平 福   −川面に映る土蔵と川座敷の宿場町−

かつての船着き場の名残を見せる 川門と土蔵群
川面を渡る涼風を取り入れた開放的な 川座敷
こんな 住まいと川との「おいしい関係」が
ここ平福には いまでも残されている



 

 


 

町の特徴



 山間部に少し開けた盆地があり、そこを流れる川に沿って一筋集落がある。
 これは全国各地に見られる風景です。

 町に住む人たちは、そこに流れる川の恩恵を、船運路として、生活用水として、生活環境として、長い間享受してきました。
 住まいと川とは、密接なつながりをもっていたのです。

 しかし、河川の護岸改修と護岸を利用した道路整備は、住まいと川とのつながりを断ち切ってしまいました。
 ここ平福でも、無機質なコンクリートによる河川改修が始まりますが、地元の方々の保存運動により、南側半分はかつての石垣が残されることとなりました。

いまでも平福には、住まいと川との「おいしい関係」が残されています。

 


 


 

100年前の平福



明治大正期の地図、江戸期の絵図などが手に入らなかったため、今回はお休みです。

 


 

町の歴史



 南北朝期に播磨の大豪族 赤松氏一族の別所敦範が利神山に山城を築いたのは、貞和5年(1349)のことでした。
 以来220年間にわたって、平福は別所一族による作用郡支配の拠点となってきましたが、天正6年(1578)に尼子氏の武将山中鹿ノ介に攻められて落城してしまいます。
 関ヶ原の戦いの後、播磨52万石の領主池田輝政の甥 池田出羽守由之が、平福領2万3千石の領主となり、利神(りかん)山(標高373m)の頂に5年の歳月をかけて大規模な山城「利神城」を建設しました。
 そして、山麓には城主館、武家屋敷を配し、街道沿いには町人町を設ける城下町の建設に着手し、慶長15年(1610)には、ほぼ現在の町割が完成しています。

 佐用川の流れを利神山山麓に移して、城の外堀とするとともに、盆地西側の山麓部を通っていた因幡街道も城下町の中に移します。いまでも街道の4ケ所で折れ曲がっているのは、城下町建設当時の遠見遮断による道路計画がそのまま生きているからです。

 利神城は、完成後間もなく元和の一国一城令により天守閣が取り壊されますが、池田氏の後に山崎に入封した松平(松井)康映は、子供の松平康郎に五千石で平福を統治させたため、平福は城下町から因幡街道の宿場町へと移行していきました。

 明治以降も、鳥取と姫路を結ぶ交通路の中継地、また、周辺村落の商業の中心的役割を果たしていましたが、昭和9年、旧作州街道に沿って津山と姫路の間に鉄道(姫新線)が敷設されると、その路線から外れた平福に代わって、鉄道交通結節点にあたる隣町の佐用に地域の中心が移ったため、平福は往時の勢いを失い現在にいたります。

 


 

町の立地条件と構造



 JR姫新線(姫路〜佐用〜津山〜新見)と智頭急行(上郡〜佐用〜智頭)の交差する佐用(さよ)から北へ、智頭急行と千種川の支流佐用川に沿って旧因幡街道(国道373号)をのぼると、典型的な一筋集落の宿場町平福があります。



 慶応三年(1650)に描かれた平福の絵図をみると、佐用川を堀に見立てて、その東側の利神山山頂に城郭、その山麓に城主館と武家屋敷町、川と反対側の街道筋に町屋町を配しており、城下町時代の平福の構成がよくわかります。
 しかし、絵図には城郭と武家屋敷はすでに失われて石垣しかなく、街道に、「人家三百余り」と書かれた五町からなる一筋の町並みが描かれているにすぎません。

 いまでも平福を歩くと、利神山山頂の城郭跡、旧武家屋敷の石垣などがみられ、旧因幡街道は拡幅もされず、旧宿場町とともにそこにあります。
 江戸初期から平福の景観が大きく変化していないのに驚かされます。


江戸初期に武家屋敷だった場所は畑になり、一角に往時の石垣が残る


 かつての宿場町平福は、幅5〜6mの旧街道沿いに、長さ1.5kmにわたり町屋が軒を連ねていました。いまでは、庄屋の田住家の長屋門、鋳造業を営んでいた瓜生原家、醤油蔵の妻面が目を引くたつ乃屋本店など、歴史を感じる重厚な建物は数えるほどしかありません。
 しかし、通過交通が町の西側を迂回しているので、旧街道はひっそりと静まりかえり、そのことが、かえってかつての賑わいを想像させます。


左:たつ乃屋本店の醤油蔵  中:ある町屋  右:田住家(庄屋)の長屋門


 町屋の軒下の水路を流れる清流はかっての生活用水で、佐用川の上流部から分岐して、街道の下を横切って佐用川に流れでる下水路とは明確に分離されていました。


左:かつて上水として利用されていた水路  中:軒下を通り佐用川に流れ出る下水路
右:佐用川を南から北にみる  正面の山もランドマークのひとつ  利神城山とシルエットがよく似ている


 佐用川を背にする町屋のいくつかが、川座敷を設けています。  川座敷とは、川に面して設けられた座敷のことで、街道の喧騒からは母屋、中庭をはさむため静かであり、座敷の外部からは、佐用川によって隔てられているため、開放的でありながらプライバシーが守られているため、川座敷は、川を渡る涼風が通り抜け、心地よく過ごしやすい空間なのだと思います。

 土蔵、川座敷の下をくぐって石段を下り、川門を出ると川岸に出られます。
 住居部分が川門で川とつながっているのは、かつて佐用川上流の地域の物資が、陸路を通り平福まで運ばれ、ここで川舟に積み替えたためで、川岸に建ち並ぶ土蔵はその収納のためのものでした。
 現在、この舟運はなくなっていますが、佐用川は平福の人々の洗い場や子供の遊び場など生活の場として生き続けており、このタイプの町屋では、川が住まいの一部にさえなっているようです。


 平福の特徴的な町並み景観は、街道沿いの町並みではなく、これらの川座敷や土蔵を、川向こうから眺めた川端風景にあります。

 街道に面した母屋に対して、川岸には野面積みの石垣が続き、石垣の上には土蔵や川座敷が並び、川端に出る川戸がみえます。
 土蔵と川座敷たちは、その高さもまちまちなら、妻入り平入りが入り乱れて、思いのファサードを見せていますが、石垣の高さがそろっているため、一見不揃いの建物群は、一つながりなって整った印象を与えています。



 この平福独特の町並みも、昭和50年頃には河川改修工事のため、かなりの石垣が間知石とコンクリートに改修されてしまったそうですが、地元の方の努力で、南部の1/3は原型のまま保存されていまの姿になったようです。

 江戸期、明治期の平福の繁栄は、交通、商業の上に築かれたのもで、商業活動以外に特別な産業を持たなかったこの山間の小さな集落が、交通手段や時代の変遷とともに、衰退の歴史をたどってきたのは当然ともいえます。


左:旧代官所の屋敷門  中:利神城  右:智頭急行 平福駅


 


 

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瓜生原家 住宅


 瓜生原家は、享保期に津山から移り住み、代々「吹屋」という屋号で昭和の始めごろまで鋳物業を営んでいました。
 この町屋は、文化7年(1810)に建築されたものですが、きれいに修復されていました。


 平福郷土館


 江戸時代の町屋を再現した資料館です。
 一階には商家の道具類や民具類などが、2階には利神城の模型や城下町の絵図、町屋配置図などが展示されています。



町屋風 市営住宅


 連棟二階建長屋の市営住宅も平福にくるとこうなります。中は一体どうなっているのでしょうか。


 


 

 情報リンク

 

佐用町ホームページ



 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.2


参考資料

@「関西 小さな町小さな旅」山と渓谷社
A「平福観光ガイドマップ」
B「歴史の町なみ 近畿篇」保存修景計画研究会

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「佐用」


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