長 府   −どこまでも 石垣と土塀のつづく 城下町−

海運の要所 関門海峡に面し 広い平野をもつ
長府は 古代から国府や探題がおかれ 長門国の中心地だった
時代の転換期に しばしば歴史に登場する この城下町は
石垣と土塀のつづく とても静かで 小さな町だった



 

 


 

町の特徴

 JR長府駅から国道2号線を西に向かうと、左に巨大な工場用地と右側にマンションが並び、城下町の雰囲気は全く感じられず、なんら特徴のない町に見えます。
 しかし、国道から少し山側に足を踏み入れれば、長州毛利藩の支藩・長府藩五万石の城下町の趣を色濃く残しています。
 緩やかな勾配の道の両側には石垣と土塀が続き、その上にみえる庭木と幾つか残る長屋門が武家屋敷の名残をとどめています。
 しかし、城郭や城主館、堀や石垣、町屋、屋敷などの建物がひとつも残されておらず、逆の言い方をすれば、土塀しか残っていない元城下町ともいえます。

 


 


 

100年前の長府

明治大正期の地形図が手に入らなかったので今回はお休みです。

 


 

町の歴史

 律令制の時代、長府には長門国(山口県西部)の国府がおかれました。これが長府と呼ばれるようになった由来です。
 その後、長門鋳銭司(すぜんじ・日本最古の貨銭「和同開珎(わどうかいほう)」の鋳銭所)や国分寺が設置され、中世には長門守護所、長門探題も設けられ、長門国における政治的、軍事的拠点として重要な役割を果たしてきました。
 特に、鎌倉後期の蒙古来襲を契機に設けられた長門探題は、六波羅(京都)、鎮西(福岡)とならぶ全国三探題のひとつで、海防の要として長府がいかに重要視されていたかを示すものです。

 平安期末、壇ノ浦の合戦で、源氏方は長府沖の満珠・干珠島に集結し、下関の引島(彦島)に陣を敷いた平氏と決戦を行います。
 一説には、この水域の潮流に詳しい長府・串崎の水軍が源氏方へついたのが、源氏方勝利の一因と言われています。
 平家滅亡後の文治二年(1186)、宇治川の先陣で知られる佐々木高綱が守護として長府に入り、中世の長府は、国府の代わりに守護所が置かれ、依然として政治の中心地としての役割を持っていました。

 その後、宇部を本拠とする厚東(ことう)氏や山口の大内氏が勢力を強めたため、政治の町としての長府は廃れ、忌宮神社の門前町としてその性格を変えていきます。
 神功皇后を祀る忌宮神社は戦勝祈願の社として有名で、延元元年(1336)には足利尊氏がここで祈願し湊川の戦いに望んでいますし、豊臣秀吉は九州征討時と朝鮮出兵時の二度にわたり忌宮で戦勝祈願を行っています。

 室町期に入り、厚東氏は大内氏により長府で滅ぼされ、その大内氏も天文二十年(1551)に最後の当主大内義長が毛利軍により長府の功山寺で自刃し滅亡します。

 中国一円を支配した毛利氏も、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で戦わずして破れ、防長二州に減封されます。
 同時期、毛利家当主の輝元は、元就の四男元清の子の秀元に対して、長府三万六千二百石(後に五万石)を与え、ここに支藩・長府藩が成立します。

 秀元は串崎城を修復して居城とし城下町の建設を始めます。これが城下町長府の始まりでした。
 しかし元和元年(1615)の一国一城令により串崎城は取り壊され、隣接地(現在の豊浦高校)に居館を移します。

 江戸期を通して、長府藩の財政状況は良好だったといわれています。
 検地のたびに石高は増え続け、長府藩の実力は公称五万石の2倍以上あったようです。
 また、長府藩に属する下関は、北前船の寄港地として約400軒の問屋が軒を連ね、ここからの収入も相当なものがあったといわれています。

 長府は、裕福な城下町として平和な藩政時代をおくりますが、幕末にいたり、維新策動の地として俄然脚光を浴びてきます。

 文久三年(1863)、長州藩は攘夷を決行し、下関海峡においてアメリカ商船への砲撃を行います。長府藩では攘夷戦に先がけ、海に突き出た形になる藩主の陣屋を、山手の覚苑寺に移し、さらに長府から離れた田倉の地に再び移転します。
 萩の本藩でも同じ頃、政庁を山口へ移しています。

 馬関(下関)での四国連合艦隊との攘夷戦、京を落ちた五卿の来府、御所蛤御門の変、二回にわたる長州征伐、と長州藩は激動と苦難の道をたどることになりますが、元治元年(1864)の年末、長府功山寺における高杉晋作の回天の義挙により、藩論は倒幕へと向かい、薩長連合成立をへて歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになります。

 明治以降、海運の要所として赤間ヶ関(下関)が繁栄するにしたがい、逆に長府の町は衰退することとなり、これが城下町の町並みの保存に役立ちました。

 明治34年に山陽本線の長府駅が開業し、大正15年には、長府松原から壇ノ浦まで海岸線に沿って路面電車が開通しています。(昭和44年廃止)
 昭和7年 忌宮神社鳥居前の海岸を埋めたて「長府楽園地」が開業します。この「楽園地」は、遊園地を始め、野球場、映画館、温泉湯、演芸館など当時としては珍しい一大レジャーセンターでした。
 しかし、昭和13年、戦時の色が濃くなり始めると閉鎖され、跡地には軍需工場として神戸製鋼所が進出します。  戦時中、下関は米軍の攻撃で焦土と化しますが、長府は軍需工場が立地していたにも関わらず戦火を免れ、長府城下町は維新戦争、太平洋戦争を通じて無傷でその姿をとどめることができたのです。  しかし、終戦直後の昭和22年、焼失戸数700以上を数える大火により、檀具川周辺の町屋は全焼してしまいます。

 


 

町の立地条件と構造

 下関市長府は、下関の中心地から東へ約10kmの位置にあり、人口3万人強の小さな町です。
 三方を標高300m級の山々に囲まれ、檀具川、印内川などによりできた複合的な三角州の平野です。
 関門海峡の瀬戸内海側の入り口部に位置し、江戸期長府藩においては、長府は政治の中心地であり、下関(赤間関)が貿易、商業の中心地でした。
 長門国(山口県西部)の中でも西端に位置する長府に国府がおかれていたのは、関門海峡の入り口部に位置し、広い平野部をもっていたことが要因だったのではないかと思います。


 町の沿岸部に広がる神戸製鋼やブリヂストンの工場と火力発電所などは明治以降の埋立地で、江戸期の海岸線は、現在の国道9号線からまだ内側に入った場所にありました。
 平野の真ん中に忌宮神社があり、南端には海に突き出した小高い丘の上に串崎城が築かれました。長府の城下町は、神社と串崎城をの間に形成されたのです。
 海岸沿いを通ってきた山陽道はここから山間部をとおり下関に向かいます。正確には山陽道の終点は長府でしたので、ここから先は下関(赤間関)往還といったほうがいいのかも知れません。


山陽道沿道で海岸線と壇具川に沿って町屋が形成されていたことが分かります。現在でも店舗の建ち並ぶ商店街になっていますが、往時の面影を残す古い町屋は全く残っていません。
 もともと商業の中心は赤間関(下関)であった長府城下町では町屋が少なかったのですが、昭和22年の長府大火(焼失戸数七百戸)でその町屋の大部分を焼失してしまったのです。


左:旧海岸線付近から見た忌宮神社  中:商店街になっている旧山陽道  右:山の手の山陽道沿いに残る土塀


 町屋地区をはさんで南北に広がるのが武家屋敷で、串崎城に近い南側が上級武士、北側が下級武士の屋敷町なっていました。
 長府の歴史的町並みが有名なのは、旧武家屋敷町に長屋門と土塀が残され城下町の雰囲気を今に伝えているからです。


 上級武家屋敷町にある侍町、下級武家屋敷町にあった古江小路、横枕小路には、連続した土塀が現存または復元されています。
 特に古江小路は、緩やかな勾配をもつ幅3m程度の道と排水側溝、両側には高さ1m程度の石垣とその上に土塀が続き、背後の松の庭木とあいまって、往時の武家屋敷の雰囲気をよく伝えています。


古江小路にある長屋門と土塀




横枕小路にある土塀


 旧串崎城があった場所は、今は小高い丘のように見えますが、江戸期には瀬戸内海に突き出した岩壁の岬だったはずで、城郭跡からは関門大橋や南側の発電所などの埋立地がみえます。
 串崎城は、慶長五年(1600)に毛利秀元が旧城を修復し、元和元年までの15年間しか城郭は存在しなかったのですが、現在、城の再建計画が立てられ石垣が復旧されています。



左:串崎城跡に復元された石垣   右:城跡から下関方面を見る 関門大橋(壇ノ浦)が真近にみえる

 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

功山寺 本堂


 本堂は元応二年(1320)の建立で、典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定されています。
 幕末期、第2次長州征伐のさなか俗論派の支配する長州藩に対して、高杉晋作はわずか80名でここ功山寺から決起します。この動きはやがて長州藩を、そして全国を倒幕へと向かわせたのでした。
とある長屋門

 町中になんとなくある長屋門
 観光ガイドにものってなく、案内もない。けどなかなか立派。
壇具川沿いの景観


 ホタルの生息する名所として有名ですが、川沿いの桜と土塀も見事なものでした。

 


 

 情報リンク

 

下関市 観光ホームページ



城下町 長府



長府観光協会HP


 


 

歴史コラム

 

高杉晋作 回転義挙の地 功山寺


 幕末の元治元年(1864)、長州藩では京の蛤御門の変や下関での四国連合艦隊との戦いの敗退により、藩内の尊皇攘夷の勢いが減速していました。
 その弱った長州藩を叩こうと、幕府による第二次長州征伐への動きが始まり、長州藩内は、幕府の動きを恐れるあまり、幕府支持の俗論派勢力が強くなります。
 藩政は椋梨藤太らの俗論派に動かされるようになり、尊皇攘夷を先導してきた者たちへの締め付けが激しさを増し、高杉晋作自身も筑紫へ亡命せざるを得ない状況になります。

 俗論派主導の藩内では、幕府の長州征伐を逃れようと、攘夷を主導した正義派家老3名の処刑を実施し、藩主は蟄居して謹慎の意を表することで、長州藩は尊皇攘夷の先駆的藩から後退してしまいます。

 そういった状況を知った晋作は、もはや逃げまわっているときでないと判断し、急遽下関に戻り、藩内の正義派(倒幕)政権の樹立を画します。
 山県有朋ひきいる奇兵隊をはじめ、かつて晋作が創設した諸隊を回り幹部に決起を促しますが、状況の不利を察して誰も賛同しません。

 しかし、そうした晋作の呼びかけに、遊撃隊の石川小五郎、高橋熊太郎、力士隊の伊藤俊輔(博文)、馬関滞在中の前原一誠など数名が同調し、総勢84名の決起隊が編成されます。

 12月15日夜半、雪の功山寺を訪れた晋作は、三条実美ら五卿に挨拶を行い、藩内の俗論派へ宣戦布告します。高杉は三条らに対してこう言ったと伝えられています。
「今から 長州男子の肝っ玉を お目にかけます。」

 そして高杉晋作は、三田尻(防府)での長州藩軍艦の奪取、奇兵隊との合流、大田絵堂で藩俗論派に勝利し、長州藩を再び倒幕へと向けさせます。そして、薩長同盟の成立、長州征伐(四境戦争)の勝利と続き、日本は維新に向けて大きく舵をきることとなるのです。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005年4月


参考資料
@ 「歴史散歩 城下町長府」昭和50年 古川薫 新日本教育図書株

使用地図
@ 国土地理院 地図閲覧サービス 「下関」


ホームにもどる