知 覧   −石垣と槇垣 庭園の武家屋敷町−

遠望の母ヶ岳を借景として
ゆるやかに曲がる道沿いに 石垣と槇の垣根がつづき
それぞれの武家屋敷は 優美な枯山水の庭園をもつ
ここは 町そのものが庭園なのだ



 

 


 

町の特徴


 知覧は、江戸期に薩摩藩が自領に配した外城のひとつで、知覧郷の領主佐多氏の御仮屋(居館)とその家臣団の集落があったところです。
 それぞれの武家屋敷は枯山水庭園をもち、道沿いには石垣と槇の生垣がつづく町並みはとても美しい風景です。

 端から端まで歩いても10分程度で通り抜けてしまい、庭園を鑑賞しながらゆっくり散策しても1時間程しかかからない、とても小さな町です。
 しかし、相次ぐ戦火により古い町並みがほとんど残っていない鹿児島県下では、最も有名な歴史的町並みといえます。


 


 

100年前の知覧


明治、大正期の地形図が手に入りませんでしたので、今回はお休みです。

 


 

町の歴史


 知覧の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代当主で知覧領主の島津(佐多)久峰の時代に形成されました。

 江戸期、薩摩藩は領地を外城(とじょう)と呼ばれる113の郷に分け、直轄の郷には地頭仮屋を、私領の郷には領主仮屋をおき、それぞれ御仮屋(おかりや)を中心に麓(ふもと)という武家集落を形成しました。
 鹿児島城下町に武士団を集住させることなく、郷ごとに分散して統治にあたったのです。知覧もそれらの外城のひとつでした。
 領主または地頭の居館を「御仮屋」というのは、それぞれ本邸が鹿児島城下町にあったからです。

 江戸後期において、知覧には武家屋敷が約500軒で3500人程度、町屋は10軒未満で人口30人程度だったといいます。

 ところで、知覧は由緒の古い地名で、その初見は鎌倉初期までさかのぼり、その地頭職として佐多氏の名前が見られます。南北朝時代の文和二年(1353)にも、足利尊氏の下文に佐多氏の所領として知覧が記録されています。

 当時は、今の武家屋敷群から約1.5km南西にある知覧城を本拠として、城下町は現在の茶業試験場のあたりにありました。
 しかし、天正十九年(1591)十一代久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封となります。
 佐多氏が復帰する慶長十五年(1610)まで、種子島氏が知覧を治めましたが、その間に知覧城は火災にあい焼失したと伝えられています。

 復帰した佐多氏十二代忠光は、本拠(御仮屋)をここから約1km 西にある中郡地区に移します。そしてさらに江戸中期になって十八代久峰が現在の上郷地区に御仮屋を移しました。
 つまり佐多久峰が最後に形成した武家集落が、現在残るこの武家屋敷群となります。

 また、佐多と島津の二つの姓の関係は、佐多氏十六代久達から始まります。
 もともと、佐多氏は島津氏の分家筋に当たり、代々薩摩藩の重席にありましたが、久達の時代にそれまでの功績が認められ、知覧領の私領化と島津姓を許されます。
 これにより、佐多氏十六代久達以降は地頭職ではなく領主となり、佐多姓ではなく島津姓を名乗りました。

 明治維新以降、鹿児島に数多くあった多くの外城は、御仮屋の跡が役場や学校として再建され、麓が薩摩郡部の政治、経済、文化の中心地としてなりました、知覧はその典型例といえます。

 知覧麓において特筆したい景観は、上級家臣の屋敷に借景、枯山水の庭園が作られたことです。そして、庭園外周を槇の垣根が巡ることで、結果的に道路沿いに美しい槇垣の景観ができたことです。
 薩摩藩内に数多あった外城において、知覧以外にこのような庭園が造られたのはほとんどありません。

 知覧を有名にしたのは武家屋敷群のほかに、知覧茶と特攻隊基地があります。
 知覧茶は、明治以降に本格的な栽培が始まり、高級良質茶として全国にその名を知られるようになりました。
 また、太平洋戦争末期の沖縄戦では、知覧にあった飛行場は本土最南端の特攻隊の出撃地となり、現在では特攻平和記念館が開設されています。

 


 

町の立地条件と構造


 鹿児島から錦江湾沿いを南下し、平川から道を右手に曲がると急な坂道になります。標高340mの手蓑峠を一気に上りきると、眼下に錦港湾が一望でき、遠くに鹿児島市街地をはじめ、桜島、大隅半島、南には喜入の石油基地までが見渡せます。
 ここから道路は緩やかに下りとなり、左右に茶畑が見え、麓川の沿って進むと知覧の町にでます。

 今残っている知覧武家屋敷群の町並みは、麓川の南、亀甲城跡からに御仮屋跡までの、東西約900m、南北約200mの範囲です。

 町の北側を東から西に流れる麓川は、下流で万之瀬川となって、薩摩半島西岸の町、加世田で海に注いでいます。
 知覧麓は、南に山を背にして、東を亀甲城山が抑え、北と西には麓川が天然の外堀として配置されています。


 御仮屋は町の西端で今の知覧区検察庁の場所にありました。
 御仮屋の前の南北方向の道は城馬場とよばれ、これに直行して本馬場が東西方向に通されています。
 馬場とは、幅の広い道のことで、馬術練習に使われた道だったためこう呼ばれました。この本馬場を中心にして知覧麓の武家屋敷町は形成されました。

 道は防衛目的をもって造られ、本馬場と紺屋小路の十字交差点を除いて、残りはすべてT字交差で、道自体も屈曲していて、見通しが利かないようになっています。


 緩やかに曲がる道(本馬場)に沿って石垣と槇垣が連なり、生垣越しに見える庭木と瓦屋根、道から少し後退して構える腕木門、そして遠方の母ヶ岳が背景となって、とても美しい町並みを形成しています。



石垣と槇の生垣のつづく本馬場の町並み  母ヶ岳が遠望できる


 沿道の屋敷内には母屋の前に枯山水式の庭園が配され、このうち7つ庭園は国指定の名勝「知覧麓庭園」として、今も綺麗に保存されています。


左:西郷恵一郎氏庭園  右:平山亮一氏庭園  母ヶ岳を借景にして、イヌ槇の遠山と前方のサツキの大刈り込みだけの石積みを使わないとてもシンプルな庭園です。サツキの開花時期はとても綺麗だと思います。


平山克己氏庭園
これも母ヶ岳を借景に取り込み、大海原に浮かぶ島々と遠方に見える緑の大陸を表現している・・そうです・・・


 また、屋敷内には、沖縄によく見られる石敢當(魔よけの石碑)や、門の奥に屋敷内が見通せないように屏風岩(沖縄のヒンプン)があり、江戸期の貿易により琉球の影響を強く受けているようです。

 県道(現在のバス道)は明治22年に新しく開通した道で、その後順次拡幅されてきました。
 亀甲城の北側の麓川に石造の矢櫃橋が架かっています。
県道が麓川に架かる永久橋が築造される際に、その端材を利用して造られたといわれています。永久橋の石橋は架け替えられましたが、矢櫃橋は現存しています。


左:麓川  中:県道沿いに残る矢櫃橋  右:県道(バス道)歩道には鯉の泳ぐ水路と槇の街路樹

 


 

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森重堅氏庭園


枯山水ではなく、水と奇岩を使用した躍動感ある庭園です。母屋や土蔵は寛保初年(1741)に建てられたものだそう。
知覧ならではの公営住宅


木造、瓦葺、平屋で槇垣の公営住宅は知覧ならではのものです。決して古くはありません。麓川の北側にひっそりと佇んでいます。

 


 

 情報リンク

 

知覧町ホームページ



鹿児島県人会HPの知覧商会ページ

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.11


参考資料

@「知覧武家屋敷町並み」知覧町教育委員会

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「知覧」
A1/2,500地形図


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