といっても過言ではありません。

 床屋に扮するチャップリンは群集に語りかけます。


   独裁政権の下で苦しんでいる人よ。絶望するな。
   やがて民衆の力が芽生え、独裁者は滅びる。
   独裁者の下で操られている兵士、民衆よ。目を覚ませ。
   そして、ハンナ(世界中の人々)、いま希望の光が差し始めている。



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 この映画は、チャップリン初のオール・トーキー映画でもあります。

 トーキーが世界の映画界の主流となっていた時代、サイレントにこだわっていたチャップリンは、「街の灯」(1931)で初めてテーマ曲だけをサウンドで流します。
「モダン・タイムス」(1936)では、ラスト近くのレストランの給仕が即興で歌う場面で、彼は始めて発声して世界中を驚かせます。
 そして、「独裁者」では、ドイツなまりの厳しい声のヒンケルといかにも優しい声の床屋の二役を演じ、トーキーを使いこなして見せると同時に、最後の演説では自らのメッセージを自らの肉声で世界に伝えたのです。

 一方で、この演説はチャップリンがアメリカを追われるきっかけともなりました。

 戦争そのものを否定するこの映画は、戦争への道を邁進するアメリカの国策に反したため、後にアメリカ政府から執拗な監視を受けることになります。
 そして、戦争終結直後の47年に公開された「殺人狂時代」でそれは確定的となります。

 戦後のアメリカにおける赤狩りの時代において、映画「殺人狂時代」は、戦争を否定するだけでなく、戦争の名のもとに大量殺戮を正当化する国家をも批判しました。
 チャップリンは、非米活動委員会から共産主義支持者とみなされ、各地の劇場でも非難と上映ボイコットが相次ぎ、彼はアメリカを追われスイスに亡命し、以後30年間アメリカの地を踏むことはありませんでした。

 

 

 

平成18年 7月 1日

史実からみる名作映画   「プライベート ライアン」


この映画が語るメッセージは、

 死にたくない人間を 死ぬ場所に送り込む
 戦争というものの「理不尽さ」
 そして、若い兵士に訪れる「納得のいかない死」

だとおもいます。

そんな理不尽な状況の中で必死に生き抜いてきたミラー大尉が、ライアンに告げた言葉が胸にしみます。

 Earn this  − むだにするな −
 Earn it  − しっかり生きろ −

そして、このメッセージを表現する素材として、

 オマハビーチへの無謀な上陸
 ライアン二等兵の捜索

があるのではないでしょうか。

今回はこの2つについて史実から検証してみます。


□ オマハビーチへの上陸

 ノルマンディ上陸作戦のなかでもっとも危険な最前線だったのが、オマハビーチへのアメリカ軍の上陸と空挺部隊のグライダーと落下傘によるドイツ軍後方への降下でした。

 ミラー中隊は上陸の先陣部隊としてオマハビーチへ向かい、ライアン二等兵は空挺部隊の一員としてヌーヴィルに降下しました。

 映画の冒頭からいきなり始まる凄惨な上陸シーン。あの大殺戮の様相はあながち映画の誇大表現ではないようです。

 アメリカ軍、イギリス軍を中心とする連合軍は、ノルマンディの海岸を5つの地区にわけ、それぞれ、ユタビーチ、オマハビーチ、ゴールドビーチ、ジュノービーチ、ソードビーチと命名し、この5つの砂浜を上陸地点としました。
 この5つの地区のうち、オマハビーチでは2500人もの死傷者をだし、ほかの地区に比べて圧倒的に連合軍の戦死者の多い激戦地でした。


 それにしても、なぜあんな危険な場所に兵士を上陸させたのでしょうか。

 はっきりいって、あれは戦争ではなく、集団殺戮であり、アメリカの若者がドイツ軍の射撃演習の的になっただけとおもいます。
 そんな場所に、部下を送りこむ上官は尋常ではないし、そんな場所に、いくら命令とはいえ、上陸していく兵士達もどうかしています。




 大部隊が上陸できるような砂浜には身を隠すところがないため、狙い撃ちされる上陸部隊には大きな危険がつきまとうものです。
 そのため、通常の上陸作戦では、まず制海権、制空権を握り、艦砲射撃と空爆で海岸の地形が変わるほど爆撃して、海岸沿いの防衛陣地を壊滅させた上で、しかも、戦車や装甲車などの重車両を先頭に立てて、生身の兵士を上陸させるのがセオリーだと思います。

 なのに、なぜ映画のようなことになったのでしょうか。
 映画の原作や歴史資料などを読むと、次のような悪条件が重なった結果のようです。

 一つめに、オマハビーチの横にあったオック岬にドイツ軍の巨砲が設置されていて、それを恐れる余り上陸地点への艦砲射撃が不正確になり、敵陣地をつぶしておくことができなかった。

 二つめに、当時ノルマンディで唯一のドイツ軍精鋭第352師団が、たまたまここに陣取っていた。ここで、「精鋭」とは、幾つもの死地をくぐりぬけた根性の座った兵士達という意味です。

 そして、連合国海軍により事前に機雷が十分に除去されず、水上航走戦車が機雷のため途中で沈められ、わずか5台の戦車の援護しかえられないまま上陸せざるを得なかった。


 沖合い母船から浜辺まで、3時間も上陸用舟艇にゆられたアメリカ第一歩兵師団の兵士達に、こんなことは知らさせていなかったようです。

 上官からは、敵の重機関銃や迫撃砲は事前の艦砲射撃で破壊され、上陸時には戦車が前方を誘導し残った敵を蹴散らしてくれる、そして、浜辺には艦砲射撃であいた無数の穴があり、上陸後はその穴に身を隠すよう指示を受けていたのです。

 映画の原作にはこのあたりの事情が細かく表現されています。

 そして、ノルマンディの土を踏む前に、無数の若者達が「納得のいかない死」を迎えたのでした。


□ ライアン二等兵の捜索


 最前線の空挺部隊に送り込まれ、生きているか死んでいるか、それどころかどこに降下したかすら分からない、ひとりの二等兵を救出せよと、地獄の上陸作戦を「偶然にも」生き抜いた兵士達に理不尽な命令が下ります。

 しかし、この世の地獄を見尽くしてきたミラー大尉は黙々とこれに従います。
 その理由は、彼の口からラスト近くになって語られることになります。

「おれは変ってしまったのかもしれない。」
「家内にあっても、向こうは分からないんじゃないかと、思うことがある。」
「もう何もかも分からなくなってきたが、殺せば殺すほど、故郷から遠ざかるという気がしている。」
「ライアンなんて赤の他人だ。でも、彼を捜し出して早く妻のもとへ帰る。それが俺の任務だ。」

 洗っても洗っても、決して清まることのない手。若者達の血と部下達の血で染まった我が手を見つめるミラー大尉の姿に、やりきれない悲しみを感じずにはいられません。

 この理不尽な命令は、ライアンの3人の兄達がノルマンディ上陸作戦で相次いで戦死し、母親に最後の一人の息子まで失わせてはならないと、アメリカ軍最高首脳が命じたもので、第2次大戦における、サリバン兄弟にまつわる実話に基づいています。

 アイオワ州のサリバン家の4人兄弟は、当時、20歳から27歳で、1941年に全員が海軍に入隊し、全員が同じ船USSジュノーに乗船します。
 1942年11月13日、ガダルカナル攻防戦の最中、USSジュノーは日本軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没、4人全員が戦死します。

 サリバン兄弟の悲劇は、直ちに全米のマスコミによって大々的に取り上げられ、海軍は駆逐艦の一隻を「USS The Sullivans」と命名し、彼等の伝記映画「The Sullivans」は、1944年のヒット作品になりました。


 スピルバーグは、これらの史実を題材として、戦争の「理不尽さ」と若者達の「納得のいかない死」を表現したのです。

 

 

 

平成18年 6月25日

史実からみる名作映画   「サウンド・オブ・ミュージック」


 この映画は、第2次大戦前のオーストリア・ザルツブルグを舞台としています。

 修道女マリアが子供たちと深い絆で結ばれ、退役軍人で男爵のトラップ大佐と結婚するまでの明るい前半部分とは対照的に、後半部では、忍び寄るナチスドイツの暗い影が映画に緊張感を与えています。
 そして、ナチスを嫌う愛国者として描かれたトラップ大佐は、ドイツ海軍からの召集令状が届くにいたり国外逃亡を決意します。

 この映画は実話に基づくもので、トラップ一家はファミリー合唱団としてヨーロッパ中を演奏旅行しています。
映画は、戦後、マリアの著わした一家の物語を下地にして脚本化されました。

 立派な屋敷をもつトラップ大佐は男爵位をもちますが、映画中で子供たちが、「父の称号は第一次大戦での戦功によって得たもの」と言っており、由緒ある家名を継いでいた訳ではないようです。

 トラップ大佐ことゲオルグ・トラップは、武勲の誉れ高い軍人だったらしく、第一次世界大戦では潜水艦の艦長として多くの船を撃沈し、最後はUボート基地の司令官まで勤め、マリアテレジア騎士十字勲章をはじめ数多くの叙勲と男爵位を得た英雄的退役軍人でした。

 しかも、大佐の先妻フランシスは、蒸気機関の開発で名をはせ、「魚雷の父」とも呼ばれたオーストリアの産業王ロバート・ホワイトヘッドの孫娘で、トラップ一家は莫大な財産を相続していたため、映画のような豪華な屋敷に住むことができたのでした。

 また、当時の政治情勢をみてみると、トラップ大佐が亡命せざるを得ない立場にあったこともわかります。

 1938年、軍事独裁国家の道を歩みだしたナチスドイツはオーストリアを併合します。
 当時のオーストリアは、第一次大戦敗北後の経済的困窮状態にあり、ドイツでのワイマール共和制が十数年で成立から崩壊にいたったのと同様に、社会主義勢力が伸張した後に、いくつかのファシスト的勢力が権力闘争を繰り返していました。

 トラップ大佐が支持していたのは、ナチスドイツに併合される前のシュシュニック首相率いるオーストリア・ファシズムの政権でした。
 シュシュニック政権は、ナチスの暴徒に暗殺された前首相ドルフスの後継で、イタリアファシストのムッソリーニ政権の支援を受け、ヒットラーを後ろ盾に国内で急伸していたオーストリア・ナチス勢力に対抗していました。

 このことは映画の中では語られていませんが、パーティのシーンでトラップ大佐が、オーストリア国旗の色である赤白赤のリボンと、オーストリアファシズムのシンボル十字記章をつけていたことでこっそりと表現されています。
 また、屋敷内にオーストリア国旗を掲げていたことに対して、招かれたツェラー氏なる老紳士が苦言を呈していますし、トラップ家の執事フランツや長女リーズルの恋人ロルフがナチスに入党したとの場面もあり、映画は当時の時代背景を正しく表現しているようです。



 トラップ大佐はナチスに抵抗してオーストリアを守ろうとはしましたが、それはファシズム体制のオーストリアであって、自由や民主主義を守ろうとしたのではないといえます。
 また、彼の元に届くナチスドイツ軍からの召集令状は、権力闘争に敗れたかつての英雄的軍人に対して、ナチス陣営に入るよう促す最後通牒としての象徴的意味合いがあったのです。

 そしてついに、トラップ大佐はアルプスを越えてスイスに「政治亡命」することを選択します。

 蛇足でいうと、ザルツブルグは北西側でドイツと接し、南にそびえるアルプスを越えるとイタリアに入ることになり、スイスに亡命するにはアルプスを200kmほど縦断して西に向かうことになります。
 映画のように「Climb Ev'ry Mountain」と歌いながら、ハイキングのようにアルプス山脈を越えのではないようです・・・

 

 

 

平成18年 3月18日

「桜」について考える


 桜の季節が訪れました。

 気象庁によると、今年は冬が寒かったことが影響して、例年より開花時期が早まったそうですが、桜の開花で春の訪れを告げるのは、四季の移り変わりに敏感な日本らしい方法だとおもいます。


今回は「桜 −サクラ− 」について調べてみました。


■ サクラの開花予想

 サクラの開花やウグイスの初鳴きなど、生物で季節の移り変わりを調べることを「生物季節観測」といいますが、気象庁では23種もの動植物をその対象としています。

 ススキの開花日、イロハカエデの紅葉日やモンシロチョウが初めて見られた日なども指標のひとつだそうですが、その代表がサクラで、数あるサクラの品種の中で開花の指標としているのがソメイヨシノです。

 サクラの代名詞になっているソメイヨシノは、漢字で「染井吉野」と表わし、古来から日本にある山桜とは違い、江戸末期に自然交配によりできた園芸種のひとつです。

 ヤマザクラは種子により繁殖しますが、ソメイヨシノは接木により増やせるため、わずか200年ほどの間に全国津々浦々まで広がりました。また、遺伝的にきわめて均一なため、同じ場所なら咲くのも散るのも同時期、という特徴をもち、開花時の晴れやかさもあって、全国のサクラ開花予想に適した種とされました。


■ 山桜と染井吉野

 サクラとはサクラ類の総称で、日本に野生するサクラにはつぎの9種だといわれます。

・ヤマザクラ(山桜) ・オオヤマザクラ(大山桜) ・オオシマザクラ(大島桜) ・カスミザクラ(霞桜) ・エドヒガン(江戸彼岸) ・マメザクラ(豆桜) ・タカネザクラ(高峰桜) ・チョウジザクラ(丁字桜) ・ミヤマザクラ(深山桜)

 これ以外に園芸種、変種が200種類ほどがあるそうですが、野生種9のなかに、ソメイヨシノ(染井吉野)、サトザクラ(里桜)、ヤエザクラ(八重桜)といったよく耳にする桜が入っていません。

 サトザクラといわれるものは、「里の桜」の意味で付けられた園芸品種の総称です。オオシマザクラをもとにして、それにヤマザクラなどの他のサクラが自然交配したり、人為的に交配が行われたりしてできた品種群のことです。「サトザクラ」という品種名のサクラはありません。
 サトザクラの中でも八重咲のものを一般的に「八重桜」と呼び、これも総称にすぎません。

 ソメイヨシノは、すでに述べたように、江戸末期に生まれた園芸種の桜の一種で、江戸の染井(現在の東京駒込辺りの一画で江戸期における園芸の中心地)からでた桜ということでこう呼ばれました。

 明治期以降の研究では、吉野山辺りが出所ではないかといわれ、一時「ヨシノザクラ」とも呼ばれたのですが、戦後の研究により、ソメイヨシノはオオシマザクラの園芸種であることが確認され、その故郷は伊豆半島の天城山辺りではないかといわれています。

 ヤマザクラなど野生種のほとんどが、葉がつく前かあるいは同時に花が咲くのに対して、ソメイヨシノは葉がつく前に花が咲くので見栄えがとてもいいのです。
 また、葉が出ないうちに枝から花が咲きそろう、この「何もないところに花が咲く」という状態に、古来の人々は生命力の強さや神秘性を感じたのではないかと思います。

 全国的に有名な長命の桜は、ほとんどがヤマザクラかエドヒガンであり、日本三大巨桜に数えられる桜の寿命は、山梨県にある「山高神代桜」で1800年、岐阜県の「根尾谷淡墨サクラ」は1500年、静岡県の「狩谷の下馬桜」は800年といわれています。

 一般的なヤマザクラ寿命は100〜200年といわれ、それに比べソメイヨシノの寿命はおよそ50年程度と短命です。青森県弘前市の弘前公園にあるソメイヨシノは長寿で有名ですが、それでも樹齢120年程度といわれていて、このくらいが寿命の限界なのでしょう。


■ 吉野の桜と日本史

 桜の名所として有名な吉野山は、日本史における数々の歴史舞台となりました。

 吉野山の桜は古来より知られていて、平安期には古今集や拾遺集など多くの歌に詠まれることで、花の吉野山として有名になりました。

 吉野山は役小角(えんのおづぬ・役行者)が7〜8世紀に修験道の道場として開拓した山といわれ、吉野の桜は蔵王権現の神木として伐採を禁じられてきました。修験道の発展とともに桜も有名となり、長年にわたる保護と育成により数多の山桜とその変種が見られるようになったのです。

 平安末期の歌人西行法師は、奥吉野の金峯神社の近くに庵を結んで、三年間桜の中に埋もれるように暮らしました。吉野山の桜について数多くの歌を詠んでいますが、彼の残した辞世の歌でも桜を詠っています。

〜 願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃

(願いが叶うなら、桜花の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がいい)

 現在、西行が棲んだ跡が吉野に西行庵として遺っています。


 京を追われ吉野山に移った後醍醐天皇は、皇居とした吉水院において歌を詠み、京への思いを募らせながら、吉野山で52歳の生涯を閉じます。

〜 御吉野の 山の山守 こと問はん 今いくかありて 花や咲きなん

(吉野の桜と、わが人生の花は、いったいいつ咲くのだろうか)

 近世日本における桜の一大イベントとして、太閤秀吉による吉野の花見と醍醐の花見があります。
 この2つの花見は、日本一の権力者たる太閤秀吉の自己顕示と政治的デモンストレーションの発意の集大成でした。

 文禄三年(1594)春、関白秀次、右大臣晴季、大納言輝資などの公家にくわえ、徳川家康、宇喜田秀家、前田利家、伊達正宗などの数多くの大名を引き連れて行った吉野の花見において、ご満悦の秀吉はこんな歌を残しています。

〜 心ある風はふかじな吉野山 花の盛りを雪と見るまで

 慶長三年(1598)の春、今度は京都の南、醍醐において再び大規模な花見を行います。そして、この2ヵ月後に秀吉は病に倒れ、同年8月に63歳で息を引き取っています。


■ 桜と軍国主義

江戸期の国学者で歌人として知られる賀茂真淵は

〜 うらうらと のどけき春の 心より 匂ひいでたる 山桜花

 などと一連の桜の歌をうたい、山桜を山と心の象徴とした思想家でした。その思想は、門人の本居宣長によって引き継がれます。

 宣長は桜を愛し、桜花や吉野を詠んだ和歌を数多く残しています。その代表的なものに次の歌があります。

〜 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

 この「敷島の大和心を」は大和心の真髄を詠ったものといわれています。

 宣長は、朝日に映える美しい桜を見て、ただ無心に「ああ美しい」と感嘆すること、これが本当の日本の精神だといったのです。実に単純で分かり易く、かつ端的に日本人の美意識を表わした歌だといえます。

 しかし、昭和以降の軍国主義はこれを曲解してしまいます。

 潔く散る桜花を日本精神の真髄だとして、「同期の桜」のように「みごと散ります国のため」が大和心だとしたのです。

 それまで「ハナハト」であった小学一年生の読本は、昭和8年から
「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ   ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」
に変わります。
 桜の開花が軍国主義の伸長と同義に扱われ、ここから、桜花の散るがごとく、戦地での死が必然として美化されていったのです。

 明治2年、戊辰戦争の英霊をともらうため、東京九段に東京招魂社が建立され、明治12年に靖国神社と改称されます。その境内には桜が植えられ、やがて春になれば、それこそ極楽浄土のように桜花が咲き乱れるようになりました。
 戦地に向かう若者達は、死なば靖国の桜になって再会しようと誓いあい、遺族達は桜の咲く頃に九段の社を訪ね、桜が散るが如く逝った者たちへ哀悼を捧げたのです。
 桜が異界への媒体として昇華したともいえます。


■ 桜とJPOP

最近、JPOPで「桜」がブレークしているようです。

 「桜」そのものをズバリ曲名したものもかなりあり、2000年以降にリリースされたシングルCDだけを検索してみても、

『桜』  コブクロ  (2005年11月)
『さくら』  ケツメイシ  (2005年4月)
『さくら(独唱)』  森山直太朗  (2003年3月)
『桜』  河口恭吾  (2003年4月)
『桜』  bird  (2001年3月)
『Sakura』  川澄綾子  (2002年3月)
『Sakura』  nirgilis  (2006年3月)

と、これだけ出てきます。

 またアルバム収録曲なら更に増えるでしょうし、「桜の時」(aiko)、ちょっと古いが「桜坂」(福山雅治)、かなり古いが「チェリー」(スピッツ)のように、桜を曲名の中に取り入れたものまで含めると、かなりの数にのぼるはずです。


さくら さくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命と知って
さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
(森山直太朗 「桜」)

桜の花びら散るたびに 届かぬ思いがまた一つ
涙と笑顔に消されてく そしてまた大人になった
(コブクロ 「桜」)

さくら舞う季節に取り戻す
あの頃 そして君 呼び起こす
(ケツメイシ 「さくら」)

僕がそばにいるよ 君を笑わせるから
桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう
(河口恭吾「桜」)


 確かに、桜の開花の時と散る時の美しさは、強烈な視覚的イメージを私たちに残してくれます。
 また、開花期間が短く、一斉に咲き誇り、そして一斉に散るため、「華やかさ」と「悲しさ」を同時に感じさせるのです。
 そして、その時期がちょうど卒業式と重なり、桜の「咲く」と「散る」は、友人、恋人などとの「出会い」と「別れ」に結びついて、歌の題材としてはうってつけかもしれません。

 しかし、それは今に始まったことではありませんので、最近になって「桜」がブレイクした説明にはなっていません。
 はっきりいってよくわかりません・・・


■ その他の「サクラ」

桜 餅
 桜餅を包んでいる葉は、大島桜の葉を塩漬けしてあるものです。
 6月頃に葉が開き終わったものを摘み取り、サッと湯通しした後に塩漬けにしたもので、静岡県松崎町が産地として有名です。
 サクラの独特な香りはクマリン配糖体という香り成分で、塩漬けすることで葉っぱ内の成分が変化してできます。

桜 湯
 桜花の塩漬けは、お茶または湯に入れて茶碗の中で花びらが開くことから、祝い事に使われます。婚礼や見合いなどの席では「お茶を濁す」ことを嫌うため、お茶を用いずに桜湯を用いるのです。

チェリー
 観賞用の桜にも赤い実をつけるものがありますが、一般的に食用にはなりません。「サクランボ」という食用果実は、西洋系の品種であるセイヨウミザクラ(西洋実桜)からとれるもので、「桜桃」とも呼ばれます。

さくら
 演劇などにおいて、興行を成功させるために客席から大声を出すなどして出演者をほめるもののこと。役者の登場時に「まってました〜」とか、演奏終了時に「ブラボー」などが代表的な掛け声。歌舞伎においては「大向う」といい、オペラにおいては「クラック」とよばれます。

 

 

 

平成17年12月30日

「フィールド・オブ・ドリームス」について

 私の大好きな映画「フィールド・オブ・ドリームス " Field of Dreams "」について、まとめてみました。早い話が映画の紹介文&感想文です。
 公開されて15年近くたっているのに、今更とも思うのですが、むかし涙した映画は、いまでも忘れられないものです。
 ここからどうぞ  " Field of Dreams "

 

 

 

平成17年12月6日

この時期、ジョンレノンの「ハッピークリスマス」を聴いて思うこと

 12月に入り街角にはクリスマスソングがあふれるようになりました。街中に流れる多くのクリスマスソングの中に、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの歌う「ハッピークリスマス」があります。

 1971年ベトナム戦争真っ只中のアメリカで、ジョンとヨーコは平和をテーマにしたクリスマスソングを歌いました。
 "Happy Xmas Kyoko, Happy Xmas Julian"と、ささやく声でスタートするこの曲は、Kyoko(ヨーコと前夫との娘の京子)とJulian(ジョンの最初の妻シンシアとの息子ジュリアン)の二人へのプレゼントして作られたようです。
 「弱きも、強きも、黒人も、白人も、黄色人種も・・・」全ての人が戦争をやめてクリスマス、新年を迎えようというメッセージを、この歌は分かり易く伝えています。

 この歌には"War is over"というサブタイトルがついています。
 当初、日本で発売された時のレコードジャケットには、
「ハッピークリスマス 戦争は終わった」となっていたそうです。
 これでは、戦争が終わり(又は休戦し)、人種、宗教、階級等をのり越えみんなでクリスマスを祝おう、という意味になってしまいます。

 しかし、この訳は正確ではないように思います。

 曲の後半部分で流れるバックコーラスが、

"If you want it , war is over."

と歌うのですが、これは私流に意訳すると、
「みんなが望めば 戦争はなくなる」ということになります。
 確かに世界中のすべての人たちが平和を望めば、戦争は起こることはありません。これは平和の根本ではないかと思います。

 この歌は平和を希求する反戦歌であるにもかかわらず、それが忘れられて楽しいクリスマスソングとして能天気に歌われるを批判する人もいるようです。しかし、ひとりでも多くの人に歌い継がれていくことが、なによりも大切なことだと私は思いますし、これを作曲したレノンの願いでもあると私には思えます。

 この時期に「ハッピークリスマス」が流れると思い出すことがあります。 それは12月8日がジョン・レノンの命日だということです。

 12月8日夜10時50分(日本時間9日午後0時50分)ごろ、ジョン・レノンはニューヨーク市マンハッタンの自宅ダコタハウスの前で、5発の銃弾を受け命を引き取りました。40歳でした。
 撃った犯人はハワイ在住のマーク・チャップマン(25)という男で、その場でピストルを投げ捨て、全く抵抗せずニューヨーク市警に逮捕されたといいます。

 彼がジョン・レノンの殺害した動機について、はっきりしたことはいまだに分かっていないようです。
 マーク・チャップマンは妄信的なレノンファンだったにもかかわらず、犯行直前にダコタハウスの前でサインしてもらったときのレノンの態度が気に食わなかった、これが殺害の直接動機だという説がある一方で、チャップマンはレノン以外にも複数の歌手・女優・作家などにつきまとった単なる有名人好きストーカーだったという説もあります。
 中には、チャップマンはアメリカ政府機関によるマインドコントロールによって操られ、その意のままに当時アメリカ政府の要注意人物のリストに挙がっていたジョンを殺害したとの本まででています。

 ちなみに、チャップマンはレノンの殺害後、警察につかまるまでの間、J・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた言われていて、このことから、チャップマンの犯行に「ライ麦畑でつかまえて」が影響を与えたのではないか という憶測が飛び交っていた時期もありました。

 ジョンレノンの曲のひとつに「平和を我らに」という邦題のつけられた歌があります。映画「いちご白書」の最後に体育館に集まった学生達が歌った曲で、安保世代の人たちのバイブルともいえる曲だそうです。

 All we are saying is "give peace a chance"

 これを直訳すると、
「僕たちが言ってるのは、ただ”平和に機会を与えてほしい”ということだけなんだ」
ということになるのでしょうが、
 政治的、経済的、軍事的に力のない市井の人たちにとって、自分達にできる唯一のことを精一杯主張した言葉なのではないかと思います。

 テロと戦争が世界に蔓延している今この時にこそ、たとえ、理想、夢想といわれようとも、この曲は歌い継いでいくべきものと思うのです。

 

 

 

平成17年7月12日

ミュージカル 「 アニー Annie 」 について

 ちょっと前にミュージカル映画「アニー」を見ました。
 内容はともかく、映画の舞台となった時代背景やミュージカルサイトを見たときに、ちょっとした疑問がわきましたので、さっそく調べてみました。

 

疑問 その1
ミュージカル「アニー」のロゴマークに登場する女の子のアニメが
とても古い感じがするのはなぜか?

 ミュージカル「アニー」のロゴマークに登場するアニメのアニーは、ほとんどこの女の子になっています。実はこの女の子は1924年−なんと80年前!−にアメリカの新聞紙に連載漫画として初めて登場したときのアニーなのです。1932年にはトーキー作品として初めて映画化され、ベティさんと並んでアメリカにおける1930年代の人気キャラクターだったそうです。現在皆さんが親しんでいるミュージカル映画は1982年製作のもので、アニーが誕生してから60年もたってからになります。

ここで簡単にアニー年表を整理しておきましょう。

1924年
新聞漫画「小さな孤児アニー (Little Orphan Annie)」の連載が当時30才のハロルド・グレイによって始まる。


当時の漫画はこんな感じだった。

1930年
ラジオ ドラマがシカゴのラジオ局から放送開始される。

1932年
トーキー映画「Little Orphan Annie」が公開され、その6年後にも2回目の映画化がなされる。

1968年
ハロルド・グレイが死去。以降、5人の漫画家によって引き継がれ新聞連載は続いてゆく。

1977年
ブロードウェイでのミュージカル公演が始まり、その年のトニー賞を7部門で獲得しました。

1982年
おなじみのコロンビア映画「アニー」が撮影されます。アニーはアイリーン・クィンで当時9歳で撮影中に10歳になりました。

 80年前に始まった連載漫画「小さな孤児アニー (Little Orphan Annie)」の内容は、私達の知っているミュージカル「アニー」とは相当違うようです。
 アニーとウォーバックス氏の周りでミステリアスな事件が次々と起こり、パンジャブなどのこれまたミステリアスな人々の助けをかりて解決してゆく物語のようで、主な登場人物は次のとおりです。(画像は、左が原作アニメ、右が映画)

ウォーバックス氏  Warbucks
  

 Supineという小さな町で1894年生まれ(作者ハロルド・グレイと同じ)、鉄道員だった父親は彼が生まれてすぐに死んでいます。少年時代から町中ではかなりの悪だったようですが、11才のときに母親が腸チフスで死に、その葬式の晩、彼は長距離バスに乗り生まれ故郷を後にします。  工学系の大学に進みますが、生活費を稼ぐために遊ぶ暇もなく、働きづめの日々が続いたようです。やがて結婚したみたいですが、仕事に成功し金持ちになるにつれて、家庭は崩壊していったようです。

アニー  Annie
  
 厳格な規律を重んじるMiss Asthmaの孤児院にて幼少の頃から育てられるが、実は、孤児院のドアに置き去られた子供だったことがわかる。このアニー、見る漫画によって赤毛にも金髪にも見えます。(^^ゞ  もちろんサンディもでてきます。男の子達にいじめられていたところをアニーに助けてもらい、アニーとの生活が始まるところは映画と同じです。

パンジャブ  Punjab
  

 おなじみのボディーガードのパンジャブ。ウォーバックスの旧友のもとで働いていたが、アニーを守るために登場したスーパーパワーの持ち主・・・だそうだ。

アスプ  TheASP
  

 ウォーバックの右腕としてマジックパワーをもち、いつもきわどい時に現れて何度もアニーの命を救う。この人、映画の中では運転手のアスプ(中国人?)で、きわめて普通のおじさんです。

ミスターアム  Mr.AM
  

 何千年も生きていてる神のような人で、1973年、ギャング団に殺されたWarbucksとTheASPを生き返らせる。こんな仙人のような人は映画では登場していない。

 

疑問 その2
ミュージカルの中でルーズベルト大統領夫妻が登場し、
アニー、ウォーバックスとカルテットを歌うのはなぜ?

 ウォーバックスさんはアメリカを代表する大金持ちのようで、劇中でアニー探しをFBI長官に依頼し、ロックフェラー、デュポン、カーネギーを呼びつけ、名画「モナリザ」を風呂場に掲げるほどですから、ホワイトハウスに自家用ヘリコプターで乗りつけ、大統領夫妻と会うことも、そりゃー不思議ではないのでしょう。
 が、劇のストーリー展開としては、合衆国大統領の出番があれだけ長い必要もなければ、アニーやウォーバックスよりも、むしろ大統領夫妻が率先して「tomorrow」を歌いだすことも、どうも奇異な感じがして仕方ないのです。

 この疑問を解くには、ミュージカルの舞台となった1933年の時代背景と、その時のルーズベルト大統領の立場、そしてウォーバックス氏の存在意義を理解する必要があります。

 1920年代、アメリカは古来未曾有の好況を謳歌し、不動産と株のブームに沸いていました。バブル時代だったわけです。
 アニーの連載が始まった次の年から株価は異常な高騰を開始し、1929年9月までの4年間で株価は倍に跳ね上がったといいます。その年の10月24日、史上有名な「暗黒の木曜日」を境として、アメリカは市場最悪の大恐慌に見舞われ、全世界は不況の波に巻き込まれてゆきます。
 当時のアメリカ大統領は共和党のフーバーで財政均衡を重視するあまり(バブル後の橋本首相と似ている)無策を繰り返していました。1932年、民主党のルーズベルトが大統領に当選し、以降彼の進めるニューディール政策等によりアメリカは再生を果たします。映画アニーの舞台の1933年はアメリカ救世主のルーズベルトが大統領に就任した年なのです。

    
本物のルーズベルト大統領夫妻。映画の夫妻ととても似ています。ついでに右は原作者ハロルド・グレイ氏。

 第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、アメリカ東部の名門の出で、初代ワシントンよりの「大統領は二期で引退」と言う慣習を無視して−1期は4年−、史上唯一の4選を果たした大統領として有名で、1933年に就任後、第2次世界大戦末期の1945年4月に在任途中で亡くなるまで、12年間以上に渡り合衆国大統領の座にあった偉大な合衆国大統領の一人です。

 また、ウォーバックス(Warbucks)の名前は、"War"(戦争)と"Buck"(牡鹿又は猛々しい雄)が合体した言葉で、勇猛で豪傑の男みたいな意味なのでしょうが、"Buck"には俗語で"doller"(ドル)の意味もあり、「戦争成金」的な意味合いがあったのではないかと推測しています。1918年に終わった第1次世界大戦により廃墟と化したヨーロッパに代わり、新大国アメリカの繁栄をつくり億万長者になった産業経済界の偉人達のプロトタイプとしてウォーバックス氏は登場するのです。

 新聞の漫画連載が始まった1924年当時のバブル開始期のアメリカにおいては、孤児アニーが億万長者の養子になり、数々の冒険を繰り広げるこの物語は、好景気に登場したサクセス&アドベンチャー・ストーリーの一種ではなかったかと思われるのです。

 しかし、この物語が初めて映画化される頃には、時代は大不況期に入っています。アニーは、不況にあえぎ不幸に打ちひしがれるアメリカ国民を代表して、経済産業界の雄であるウォーバックス氏との強い心の絆を得て、救世主たる新しい大統領とともに、アメリカの明日への希望を歌うことになったのではないかと思われるのです。
 1930年代に映画化されたストーリーが、その後のブロードウェイミュージカル、そして私達の知るコロンビア映画に引き継がれたのだとしたら、映画の中でルーズベルト大統領夫妻がアニー、ウォーバックスとカルテットで歌った「tomorrow」は、アメリカの再生に向けての決意表明であり、不況であえぐ国民への希望のメッセージソングだったとも考えられるのです。

 ちょっと、考えすぎでしょうか・・・ (*^_^*)