伏 見   −酒造の町の起源は 秀吉による新都市建設−

水面に映る酒蔵が美しい酒造の町
伏見は太閤秀吉による壮大な新都市建設によってできた
京の玄関口として 幕末期には歴史ドラマの舞台にもなり
いまでも 城下町建設当時の町の骨格をよく残している


 

 


 

町の特徴

 伏見の町のまちあるきには、2つの視点があると思います。

 ひとつは 酒蔵の町「伏見」のまちあるき

 かつて、三十石船や高瀬舟が往来した運河の水面に映る酒蔵、一階の板壁と中二階の白漆喰、そして軒の水平ラインが連なる道路沿いの母屋は、まるで時代劇の舞台のようでもあり、その美しさは創られた景観のようにも感じられます。

 そして、いまひとつは 秀吉のつくった新都市「伏見」のまちあるき

 伏見は、天下人秀吉が建設した大坂と並ぶ2大城下町のひとつでした。
 ただし、町中を歩くだけではその姿は見えてきません。
 城郭も堀も石垣も それらしきものはまったく残っていないからです。
 しかし、明治期の地形図をみると、秀吉流の城下町構成の名残や大土木工事の跡が随所に見られ、いまの道路構成は城下町建設当時のものとなんら変わっていないことが分かります。

 現在の酒造の町「伏見」は、秀吉の新都市の遺構上にできているのです。

 


 


 

100年前の伏見

現在の地形図と100年前(明治42年)の地形図を見比べてみます。

 明治期まで繁栄した伏見の町屋地区は、東は京阪丹波橋駅から西は新高瀬川、北は近鉄伏見駅から南は京阪中書島駅までの範囲であり、現在の鉄道(JR奈良線、京阪本線、近鉄奈良線)が、旧町屋地区の東端に通されたことが分かります。
 明治期の地形図には、東側の丘陵地に地形を無視したグッリドパターンの道路が見えますが、これは城下町建設時の旧武家屋敷の名残のようです。ここは江戸初期には荒地や田畑に戻っていたはずなのですが、江戸期300年を通して道路パターンが残っていることがとても不思議です。

 


 

町の歴史


 伏見はかつて「伏水」と表されていたらしく、古くは藤原頼道の三男俊綱が山荘を建てたり、後白河上皇が伏見殿を造営したという記録が残され、宇治、山科などと同様に、京の郊外別荘地の位置づけだったようです。

 戦国期、天下を手中にした豊臣秀吉は、関白職を秀次に譲った後、隠居所の建設と李氏朝鮮からの講和使節を迎えるため、小椋池の北岸の伏見丘陵に壮大な城郭を建設し、同時に城下町を整備しました。

 これが伏見の町の発祥です。

 秀吉の行った大土木工事は、築城だけにとどまりませんでした。

 琵琶湖から流れてくる宇治川は、宇治で小椋池に流入していましたが、堤を設けて小椋池と切り離し、宇治川を水運路として伏見に湊を作りました。
 また、淀川と宇治川に堤(文禄堤)を築いて、京、伏見と大坂をむすぶ京街道を整備し、小椋池の真ん中に堤防を築き、奈良から京への大和街道を伏見に導きます。
 このように、京、大坂、奈良を結ぶ水陸運の拠点として伏見を位置づけたのです。

 その中心にあった伏見城は、伏見丘陵を中心として1km四方に渡る城郭をもっていました。その本丸跡は、現在の桃山御陵(明治天皇陵)のあるところで、戦後に建築された現伏見桃山城とはまったく別の位置にあります。
 本丸の西には二の丸、三の丸、治部少丸(石田丸)があって、そのほか、名護屋丸、松の丸といった数多くの出城をもっていたといわれます。

 また、その周囲には200以上の大名屋敷がひしめいていました。
 その名残が今に伝わって、伏見の町には、福島太夫、毛利長門、松平筑前、金森出雲といった地名がいまだに用いられており、かつて、福島正則や毛利一族が住んでいた屋敷跡で、今では住宅地になっています。
 このほか、肥後町、丹波橋、阿波橋などといった大名ゆかりの地名がとても多く、他にないこの町の特徴といえます。

 秀吉亡き後、伏見城は徳川家康の管理下におかれることになりますが、関ヶ原の戦いを前に、石田光成ひきいる西軍数万の大軍により、伏見城は兵火に包まれることになります。

 関ヶ原の戦いの後、家康は伏見城の再建に着手し、慶長8年には、完成まもない伏見城で征夷大将軍の宣下式を行います。
 その後、わが子秀康を城主として近畿一円の押さえの役を勤めさせ、大阪冬の陣、夏の陣では徳川軍はここを拠点としてますが、豊臣氏が滅ぶと伏見城の役割はなくなります。
 むしろ、幕府のある江戸から遠く離れた伏見の地に、難攻不落の巨城があっては都合が悪かったのかも知れません。

 三代将軍家光は、自らの将軍宣下式を伏見城で執り行った後、城の破却を命じます。
 それこそ、石垣の石一つも残さず取り除かれ、完全に地上から構造物を消し去ります。遺構の一部は、江戸城、二条城などに運ばれ、江戸城中にある伏見櫓はそのひとつといわれています。

 城はなくなりましたが、その頃すでに一大商工都市となっていた伏見の町は残りました。

 西国から瀬戸内海航路によって運ばれてくる人と物は、天満の八軒屋(現天満橋付近)で三十石船に積み替えられ、淀川を上り伏見湊まで運ばれてきます。
 ここで再び積み替えられ、京都方面へは京街道、または高瀬川を北上し、奈良方面には大和街道を南下することになります。

 このように、伏見は西国、大坂と京、奈良を結ぶ物資の集積拠点となり、宿場や市場、蔵や両替商の豪邸が建ちならぶようになったのです。
 江戸中期には263町、6300戸の家屋が軒を並べていたといわれています。

 幕末期、徳川幕府消滅の端緒となった鳥羽伏見の戦いにより、伏見の町屋の多くは焼け落ちますが、本当の意味で伏見の町を大きく変えたのは、明治以降に始まった鉄道の開通でした。

 明治10年に神戸、京都間に東海道線が開通、13年には伏見稲荷、山科をへて大津へ延伸し、22年に東京まで達すると、伏見の繁栄の基盤であった水運は俄かに衰退し、伏見の町は水運拠点の商業都市から別の顔を持ち始めます。

 そのひとつが陸軍の町です。

 明治30年頃から深草に陸軍の連隊司令部などが設置され始め、第16師団司令部が現在の聖母女学院におかれました。その頃の地形図には、伏見の北東部の田園地帯や丘陵部に兵舎や連兵場、射撃場が数多く見られます。

 もうひとつが酒造の町でした。

 伏見東部の丘陵から湧き出る良質の軟水と、大坂、京都の2大消費地に近かったことが、伏見を日本有数の酒造地としたのですが、江戸期の伏見は灘、伊丹に大きく水をあけられ、鳥羽伏見の戦いにより壊滅的な打撃を受けます。
 明治以降、伏見の酒造は大きく躍進し、明治末期には天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになり、伏見の町といえば運河の水面に映る酒蔵というイメージが定着したのです。

 


 

町の立地条件と構造


 戦国末期、天下を手中にした豊臣秀吉は、京、大坂など畿内を掌握する拠点として、大坂と伏見に新都市を建設しました。


 太古の昔、大阪湾は今の枚方のあたりまで入り込み、南から半島のように突き出していた上町台地の北端で、淀川と大和川が合流していました。

 戦国初期、その場所に築かれたのが石山本願寺で、信長による焼き討ちのあと、秀吉はそこに大坂城を築城しました。

 大和盆地全域を流域とする大和川は、柏原で大阪平野にでた後、現在のように真っ直ぐ西進して大阪湾に注ぐようになったのは江戸期になってからで、それまでは河内地方を北進して大坂城の北で淀川と合流していたのです。

 大坂は、京と奈良につながる水運の結節点にあり、同時に瀬戸内海を大動脈とする西国の水運の終着点でもありました。

 ここに秀吉は難攻不落の大坂城を築き、その西側の湿地帯には、江戸期に天下の台所とまでよばれる大坂の城下町をつくりました。

 同様に、琵琶湖から流れ出る宇治川、京都最南部を流域とする木津川、丹波から保津峡をとおり京都盆地西部を流れてくる桂川、そして京の鴨川。
 これらの合流点が、天王山と八幡丘陵に挟まれた山崎であり、その上流側に造られた町が淀でした。

 秀吉は、淀の宇治川上流に、伏見城と城下町を建設し、大坂と伏見の間に水運(淀川)と陸運(京街道)を整備したのです。



 明治末期の地形図から伏見の町をみてみます。
 分かり易くするために、現在の京阪電鉄と近鉄奈良線の路線と主要駅を描きいれてみました。

 現在、宇治川の南、久御山町向島あたりには、広大な干拓地と真新しい向島団地が広がり、そのど真ん中を京滋バイパスが貫通していますが、明治末期まで、この辺り一帯は小椋池という大きな池でした。

 伏見城の城郭と武家屋敷は、京の東山から伸びた南端の丘陵地に配置され、天守閣からは大坂、京、奈良からつづく街道や河川を通る人や物、そして軍の動きが一望できたはずです。


 秀吉は、小椋池を分断するように三つの堤防を築造し、伏見を水陸交通の拠点としました。

 一つめの堤は、水深が浅く常に浚渫の必要があった小椋池から宇治川を分離するためのもので、伏見城築城時の資材運搬路として活用するとともに、町中に運河を引き込み現在の京橋付近に伏見湊を造りました。

 二つめの堤は、大坂方面への京街道として整備されました。
 淀川南岸の堤は築造された元号をとって「文禄堤」と呼ばれ、これにより淀川の氾濫を抑えて河内の湿地帯を農地に変え、築造を命じた毛利氏の財力をそぎ落とすとともに、堤上を大阪城と伏見城を結ぶ国土幹線としての京街道を整備したのです。

 三つめの堤は、奈良につづく街道として整備されました。
 もともとの大和街道は宇治川の東岸を迂回していたようですが、これを直線状に付け替えたのです。これにどれだけの意味があったのか分かりませんが、奈良方面から街道を北上する人物の流れは城郭から手に取るように見えたはずです。

 伏見の大きな町屋地区と小椋池を改修して造られた街道が、明治末期の地形図にもクッキリと残っているのが分かります。



左:旧小椋池の干拓地  中:濠川  右:旧高瀬川


左:伏見湊の京橋付近 かつての湊が復元されている
中:濠川の岸から見た寺田屋 すっかり川面と分断されている  右:かつて船宿が軒を並べた通り


 旧城下町は濠川を外堀としていたことが知られています。

 町屋町は両替町通りをほぼ東の端としていたようで、京阪伏見桃山駅の北東辺りに大手門がありました。そこから東に伸びていた大手筋は、現在では伏見桃山駅前の大手通商店街として大きな賑わいを見せています。

 しかし、徳川家光の時代に石垣のひとつに至るまで徹底的には撤去されたため、武家屋敷町の正確な範囲や、城郭や天守閣の正確な位置は分かっていないようです。
 明治末期の地形図を見ると、武家屋敷のあった場所は田畑になっていて、江戸期を通じてこの場所には市街地が広がらなかったようです。

 その西に配置された町屋地区には、三方から街道が接続し、町の南には宇治川から引き込まれた運河沿いに伏見湊がみえます。
 現在の京阪電鉄が京街道、近鉄奈良線が大和街道に沿って敷設され、町屋と旧武家屋敷跡の間を縫うように通っていることがわかります。


 伏見の町屋町は、伏見城本丸にいたる大手筋(東西方向)と京街道、大和街道がつながる両替町通り(南北方向)を機軸にして街路配置がされています。

 酒蔵などが多い町の南側の地域を除いて、江戸期の町屋は全く残っていませんが、江戸期の道路配置、道路幅といった町の骨格はほぼ完全に残されていて、町中を歩いていると江戸期の町屋のスケール感をよく残しています。
 これは、国道などの幹線道路や京阪、近鉄、JRの各路線が、町屋地区の外周に敷設されただけでなく、戦災や震災にもあわなかったことが大きな要因だと思います。


左:かつての大手筋は人通りの絶えない駅前商店街
中右:両替町通りなどの町通りは一直線に延び、往時のスケール感を残している


 伏見の酒蔵は、町の南部の伏見湊の運河沿いに数多く残っています。

 伏見といえば運河の水面に移る酒蔵が有名ですが、水運が廃れた明治から今日まで、酒蔵だけが往時の面影を伝えているのは、明治期以降酒造業が伏見の主要産業であったことを物語っているのだと思います。


月桂冠酒造の大倉記念館  道路沿道と濠川沿いの伏見を代表するまちなみ景観

 


 

まちなみ ブックマーク


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船宿 寺田屋

 江戸末期、伏見湊の京橋付近には50軒ほどの船宿が軒を連ねていたといい、その中で寺田屋は薩摩藩士の定宿となっていました。
 この船宿を舞台に、2つの歴史上重要な事件が発生しています。
 有馬新七などの薩摩藩の急進的藩士を藩当局が襲撃した「寺田屋騒動」と、幕府伏見奉行所が坂本竜馬を襲撃した事件です。

 現存して公開されていますが、それにしても小さい宿です。
竜馬通り商店街

 伏見奉行による寺田屋の襲撃を辛くも逃れた竜馬は、この竜馬通り商店街に当たる場所を屋根伝いに走って逃げたと言われています。

 ことの真実はさておき、この商店街の道幅は他の道路に比べてとても狭く、明治〜昭和初期にかけて、軒下の取り込みがあったのかもしれません。
大倉家本宅

 月桂冠酒造の初代大倉治右衛門が、寛永14年(1637)に「笠置屋」の屋号でこの地に酒屋を創業しました。現存する大倉家本宅は文政11年(1828)に建築されたもので、鳥羽伏見の戦いでは、隣接の船宿や町屋の多くが焼失しましたが、この本宅は羅災をまぬがれたのです。

 それにしても、ちょっとでき過ぎなくらい古めかしい・・・
某マンション
(濠川沿い長建寺付近で発見)

 他の歴史ある町と同様に、伏見も歴史的景観保維持保全いは力を入れているようです。町中には酒蔵をイメージしたマンションが散見されますが、このマンションは異彩を放っています。

 デザインセンスのない私には、ちょっとコメントのしようがない・・・

 


 

 情報リンク

 

京都市伏見区ホームページ



伏見夢工房



月桂冠酒造HP


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.4


参考資料

@「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい

使用地図
@1/25,000地形図「京都東南部」昭和61年修正
A1/20,000地形図「京都南部」「淀」明治42年測図


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