枚 方   − 東海道56次目の宿場町 −

秀吉による文禄堤は淀川右岸を氾濫原から街道筋に変えた
江戸期、その堤の上に開かれた枚方宿は
東海道56番目の宿場町として栄えた
40万人都市・枚方の中心部にあり、相当の都市化圧力を受けながらも
いまでも往時の町屋がいくつか残っている



 

 


 

町の特徴

 人口40万人を抱える大阪最大級のベッドタウンである、枚方市の中心部にあって、相当な市街化の圧力を受けているにもかかわらず、旧京街道には江戸末期から明治大正期にかけての町家がいくつか残されています。
 枚方駅の南側に商業施設や官庁施設があり、枚方宿のある北側は町の発展から取り残された地域だったのかもしれません。


旧街道筋に残る町家。近くには駅前再開発のマンション群。

 


 

100年前の枚方

現在の地形図(平成  年)と100年前(明治30年)の地形図を交互に見比べてみます。

 枚方宿場町は、丘陵の先端部にへばり付くように、あることが分かります。丘陵地は現在では住宅地化されていて、地形図では地形的特長が分からなくなっています。
 また、旧京街道筋自体が市街地の中に完全に埋没しています。


 


 

町の歴史

 

宿場町 枚方の成立

 天下を統一した豊臣秀吉が、天正11年(1583)に石山本願寺跡に大坂城を築き、文禄3年(1594)には京都に伏見城を築き、それぞれに巨大な城下町を建設しました。この2大都市を結ぶ水陸交通網整備の一環として、文禄5年(1596)、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家ら毛利諸大名に命じて、淀川左岸に堤防を築かせました。

 これが「文禄堤」とよばれるものです。

 この堤防の完成により、淀川の氾濫原は新田となり、堤の上は京都と大坂をむすぶ「京街道」として利用されるようになりました。

 この頃、枚方の地には秀吉の家臣本多政康を城主とする枚方城がありました。場所は今の枚方小学校あたりといわれていて、枚方丘陵の先端にあたり大阪平野を一望できる場所にありました。元和元年(1615)、大阪城の落城により枚方城も廃城となりました。

 徳川幕府は、慶長6年(1601)から五街道の整備を始め、京と大坂をつなぐ「京街道」も東海道の延長と見なして、東海道53次につづき伏見・淀・枚方・守口の4宿を設けました。枚方宿はその56番目の宿場町にあたります。いずれの宿場町も幕府の代官の支配をうけ、街道は道中奉行の管理下におかれました。

 枚方宿は、岡新町・岡・三矢・泥町の4ヵ村からなり、江戸中期の天明年間(1781〜88)には、戸数340軒、人口1500人を数え、本陣と32軒の旅籠、7軒の茶屋などが町なみを形成していました。天保14年(1843)には、戸数はさほど変らないものの、旅籠数は69軒と倍増しており、宿場町として発展していったことがわかります。


枚方宿の特徴

 京と大坂の間に設けられた伏見・淀・枚方・守口の4宿の中で、枚方宿は次のような特徴をもっていますが、その中でも特筆すべきは、淀川の船運三十石舟の中継港として、独自の位置を占めたところにあります。

@戸数に占める旅籠の数が多く、宿場町としての機能が高い
  天明期において総戸数の一割が旅籠屋を営んでおり、その約50年後の天保期には総戸数の二割に増加していて、より旅籠町としての機能が大きくなっています。

A旅人の宿場町だけでなく歓楽街の色彩も強い
  町の人口の60%を女性が占め、飯盛(めしもり)女が多くいたようです。宿泊者の食事の世話をするだけでなく、遊女同様に酒宴の接待をおこない、旅行者より近隣からの遊び客が多い歓楽街として賑わったようです。

B淀川船運の影響を強くうけた
  宿場は自ら人馬を負担して、公用の荷役を次の宿に運ぶ義務を負い、その代わり扶持米が支給され、地子(屋敷地の税金)が免除されました。枚方宿で継ぎ立てた人馬の行方を見ると、人足で80%、伝馬で95%が淀宿(京への次宿)であり、反対方向の守口宿へは淀川の船運が利用されていました。

C「くらわんか舟」
  三十石船は、伏見と大坂の八軒屋(今の北浜、天満橋)を往復する30石相当の積載量をもつ旅客船のことです。伏見を夜半に発つと、夜明け前には枚方に近づきます。すると、枚方宿岸から小舟がくり出して、物売りが大声で「餅くらわんか〜酒くらわんか〜」などと怒鳴ったそうです。これが枚方宿の風物「くらわんか舟」です。

 枚方宿堤町に残る「鍵屋」(現資料館)は、往時の淀川水運を物語る舟宿の一つです。外からは見えませんが、裏に小舟の出入りする地下道があり、淀川に向かって口をあけているのは、当地ならではの構造です。
 京と大阪の中間にあり淀川に隣接した文禄堤の上に成り立った宿場町の枚方は、通常の宿場町とは少し違った町の構造を持っていたようです。


明治以降の枚方

 文禄堤があったといっても、淀川の洪水時には堤(京街道)の内側は低地であり、その都度水害に悩まされたようです。
 明治期後半から15年の歳月をかけて行われた淀川の大改修工事では、上流の瀬田川に洗堰が設置されて流量調整がされるようになり、下流には新淀川が開削されて大阪湾までまっすぐ流すようになり、枚方では京街道の外側に新たに堤防が築かれたのです。

 昭和8年、京阪国道(国道二号線、後の国道一号線、現府道13号京都守口線)が新たな堤防上に開通し、旧宿場町は新国道から見下ろされるようになりますが、同時に旧京街道は交通幹線道路の任を解かれることになります。

 昭和30年代に、当時東洋一といわれたニュータウン「香里団地」や「くずはローズタウン」の建設が始まり、大阪のベッドタウン枚方市の人口は急増します。昭和30年代、40年代の10年単位で人口は倍増をつづけ、昭和38年には人口10万人を超え、現在人口40万人を擁する大阪圏で有数のベッドタウンとなりました。
 その中心地にある京阪枚方駅は、平成元年に高架駅となり、北側に隣接する旧京街道沿いの岡本町には再開発ビル「ビオルネ」がオープンしますが、このような市街中心部に、旧宿場町の江戸期から明治期の町家が残っていることは驚きです。

 


 

町の立地条件と構造


 秀吉により文禄堤が築かれるまで、淀川右岸部は洪水のたびに水害に見まわれていました。

 そのため、京から大坂、堺方面への陸路は、京街道より東側にある丘陵地を通る高野街道だったといわれます。
 高野街道はその名の通り高野山に向かう街道で、枚方から生駒山麓沿いに河内平野を南下して、河内長野で堺からきた西高野街道と合流し、高野山に向かいます。大坂、堺方面へはこの西高野街道を北上することになります。

 現在、淀川は大阪市北部を、大和川は南部を流れて、それぞれ大阪湾に注いでいますが、江戸期以前、2つの大河は今の京橋あたり(大阪城の北東部)、つまり上町台地の北端で合流して大阪湾に流れ出ていました。そのため、河内地方は淀川と大和川の氾濫原にあたり、まさしく「河内」だったのです。
 また、京からの街道は、中国方面へは高槻、箕面の北摂山麓沿いを通る西国街道が、堺、高野山方面へは生駒山麓沿いを通る高野街道が、それぞれありましたが、秀吉が石山本願寺跡の上町台地北端に大阪城を、その西側に城下町を築いたことにより、京と大坂城を結ぶ京街道の整備が必要となり、淀川右岸に大堤防が築かれたのです。



 枚方の宿場町は、枚方丘陵が淀川河岸まで北側に迫出した場所に設けられました。この地が京と大坂の中間にあり、地形的に陸地と河川の接点にあるため、古来より淀川船運の港湾基地だった可能性もあります。

 枚方宿は4つの村からなっていて、西から泥町村、三矢村、岡村、岡新町村とつづきま、東端の天野川には鷺橋がかかっていました。


 まちあるきは、宿場町西端にある鍵屋(現資料館)から始めます。

 京阪枚方公園駅から旧街道をめざして淀川方向に歩くと、道が上り坂になる箇所があります。これはまさしく文禄堤の名残で、京街道が堤の上に築かれたことが示しているのですが、現在の堤防はこれよりまだ数メートル高く、堤の上に宿場町があるという実感はなかなかわきません。

 三十石船の船待ち宿として栄えた「鍵屋」は現在資料館になっています。模型や映像で枚方の歴史がとても分かり易く紹介されていて、発掘された陶磁器や母屋も展示されています。訪れてみる価値は十分あります。
 江戸中期の歴史資料に「鍵屋」の名前が見られるらしく、その歴史はかなり古いようで、街道側だけでなく、裏手は淀川に面しており船着場にも通じていたそうです。


左:「鍵屋」前景  右:江戸期における鍵屋裏手の船着場(鍵屋資料館展示の模型)

 「鍵屋」資料館で町の成り立ちを学んだあとは街道筋を東に歩いていきます。

 鍵屋の向かいにある町家は、嘉永6年建築のもので、すぐ隣には明治中後期に建てられた町家があり枚方宿の面影が残っています。
 泥町村にある木南家(屋号「田葉粉屋」)は明治中期の建物ですが、一族は楠木家の後裔といわれ、江戸時代は庄屋と問屋役人を兼ねていた枚方宿最大の遺構です。

 もうしばらく東に歩くと、街道は浄土真宗浄念寺の前で直角に右左折しています。枡形道路といわれ、城下町によくみられるものです。


右:鍵屋向かいの町家  中:木南家  右:枡形道路によりアイストップとなる浄念寺


 枡形道路の先は三矢村になります。ここには多くの町屋が残されています。屋号「仁和寺屋」「塩熊」「小間佐」など古い構えが往時の姿をとどめています。しかし、枚方駅に近いせいか、その背景には高層マンションが建設され、あたかも宿場町を見下ろしているようです。
 三矢村と岡本町との境には常夜燈があります。枚方宿には24時間船が着いたため、一晩中明かりが灯り、暗い夜道を照らしていました。隣の民家は幕末のものだそうです。


左:「仁和寺屋」  中:「塩熊」 右:常夜燈


 岡本町は京阪枚方駅の直近にあり、わずかに残された古い町家もきれいに改修されて店舗として活用されていますが、その一方で再開発により街道筋が消えた部分もあります。
 駅前再開発ビオルネの高層建物を南館と北館に分離し、街道を歩行者道として再生したつもりなのでしょうが、どうみても通路兼自転車置き場にしかみえず、そのデザインは情けないくらい「ぶざま」です。


左:北村味噌屋 江戸後期の建物できれいに修復されている  中:ここで街道は途切れ再開発地区へはいる
右:再開発ビル「ビオルネ」の敷地内に復元された似ても似つかぬ「エセ京街道」


 駅前通りをわたり岡新町村に入ると雰囲気が変ります。通過交通がないためか、静かで落ち着いた住宅地ですが、ここにもいくつかの町家が残っています。そのなかでも最も古く見ごたえがあるのが、東見附鵲橋近くの小野家、屋号「八幡屋」です。これは江戸中期の遺構で、村年寄と問屋役人を勤めていた家だそうで、その重厚感は見るものを圧倒します。
 その先は天の川堤防があり、ここにかつて鵲橋(かささぎ橋)がかかり、東に街道が続いていました。


岡新町村の小野家(左) 天の川の堤防(右)

 


 

まちなみ ブックマーク   〜 おやすみ 〜

町を歩いていて気に入った建物や風景はさきに出しましたので、ブックマークはお休みします。

 


 

枚方 情報リンク

 

枚方市ホームページ


枚方文化観光協会
鍵屋資料館の公式紹介サイトです


ふるさと枚方発見
松下電器松愛会 枚方北支部・枚方南支部のサイトで、歴史紹介が最も充実しています。


 


 

歴史コラム


宿場町形成以前の枚方

 江戸初期に京街道の宿場町として枚方宿が設置されるより前、乱世のまっただ中の枚方の地において、農村地帯に住む村人達の間では、「南無阿弥陀仏」を乱世を生きぬく心の支えとして、地域的な結びつきを強めて自治的な防衛組織(寺内町)をつくる気運が高まっていた。

 その中核として活動したのが浄土真宗本願寺の蓮如上人とその一族でした。

 京都を追われた蓮如が越前の吉崎からもどり、本願寺再興の大望をもって布教と再建準備の拠点としたのが、今の枚方市出口の地です。文明七年(1475)、蓮如61歳の時に、淀川の河原敷きを埋め立てて、方二町の坊地を確保して光善寺を開いたのです。
 この場所は、各地へ精力的に足を運んだ蓮如にとって、京、大坂、堺、そして対岸の摂津国へも舟運に至便だったのです。蓮如はこの地に三年間滞在した後、京都の山科に居を移します。やがて大坂石山に再建される本願寺(現大阪城の場所)構想をこの草坊で練りあげていたのかもしれません。

 蓮如の死後、光善寺は戦国乱世の中で退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間のことといいます。その間、枚方地方で門徒達のよりどころとなったのは、招提道場を中心とする寺内町「招提(しょうだい)」でした。

 秀吉が淀川に文禄堤を築く前、京から大坂方面への陸路の幹線は、洞ヶ峠(ほらがとうげ・八幡市と枚方市の境界)を越えて南下する高野街道であり、招提寺内町はその峠のふもとに位置しました。
 天文十二年(1543)蓮如の子蓮淳が、近江国の六角氏一族の武将を引き連れこの地で方八町の縄張りをはじめたといわれます。周囲より一段高い小丘の上に寺が置かれ、寺を中央北端として、南北方向に3本、東西方向に2本の道路を設け、周囲に土手や濠をめぐらせました。この寺内に既存の日置村をあわせて、南北二十一町、東西二十町が「招提(しょうだい)寺内町」を形成しました。招提道場と呼ばれた寺は、元和七年(1621)に敬応寺と改称して現在もその地にとどまっています。

 元亀元年(1570)、織田信長の軍勢は、大坂石山本願寺を攻めるため、京から高野街道を南 下しました。本願寺への通過地点にあたる「招提寺内町」は、強大な信長軍に抗することはできず、恭順の意を表して自治的特権を保証されることとなりました。
 しかし、天王山の戦において明智光秀方についたため、その後、秀吉により寺内町の特権はすべて剥奪され、招提は自治権をもつ寺内町から近世の一農村へと転換することとなりました。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.07.01


参考資料

@「旧枚方宿の町家と町並」枚方市教育委員会
A「市立 枚方宿鍵屋資料館 展示案内」枚方市教育委員会
B「枚方宿の今昔」宿場町枚方を考える会
C「枚方市史」

使用地図
@1/25,000地形図「枚方」平成13年修正
A1/20,000地形図「枚方」明治21年測図


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