福知山   −水害と戦ってきた水陸交通要所の城下町−

福知山の町の東側を流れる由良川はとても雄大だ
この地は山陰道の陸運の要所だけでなく
由良川を通じて日本海沿岸ともつながる水運で栄えた
川は町に富をもたらしただろうが
それ以上に町をいくども濁流でおし流している
丘陵の上に建つ天守閣は 浸水する町を何度みたことだろう



 

 


 

町の特徴

 町中を歩いていて不思議に感じることがあります。
 福知山は戦国期に城下町として築かれ、江戸期には三丹(丹波、丹後、但馬)で一番の商都として栄えたといわれていますが、旧町屋に典型にみられる中二階平入り町家や丹波地方に多くみられる妻入り町家など、江戸期から明治初期にかけて建てられた古い町家がほとんど見当たりません。古くても大正期から昭和初期にかけての建物のようにみえますし、それもかなりの安普請のようにみえます。(すみません m(__)m )

 また、地形図を見ていても不思議に思うところがあります。
 東から流れてきた由良川が、町の手前でほぼ直角に北に流れを変えていて、川の流れ方がとても不自然にみえます。戦国期、明智光秀が由良川の氾濫するこの地に堤防を築き、城下町を開いたといわれますが、由良川の洪水により堤防は幾たびも破られ、その度に福知山の町は浸水し、家屋を押し流してきたようです。

 水運、陸運に恵まれたこの町は、蓄積した富を洪水で流され、また一から出直すことを、江戸初期からずーと繰り返してきたのです。

 福知山は、なんとも健気で根性のある町なのです。


下柳町付近の旧京街道の町並み

街道の丹後口(城下町の北側出入口)付近

 


 

100年前の福知山

 明治26年の地形図と現在の地形図を見比べてみます。

 東方向から流れてきた由良川が、北方向にほぼ直角に流れを変える場所に福知山の町は造られていることがわかります。
 明治期の地図をみると、川沿いの黒色の範囲が城下町の町屋で、その周囲を武家屋敷が取り囲み、城下町は三角形をしていて、その底辺(南側)に城郭があったことがわかります。
 鉄道福知山線が旧城下町の南側に敷かれたためか、市街地は由良川の南側に広がりました。鉄道と河川により、市街地と田畑がはっきりと線引きされています。

 城下町時代の町の骨格は、かなりよく残っているようですが、現在の地形図だけみると旧城下町は、ほとんど現在の町中に埋没しています。


 


 

町の歴史

光秀築城以前の福知山

 律令体制下、福知山の地は、丹波国天田郡として11の郷がおかれましたが、平安時代後半には天田郡のほとんどが皇室領などの荘園と化していました。
 鎌倉初期、のちに有力土豪に成長する大中臣氏、荻野氏、芦田氏などが、鎌倉から地頭などとして送り込まれました。彼らは武力を背景に権益を拡大し、荘園は序々に彼らの配下に取り込まれていきます。

 室町時代、守護のもとに在地の土豪らは組織化されていきます。丹波守護は仁木氏、山名氏と続いた後、細川氏が守護職を世襲することとなり、在地の守護代には多紀郡に本拠をおく内藤氏が任ぜられます。応仁の乱では、丹波の土豪は守護代内藤氏のもと東軍の細川勝元について戦いましたが、細川家が二分し内紛を起こすと、丹波の土豪達もそれぞれ勢力の伸長をはかり、その中で多紀郡の波多野氏と氷上郡の赤井氏が丹波の2大勢力として台頭してきます。

 永禄11年(1568)、信長の上洛に対して、波多野氏、赤井氏とも一旦は服従の意を表しましたが、やがて中国の毛利氏と結び反旗をひるがえします。しかし信長配下の明智光秀により、天正6年、八上城(多紀郡篠山市・福知山の南約20km)の波多野氏が、黒井城(氷上郡春日町・福知山の南約10km)の赤井氏がそれぞれ討たれ、丹波国は明智光秀により平定されました。光秀は、丹波支配のために亀山城(現亀岡市)を拠点として、丹後国との境界で水運、陸運の要所のこの地に福知山城を築き、本格的に城下町の整備に着手します。

明智光秀による築城と江戸期の城下町

 光秀は城下町を造るために、江戸期の記録に残る、長さ1.5km、高さ2mの堤防を築いて由良川の流れを変え、福知山町に地子銭(じしせん)免除の特権を与え、後に三丹(丹波、丹後、但馬)一と称される商都の基礎を作ったとされています。町の中央に鎮座する御霊神社はもともと稲荷社でしたが、江戸期にその御恩に報いるため、町人達が光秀を祭祀したものです。
 しかし、現実には光秀がこの地を支配した3年の間に、これだけのことを成し遂げたとは考えられていません。光秀の偉業を伝える江戸期後半の郷土史資料に、光秀以前から天田郡の豪族だった塩見氏により城郭の基礎が築かれてから、光秀以降の歴代藩主による城下町建設までもが、光秀に付会されたのではないかと考えられています。

 明智光秀の三日天下の後、杉原家次(北政所の伯父)が数ヶ月間だけ福知山城主となり、家次没後には小野木重勝が城主となりますが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、後に細川忠興に攻め滅ぼされます。その後、徳川家康の命を受けて入部するのが有馬豊氏で、彼は福知山城主であった20年の間に、本格的な城下町建設にのりだし、ほぼ現在の町の形状が整ったといわれています。豊氏が21万石で九州の久留米に栄転したのち、亀山から岡部長盛、摂津中島から稲葉紀通、刈谷から松平忠房が次々と城主の座にすわり、寛文9年(1669)に朽木植昌が遠く土浦から入部して維新まで代々城主を継ぐことになります。
 江戸期の福知山は、城下町として政治、軍事の中心であるとともに、京街道の宿場町として、また物資が集散する由良川河岸の港町として、三丹(丹波、丹後、但馬)の経済の中心として栄えました。「福知千軒」と言われた町屋は城下町の東側1/3ほどを占め、京町、呉服町など15町からなっていました。この町屋に居住する人口は約3000人、家屋はまさしく1000軒に上りました。

明治以降の水害と町の発展

 明治の廃藩により、他藩の城と同様に福知山城も取り壊され、堀は埋められ、土塁は崩され、ニノ丸は台地そのものが削り取られてしまいました。特に武家屋敷の荒廃は激しく、桑畑などの畑地になってしまったようです。

 福知山の成り立ちに大きな影響を与えた由良川ですが、明治29年、明治40年に町を壊滅状態にまで追い込んだ大洪水が発生しています。
 明治29年8月31日から9月1日にかけて、朝曄口の堤防が切れて町中を奔流が走りました。町屋地区では二階まで浸水し、旧武家屋敷の桑畑は一面海のようになったといいます。この時の水位は7〜8mといわれ、堤防の決壊は127か所に及びました。当時の人口5400人、戸数は1000戸に対して、死者200名、家屋の全壊188戸、破損、傾斜が563戸、二階までの浸水445戸に上りました。町中の家屋はほぼ全滅といっていい数字でしょう。

 明治40年の水害も8月末に起こっています。このときも水位は8mに達し、明治29年に修理した朝曄口・常照寺裏堤防も再び決壊し、床上浸水1354戸、流失152戸、全壊123戸、半壊42戸に上っています。ただし、明治29年の教訓を得て多少の準備があり、また駐屯していた軍隊の救出活動のおかげで、水死者は5人におさまっています。
 この2度の大水害を契機に、明治42年には現在の大堤防が完成し、大正5年には由良川中河原の砂利除去工事を行うと同時に町内の低地の一斉嵩上げ工事も行われました。御霊神社のなかに「堤防神社」なるものがあり、いかにも水害と戦ってきた町らしいです。

 福知山は現在でも交通の要所です。特に鉄道は福知山を中心にJR福知山線、山陰本線、舞鶴線、北近畿タンゴ鉄道宮福線が走っています。
 明治32年、京都鉄道鰍ェ京都から園部まで山陰線を開通させますが、保津峡の難工事で資金不足に陥り建設は一旦ストップします。一方、阪鶴鉄道鰍ヘ大阪から福知山まで現在の福知山線を開通させますが、日露間の国情悪化の影響を受け、ここから以遠は政府が直轄で工事することになり、明治37年には舞鶴までが開通し、同45年には山陰本線が開通することで、福知山は大阪、京都と山陰方面への鉄道交通の結節点となりました。

 このように、福知山は地勢的な立地特性から丹波地方の交通の要に位置し、現在も変らず丹波一の都市としての地位を占めているのです。

 


 

町の立地条件と構造

 福知山城は、市街地の南方から北東方向に舌状に伸びた丘陵地に築かれた城郭です。

 この丘陵地はもともと土師川の段丘面にあたり、それが平野部に突出した形で残ったため三方が崖状になっていますが、稜線上は標高40m程で幅約100mのほぼ平坦な地形となっています。
 丘陵先端部の城郭本丸からは、四方への視界と福知山盆地全体を望むことができ、土師川・由良川が自然の堀となる天然の要害の地にあたります。また、丹後、播磨そして京都への交通の分岐点として、軍事・戦略上最も要衝の地に位置するのです。
 福知山城は、京方面へも、日本海方面へも、遠くまで見渡せる視界抜群の丘陵地上に立地しているのです。そして、その鼻先をかすめて流れていた由良川を手前で堰き止めて流路を変えて、そこに城下町を建設したのです。


 ところが、堰き止められた由良川は、一筋縄ではいかない特性をもった河川だったようです。

 由良川は、三国ヶ岳(京都、滋賀、福井の府県境、標高959m)を源流として、京都府北部の山間部を西流して、福知山で北に流れをかえたのち若狭湾に注いでいます。その流域面積は1,880km2(全国30位前後)で、京都府域の約40%を占めています。
 源流周辺での標高は500m以上もあるのに、河口までまだ40km近くもある福知山までくると標高10メートル程度にまで下がります。福知山から河口までは極端な緩勾配となり、流れが非常に悪くなるのです。
 また、由良川は流域の90%を山地が占める代表的な山地河川で、福知山盆地の平野部をすぎると、河口までは再び両岸に山地が迫まる渓谷を流れることになり、この点でも流れは悪くなるのです。

 つまり、福知山盆地は由良川の水が下流に流れにくい場所であり、氾濫原にあたるのです。その中で、由良川が土師川と合流し、流れを大きく変える場所に城下町は建設されたのですから、福知山が洪水に悩まされるのは城下町建設当時からの宿命ともいえます。


福知山城(郷土資料館)内展示の模型を撮影し説明記載


 城下町は城郭の北側に三角形の形で広がり、由良川沿いの東側が町屋地区、西側が中下級の武家屋敷であり、東の由良川を天然の堀にみたて、西に守りを厚くしています。由良川沿いの道が京街道(山陰道)だったため、京方面には「京口」、丹後方面には「丹後口」があり、それぞれ木戸と番所が置かれていました。

 有馬豊氏以降の歴代の藩主達が城下町の絵図を残していますが、それを見る限り城下町としての形態は有馬氏の治世にほぼ完成しています。松平氏の治世に、城郭北側の丘陵地続きに足軽屋敷が新たに広がりますが、朽木氏の絵図では石高の減少もあってか、この足軽屋敷は縮小されています。


 明治42年の大堤防の建設により姿を消しましたが、それ以前は由良川に面して船着場が2ヶ所あったといいます。上船渡は明覚寺の裏手に、下船渡は広小路通りの東詰めにあり、水害時の写真をみると川べりに石造りの船着場があり、旧堤防の上には倉庫群がみえ、水運が明治期も盛んであったことがわかります。
 元禄12年(1699)の大火の後、城下町中央部に広小路が造られました。幅員27mのなかに2m巾の用水路を通した火除地ですが、江戸後期に水運の中心が下船渡に移るにしたがい、広小路には大きな商家が軒を並べ、旅客相手の茶店や旅宿が進出し広小路は福知山の顔になっていました。明治以降も広小路には、映画館、劇場3館が揃い飲食店、カフェなどが建ち並んで周辺地域の一大歓楽街だったようです。


現在の広小路(左2枚)  御霊神社(右から2番目)  境内に祀られる堤防神社(右)


 明治期以降、福知山の町は城下町の由良川にそって北東側と南西側に大きく市域を拡大します。その原動力になったのは軍隊、繊維、鉄道の3つの施設でした。

 明治30年頃、陸軍第20連隊が福知山に駐屯し、軍事関連産業や兵隊達の娯楽産業により町は活況を呈します。大正期には、郡是(現グンゼ)と鐘紡(現カネボウ)の繊維工場が建設され、同時期の国鉄の鉄道事務所が開設されます。特に国鉄の福知山事務所(後の鉄道管理局)は、昭和40年の時点で職員5000人をかかえる北近畿最大の企業として、福知山の発展に大きく寄与しました。

 旧城下町を歩いてみても江戸期の町の面影はあまり残されていません。
 明らかに残されているのは、城郭(本丸、伯耆丸)と町屋地区の道ぐらいのものです。

 城郭は、南から北に舌上に伸びた丘陵地上に本丸、二の丸、伯耆丸(三の丸)、内記丸と連続して配置されており、本丸と伯耆丸は今も現存していますが、二の丸、内記丸は明治以降に削り取られて地形すら残っていません。残された本丸には昭和61年に再建された天守閣が、伯耆丸は史跡公園として人々の憩いの場所となっています。

 町屋地区の道は城下町時代と変らず残されており、江戸期の城下町絵図とぴったり一致しますし、丹波口の跡には鍵状に曲がった道路形態も残されていて、そこには金毘羅さんを勧請した神社がありました。


由良川対岸の堤防から望む天守閣。右に見える建物は市庁舎。


(左)丹波口の跡に残る鍵状の道路と金毘羅神社
(右)旧町屋(向こう側)と武家屋敷跡(手前側)の境界部
明治以降に町屋の道路を旧武家屋敷跡にも延長したが、道幅はかなり広くなっている。 


 しかし、堀、土塁などの城下町の内外を区分していた地形地物や江戸期の商家や武家屋敷などはほとんど残っていないようです。

 旧武家屋敷の地区や城下町外の地区の道路割りは、町屋地区の道路配置を延長する形でできていますので、どこまでが江戸期の道路なのか、その境界がはっきり分かりません。町屋地区は確かに密集し道路沿いに隙間なく軒を並べていますが、江戸期の町屋にある「中二階」の町家や丹波地方に多い「妻入り商家」はほとんど見られません。町屋地区から旧武家屋敷地区、城下町外に歩いていくと、道路巾も広くなりますし、建物の密度も疎らになりますし、建物も新しくなることははっきりと分かるのですが、町の成り立ちなどを事前に勉強して歩いているにもかかわらず、なかなか江戸期の町の面影を見つけることは難しかったです。

 寺院は城下町建設当時からの場所に今も静かな佇まいを見せてくれますが、これも由良川洪水で被害を受けたのでしょう、あまり古いものには見えませんでした。ただし、御霊神社の本殿はかなり古く明治の水害以前のもののようです。

 明治維新以降、福知山の町は旧城下町から西方向に拡大していったようです。

 山陰本線の福知山駅は城郭の西に設置され、その前のロータリーから北に一直線に伸びる並木道の4車線道路が伸び、商業業務の中心地はこちらに移っています。市街地の南西部には国道9号線のバイパスが通っていて、今も変らず京都、大阪と山陰地方を結ぶ国土幹線道路として機能していますが、沿道にはロードサイド店舗が林立したせいか、交通渋滞もかなり激しいようです。駅前の道路が渋滞を避けるためなのか、旧京街道を通り音無瀬橋から綾部方面にで抜ける車が多く、旧街道はおちおち写真も撮っていられないほど交通量が多かったことが残念で、堤防上の道路を拡幅するなどの対策が必要に感じられました。


(左から)商店街になっている上下新町。寺町の町並み。駅前の並木道の大通り。旧城下町外のまばらな町並み


 


 

まちなみ ブックマーク

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福知山城天守閣

 昭和51年に再建されたものですが、天守や本丸は歴史的な雰囲気がでています。
 内部は郷土資料館になっていて、城下町絵図は城郭模型などが豊富に展示されているので、城下町の歴史勉強にも最適です。
 最上階は福知山の町が見下ろせるのですが、外観を忠実に再現したためか、開口部は狭くパノラマ景観というわけにはいきません。
下新町にある商店街沿いの旧家

これほどの重厚感はおそらく福知山一でしょう。
谷垣酒店 (菱屋町)

福知山にはめずらしい「中二階の町家」 だとおもう・・・
外壁は塗装され、サッシュが入っていて、外観は往時をまったくとどめていませんが、中をのぞくと、かなり古い町家だと感じます。
由良川堤防上(音無瀬橋西詰)からみた天守

福知山城本丸が丘陵地の先端部にあることがよく分かります。
この位置から見た天守閣はもっとも存在感があります。

 


 

福知山 情報リンク

 

福知山市ホームページ


丹波福知山 街角探検隊

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.06.16


参考資料

@「福知山城の歴史」福知山郷土資料館
A「福知山・綾部の歴史」郷土出版社
B「福知山ドッコイセの街 歴史散歩」福知山商工会議所
C「由良川歴史散歩」福知山郷土資料館
D「福知山市史」


使用地図
@1/25,000地形図「福知山東部」「福知山西部」平成13年修正


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