池 田   −城下町として生まれ 在郷町になった町−

街道筋の町屋、重厚な造り酒屋、見上げる城郭
池田は600年以上も北摂地域の商業都市として栄えた

しかしいま
歴史ある街道筋は拡幅され、再開発で高層ビルが乱立する
町屋はつぎつぎと姿を消すが、将来の町の方向がみえてこない



 

 


 

町の特徴


池田の町は典型的な「渓口集落」です。

 猪名川上流域の多田、能勢地方の出入口にあたる渓口にあって、上流域で生産される諸物資が集積する町として、古くから市場が開かれていました。

 その歴史はとても少なくとも南北朝の頃までさかのぼり、北摂地域では伊丹とならび、政治経済の中心地として繁栄してきました。室町時代には池田氏の支配する城下町として町屋が形成され、戦国時代には廃城となり町も幾たびか焼失しましたが、江戸時代には在郷の町屋として北摂の一大商業都市にまで発展しました。
 明治末の鉄道開業に合わせて室町住宅地が開発されましたが、これは新たな池田の街づくりの出発点となりました。

 しかし、空港や国道、高速道路が整備され、交通の要所に位置する池田の町は、慢性的な交通渋滞と都市化の波をまともに受けることになりました。そのため、町中の歴史的細街路は拡幅され、高層マンションが乱立して地上げが横行し、今では、古い町屋の風景はほとんど見られなくなりました。


町屋側から見た城郭

能勢街道沿いの造り酒屋「呉春」

再開発された阪急池田駅前

地上げ後の仮設店舗、駐車場、高層マンション

 


 

100年前の池田

現在の地形図と100年前(明治19年)の地形図を見比べることで、
 ・明治期の地形図から、江戸期の町の様相を窺い知ることができます。
 ・二つの地形図の対比から、町の骨格がいつ頃に形成されたのかが分かります。

 明治19年の地形図をみると、現在の栄本町あたりを中心に大きな町を形成していて、北摂山系西端の五月山の麓にへばりつくようにあることがわかります。
 ここは、能勢方面(地図上側)から流れてくる猪名川とそれに沿う能勢街道が、大阪平野にでた場所にあたります。
 五月山、猪名川、能勢街道の3つが、池田の町をここに立地させた要因であることがよくわかります。

 明治期の市街地の南隣りに鉄道(現阪急電鉄)が敷設され、今の市街地は五月山の標高50〜100mのライン一杯までびっしり広がっています。現在の地形図を見ても旧市街地の範囲は全くわかりません。

 現在、住宅地の中にある呉服神社が、明治期には旧市街地から離れた畑の中にポツンと建っているのがみえます。三角形の旧市街地の南西隣り(左下)に小さい丸に見えるのがそれです。通常、村の氏神様は山林(鎮守の森)を背景に立地しますが、呉服神社はこれとは異なった歴史をもっているようです。

 


 

町の歴史

池田の町の歴史は、大きく次の3つ時期に分けられます。

 坂上氏の支配する荘園「呉庭荘」の時期 (平安律令期〜鎌倉時代)
 池田氏の城下町として町屋が形成された時期 (室町〜戦国時代)
 在郷の町屋として発展した商業都市の時期 (江戸時代)


@ 坂上氏の支配する荘園「呉庭荘」の時期(平安律令期〜鎌倉時代)

 大宝律令制度下の池田は摂津国豊島郡の郡役所が置かれ、池田はこの頃から地域の中心地だったようです。
 平安中期の摂関政治最盛期には、倭漢系の坂上氏により荘園「呉庭荘」が開かれました。保元の乱の直後には、後白河法王に寄進されたことで最高権威の荘園として大きくその地位を躍進させたそうです。
 また、鎌倉時代初期に牛頭天王(ごずてんおう)を祭神とする呉庭総社と善城寺が創建されたとの記録があるそうですが、それが現在のどの場所になるのか、詳しくは分かっていないようです。


A 池田氏の城下町として町屋が形成された時期(室町〜戦国時代)

 荘園領主の没落と周辺地域との数々の争いの中で、豪族池田氏が徐々に勢力を伸ばしていきます。応仁の乱での戦功により豊島郡一体の支配勢力になった池田氏は、摂津守護細川氏の家臣となり、豊島郡一帯を配下に治めます。その後、池田の町は、池田家の内紛に乗じた戦国武将荒木村重の支配するところとなります。

 池田城は、南北朝時代の文書にすでにみられ、室町時代には池田で定期市も開かれていたといわれます。池田氏の繁栄に歩調を合わせ、城郭が徐々に整備され、町屋としての池田も大きく発展したのだと考えられています。
 しかし、応仁の乱からのたび重なる戦乱の中で池田城は何度か落城していますので、そのたびに池田の町屋も焼失したのではないかと思われます。

 その後、荒木村重は摂津支配の本拠地を伊丹に移したため、池田城は捨てられ廃城となり、村重の乱による信長軍の攻撃を受けて、池田城は完全に消失してしまいます。
 近年まで、古城跡として城郭の所在地は語り継がれてきましたが、その詳細を知るのは昭和40年代の発掘調査まで待たなければなりませんでした。


B 在郷町として発展した商業都市の時期(江戸時代)

 大阪冬の陣に徳川家康が暗峠(南河内にある大阪と奈良との府県境)に出陣していたとき、池田村の庄屋らが池田酒を献上したことで、家康はその返礼に朱印状を下付したといわれ、その写しが残されています。
 朱印状の内容は、戦の中で池田村の田畑や町屋への狼藉を禁止するお触れでした。池田村はこれを本町四辻の高札場に立て、戦乱の世では荒くれ武士団からの安全を保証し、平和の世では町の権威付けとなり、後世の商業都市池田の発展に大きな役割を果たしたといわれています。

 大阪からの倉米や古着、多田銀山からの銅、一庫などからの池田炭、などが池田に集められ、街道沿いには数多くの問屋、蔵が立ち並びました。これらは朱印状に特権を得た独占商家で、市の最も盛んな中之町、米屋町には、24軒の問屋が軒を並べたといわれています。
 また、市場で売り買いされた品物は、馬の背を借りて各地に運ばれていきました。池田馬借とよばれた運送業も、問屋と同じく運送の独占権が与えられていたようで、この力が強かったため、猪名川を利用した通船は発展しなかったようです。

 江戸時代初期において酒生産の中心地も池田と伊丹でした。中世の僧坊における酒造に技術改良を加え、良質の酒を大量に作り出したのが池田と伊丹の酒造業で、大坂に近いという地の利と、猪名川の水質が辛口酒の製造に合っていたことが、発展の要因でした。
しかし、江戸への樽廻船の運行と水車による機械精米により、灘と伏見が生産量を伸ばしたため、池田、伊丹の酒造業は衰退していきます。


 明治43年、箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)の開業に合わせて、呉服神社を囲むように室町住宅地が開発されました。これは、鉄道会社による住宅地開発の原点となったものですが、池田の町にとっても新たな街づくりの出発点となりました。

 しかし、伊丹に国際空港が開港し、国道176号線や阪神高速、中国自動車道が整備され、猪名川上流域の能勢電鉄沿線に続々と住宅地が開発されたことで、そこから流れてくる車により、池田の町は慢性的な交通渋滞に悩まされることになります。
 このため町中の歴史的細街路は次々と拡幅整備されて幹線道路へと変貌しました。
 また、交通の要所であり、居住環境にも恵まれた地域であったことから、大阪近郊の住宅地として高層マンションが乱立し、バブル期には地上げが横行したようです。
 池田の町は都市化の波をもろにうけて、今では、古い町屋の風景はもうほとんど残されていません。

 


 

町の立地条件と構造

 この場所に池田の町ができたのは、次の3つの立地条件が大きかったようです。これらを、明治19年の地形図に記してみました。

  @ 能勢街道・・・・大坂と能勢地方を結ぶ北摂における陸運の大動脈
  A 猪名川・・・・・・城郭の堀としての機能と、水運路としての機能を併せ持つ北摂津の大河
  B 五月山・・・・・・山裾に城郭が築かれ、その東の猪名川河岸段丘上に町は展開


@ 能勢街道  大坂と能勢地方を結ぶ北摂の大動脈

 大坂から池田、多田を通り能勢、そして亀岡に抜けるこの街道は、「馬街道」と呼ばれたほど荷駄の往来が多い街道でした。能勢地方で産出される銅、炭や農産物が大坂に運ばれる集積地になっていたのです。
 能勢地方から猪名川沿いに南下するこの街道は、鼓ヶ滝(川西市鼓ヶ滝)の渓谷を抜けると、大阪平野への入り口にあたる池田の町に入ります。ここから先は、猪名川と分かれて丘陵沿いの別ルートを進み、石橋村(現豊中市石橋)のあたりで西国街道と交差します。


A 猪名川  堀としての猪名川、水運路としての猪名川

 池田の町にとって、猪名川は西の守りを固める天然の堀として機能しました。
 橋は江戸時代に恒久的にかかったようですが、それ以前は度重なる戦乱により、ほとんど橋らしい橋は架かっていなかったようです。

 一方、猪名川は大坂まで通じる水運路としても重要なものでした。
 池田の北方にある鼓ヶ滝(現在、能勢電鉄の鉄橋が架かる鼓ヶ滝駅の南)には、その名の通り猪名川が滝になっていたため船運行は不可能でしたが、池田から大坂方面へは、川幅も広く流れも穏やかなため、能勢地域から陸運された物資は、池田から船積みされたのではないかと思われます。
 しかし、江戸時代には、陸運を牛耳る馬借りの力が強く、猪名川を利用した船運行は実現していません。


B 五月山  城郭が配置され、町は山裾に展開

 池田は五月山の西山麓に位置し、町屋から20mほど高い標高50mぐらいの所に、町と大阪平野を見下ろすように池田城の主郭が配置されていました。
 北は五月山と杉谷川、西は猪名川に守られた場所にあり、堀、土塁は東と南に対する守りを厚くするために設けられました。
 一方、町屋はその西側の山裾に沿うように配置されています。猪名川と五月山の山裾が扇形に開いた場所に池田の町屋が展開し、その間を能勢街道が通っています。



 能勢、多田地域から鼓ヶ滝を越え、猪名川と五月山の間の隙間を通ってきた能勢街道は、池田の本町において東方向に曲がり、待兼山丘陵沿いを大坂に向かうこととなります。この本町の交差点から西方向には、中山寺を通り有馬に向かう有馬街道が分岐しており、この交差点は、代官所などお上のお触れが立った「高札場」となっていました。

 街道沿いには問屋、酒屋、炭屋、米屋や蔵などが建ち並んでいて、東本町には竹木市、西本町には炭屋、高札場付近には魚屋、というように、朱印免許によって保証された問屋などが市場の独占をしていました。特に、町の中心部の中之町には青物市場の問屋が20数軒街道沿いに集積していました。

 町の南には呉服(くれは)神社、北には伊居太(いこた)神社があり、ともに「繊維」の祖神、呉服大神を祀っている鎌倉時代以来の古社として知られています。
 また、町の北方の五月山中腹には、土豪池田氏の菩提寺である大広寺が伽藍を広げています。
 これらの寺社は、町中にある他の寺社とは成り立ちが違うのですが、呉服神社がこんな場所にあることには特に興味が惹かれます。


 城郭は五月山から張り出した台地上にあり、町屋を見下ろし、守るかのように配置されています。城の大手(正門)は常に町屋の方向にあったようで、人や物資の集積する町屋との結びつきに重点を置いたことを物語っています。
 最も南側の平坦地に広がる曲輪(外堀の内側)は能勢街道を取り込んでいます。このような街道の取り込みは、どこの城下町でも見られるものですが、ここには江戸期に立石町、上池田町が成立しています。

 
主郭の北側にある五月山山系(左)、城の北側の「堀」杉谷川(中)、町屋から見あげる池田城主郭(右)


 町中において街道が屈曲している箇所があります。これも城下町にはよくみられるもので、堀や土塁を渡る箇所にあたり、町屋全体を城郭として取り込む「総構(そうがまえ)」が形成されていた可能性があります。
 一方で、町中に有力家臣の屋敷が散在していたり、寺院も町屋の各所に点在していることから、町屋は城下町として形成されたのではなく、もともと存在していた町屋の近くに城を築き、町屋が発展していく過程で城下に組み込まれていったと考えられています。



 現在の池田の町は、旧町屋(旧市街)の中を東西、南北に幹線道路が通り抜けています。
 大阪方面からの国道176号線は宝塚方面に向けて、西本町の交差点で西に方向をかえ、能勢方面には国道173号線が分岐しています。昔に比べると随分緩和されてはいるものの、それでも交通渋滞は日常化しています。
 役所はこの渋滞を緩和するために道路拡幅に躍起になっているようです。
 旧能勢街道や旧有馬街道を次々と拡幅しているため、街道沿いにあった歴史的景観はほとんど残っていません。


 古い町家は、旧能勢街道のうち拡幅をまぬがれた区間の沿道に少し残されています。
 昭和50年頃の池田市の行った歴史的町並みの調査報告を見ると、この沿道と西側一帯には、かなりの数の旧町家の存在が確認されていますが、今回私の歩いた限りでは、そのほとんどが建て替えられるか、道路拡幅で取り壊されてしまったようです。


旧能勢街道沿いにのこる町家  左は造り酒屋「呉春」


 池田の旧市街は、昔も今も交通の結節点にあり、慢性的な交通渋滞の解消が都市計画の最重要課題になってきました。そのため、旧町屋の中の街道筋を拡幅し、沿道に残された歴史的建物を次々となぎ倒してきたようです。現代の街づくりの中で道路拡幅は止むを得ないことですが、もう少しやりようもあったのではないかと思わざるを得ません。

 旧市街の中は細街路が迷路のように巡り、その幅員はあまりにも狭く、町探検するものにとってはドキドキする空間ではありますが、防災面などの安全性の点ではかなり問題がありそうです。また、池田駅近くでは、バブル期の地上げの跡なのでしょうか、路地に面して空き地、駐車場、仮設店舗などが目立ち、かなり無残な様相を呈しています。


左:駅前から続く栄町商店街  中:旧高札場の跡 今ではその痕跡すら残っていない
右:旧高札場から東側の旧能勢街道  道路拡幅されて古い町家はすべて姿を消した




左:道路拡幅中の旧有馬街道
中右:数年前まではアーケードが架かっていくらか古い町屋もあった地上げで空き地になった場所は、
駐車場や仮設店舗が建ち、奥に家屋の裏庭が見える

 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

復元された池田城

最近、公園として整備された池田城跡。
天守閣に見える木造二階建ての建物は、史実に基づいて再建されたものではなく、市が設置した説明看板では「櫓風の展望休憩所」との位置づけでした。夜間はライトアップされ良い雰囲気がでています。
能勢街道沿いの旧町屋

造り酒屋「呉春」の向かいにある重厚なつくりの旧町屋で、私は池田に残っている町屋建物の中でこれが一番気に入りました。今も住宅として立派に使われています。
町中を歩いて最も気に入った風景

西光寺の門前の路地で、土蔵と中二階の町屋に梅の花、そして五月山がみえます。
伊居太(いこた)神社の本殿

これはかなり珍しい造りをしています。

「延喜式」において川辺郡七座の一つとされたほど古く、現在の本殿は豊臣秀頼によって慶長9年(1604)に再建されたそうですが、銅板葺で間口5軒もある流造の社はとても珍しく、一見の価値があります。
池田室町住宅地

 阪急電鉄の西側、呉服神社を取り囲むようにある、日本初の郊外住宅地

 箕面有馬電気軌道梶i現阪急電鉄)が梅田−宝塚間に鉄道を敷設したのが明治43年のこと、これにあわせて、総戸数200戸、一敷地あたり100坪の室町住宅地の販売が開始されました。
 日本初の郊外住宅地の誕生です。ついでに住宅ローンの制度も初めて取り入れられました。

 上の写真は、販売当時の木塀を今も残す数少ない住宅です。

 池田駅から徒歩数分の至近距離にあるため、都市化圧力は凄まじく、100坪の宅地は分割され、建物は何度も建て替わり、わずかに残る木製の塀や門扉、石積みの道路側溝などだけが往時の姿を伝えてくれます。
 現在の町中には、大正から昭和初期にかけてのモダンな木造家屋からRC造2階建ての豪邸、ミニ開発的な建売住宅、高層マンション、はては昭和40年代の木造2階建て賃貸住宅(木賃アパート)まであり、さながら近代の住宅博覧会の様相を呈しています。

 下の白黒写真は、鉄道建設が開始された当時に、今の池田駅方向から撮影したもの。田畑の真ん中にポツンと呉服神社があり、その参道を分断して線路敷きが整地されています。ここに10ヘクタール、200戸の郊外住宅地が造成されたのです。



 


 

情報リンク

 

池田市ホームページ
これだけ歴史のある町にもかかわらず、市の歴史や町並みを紹介するコーナーが一切ありません。


池田屋
ホームページ作成などを業としている池田屋さんのサイト
池田の町の歴史を、町並み、観光、特産などあらゆる方面から詳細に紹介している。
このサイトだけで、池田の歴史はすべてわかります。


池田市立歴史民俗資料館
旧石器時代から近代にわたる池田の発掘資料、歴史文書などを展示している資料館です。


猪名川歴史研究所
猪名川流域の歴史に関する、専門家の調査記録が記載されています。
地方史や近代公害問題についての専門家の方が書かれています。


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.07.10


参考資料

@「江戸時代のまち −池田と摂河泉の在郷町−」池田市立歴史民俗資料館
A「池田酒と菊炭」池田市立歴史民俗資料館
B「池田市史」
C「北摂池田」池田市教育委員会


使用地図
@1/25,000地形図「伊丹」平成7年修正
A1/20,000地形図「池田村」明治19年測図


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