岩 国   −錦帯橋がつなぐ二分された城下町−

城下町岩国の象徴 錦帯橋
防長二州で最大の河川 錦川は とても雄大で 清々しい
岩国の町は大きく蛇行する錦川に 張付くようにある
錦帯橋は 巨大な錦に纏わりつく 細い帯のようにみえる



 

 


 

町の特徴


 岩国城のある山頂に登ると絶景が広がります。
 麓にある城主館跡、重臣達の屋敷跡から旧城下町、新町、そして現在の岩国市街地中心地から瀬戸内まで、まさに一望のもとに見下ろせます。

 そこから受ける印象は、六万石の城下町にしては決して大きくないということです。
 というより、錦川が大きすぎるといったほうが正確でしょう。

 大きく蛇行する雄大な錦川の流れと、それに纏わりつく糸 −とても「帯」とはいえない− のような錦帯橋が、とても心細げに見えます。

 標高200mの頂に城郭が築かれ、川幅200mもある錦川を外堀として、岩国城下町は建設されました。
 戦国の世も終わりに近づき、徳川の時代になっていたにもかかわらず、戦時下の町造りがなされたといえます。

 本藩毛利家より、幕府徳川家より、はるかに古い歴史をもちながら、下克上の戦国を生き抜いた名門吉川家ならではのことかも知れません。

 泰平の世になり、錦川は町を分断する要素となりました。
 大河により二分された町を、幾たびかの洪水にも流されることなく、300年近くにわたり必死に繋ぎとめてきたのが、錦帯橋でした。




城山からみた岩国市街地 錦帯橋の向こうが旧城下町

 


 

100年前の岩国


明治大正期の地形図が手に入らなかったためお休みです。

 


 

町の歴史



 平安末期から岩国一体を支配した岩国氏は、壇ノ浦の合戦で平氏方についたため、合戦後はその地位が失われたことが「吾妻鏡」に出てきます。
 これに代わって勢力を伸ばしたのが清縄氏(のち改め弘中氏)ですが、厳島の戦いにおいて、陶晴賢と共に毛利元就に敗れ、一族は滅亡します。

 大内氏、尼子氏を打ち破り、中国全域に覇権を広げた毛利元就は、次男の元春を吉川家の養子に、三男隆景を小早川家の養子に縁組し、毛利宗家を継ぐ長男隆元を支える体制を創り上げました。

 吉川氏は、かつて駿河国の入江庄吉河に居を構え、その地名をもって「吉川」を称していましたが、その後に安芸国の大朝庄に本拠を移し勢力を広げていました。

 元春の後を継いだ広家は、豊臣秀吉から出雲国富田十四万石の領主に封じられますが、関が原の戦いにおいて西軍に組したため、宗家毛利家の防長二州封じ込めに併せて、三万石(後に六万石)にて周防国岩国へと移封されます。

 こうして、広家は初代岩国藩主となり、錦川に三方を囲まれた横山の地を本拠と定めて、標高200mの山頂に岩国城を築城しました。

 しかし、慶長十三年(1608)、築城からわずか8年後、幕府の一国一城令により取り壊しされることとなります。
 吉川氏は、三万七千石の石高がありながら大名とは認められず、以後、江戸末期まで毛利支藩の吉川岩国藩としての地位に甘んじることになります。

 城下町は大きく蛇行する錦川をはさみ東西に配置されました。

 西の山頂にある城郭の麓地は横山とよばれ、現在の吉香神社境内にあたる場所に吉川氏の居館がおかれ、周りに重臣たちの屋敷が配されました。

 錦帯橋をわたり東側の地域は錦見とよばれ、町屋と下級武家屋敷町が配されました。
錦見の町屋の中心は、玖珂(くが)町、柳井町、米屋町(鍛冶屋町)、塩町からなる本町で、その南側にある材木町、魚町、登富町をあわせた「岩国七町」が江戸期の町屋です。
 明治の廃藩置県の後、岩国は山口県に統合され、藩主館跡には旧藩主を祀る吉香神社が移され現在に至ります。

 明治30年、山陽本線が徳山まで延伸され、岩国駅が旧城下町ではなく瀬戸内沿岸部に開業し、明治41年には、旧城下町まで西日本最初の電車が開通します。
 岩国電車は、新港(現在の岩国港)から旧城下町の入り口にあたる新町の5.7kmを走り、現在の岩国西郵便局前にある三角形の広場は新町の駅舎跡にあたります。
 昭和4年、岩徳線の開通に伴い廃止されますが、JR岩徳線西岩国駅のレトロな駅舎はこの当時の建物です。

 電気鉄道の会社を興したのは岩国出身の藤岡市助。

 明治11年3月25日、市助はアーク灯の点灯に成功し、この日が日本で初めて電気がついた日となりました。明治29年には東京電気株式会社(現 東芝)を創設し、「日本のエジソン」と呼ばれています。

 大正14年、錦川三角州の干拓地に、当時東洋一の規模を誇った帝国人造絹糸(現 帝人)の工場が建設されたのを皮切りに、昭和に入り山陽パルプ(現 日本製紙)、東洋紡績、帝人製機などの工場が相次いで進出します。
 また、第2次大戦中には、陸軍燃料廠(ガソリン精製工場)、興亜石油が加わり、戦後の軍用地跡には三井石油化学工業(現 三井化学)のコンビナート工場が建設されました。

 一方、昭和に入り岩国は空軍基地の町として変貌を始めます。

 昭和13年、旧日本海軍が錦川三角洲の約120haを買収して飛行場建設を着手、2年後には岩国海軍航空隊の基地として第一歩を踏み出します。その後、基地は順次拡大され終戦時には当初の倍以上の面積を占めるにいたります。
 戦後、米軍に接収される朝鮮戦争、ベトナム戦争の基地としても使われ、昭和32年には海上自衛隊が基地の一部を米軍と共同使用することとなり、現在の基地の総面積は640ha、錦川の河口三角州のほぼ3分の2を占めるまでに広がっています。

 


 

町の立地条件と構造


 錦川は山口県内で最も広い流域面積をもつ河川で、瀬戸内海に流れ出る手前、山間部から平野部に出たところ、大きくS字に蛇行する場所に、岩国城下町は建設されました。
 岩国城は、北東西の三方を錦川に囲まれ、南から延びる尾根筋の先端、要害の地に建設されました。



 岩国城のあった城山の南東の麓は横山とよばれ、上級武家屋敷町がおかれていました。横山を含む岩国城内は、錦川を天然の外堀として、まさに要害の地といえる場所にありました。

 横山の対岸には、錦見とよばれる町屋を中心とした城下町が形成され、この地区がかつての岩国の中心地でした、 現在の岩国駅周辺には農地が広がっていましたが、明治以降の岩国駅の開通、飛行場の開設、帝人などの工場の進出により、町の中心地は海岸沿いに移っています。



 横山地区にある吉香神社は、江戸期に藩政庁が置かれていた場所で、廃藩置県後にはここが岩国県庁となりました。
 山口県に統合された後は、土地建物共に競売に付されましたが、明治18年に旧藩主を祀る吉香神社が移され、その境内の公園化が進められてきました。

 横山地区には、幾つかのどっしりした構えの長屋門があり、無骨な石垣の堀ではない、緑に縁取られた柔らかな内堀が残されています。
 白漆喰塗に瓦葺きの土塀、そして塀越しに覗く緑の木々、上級武家屋敷跡らしい静かで風格ある佇まいがそこにあります。

 ほかの城下町ではすでに失われた、時がゆったりと流れる空間がここには残されています。



左中:旧の内堀  右:吉香神社




横山に残る長屋門と土塀


 岩国城山頂から見ていると、錦川の大きさに圧倒されて華奢で健気に見えた錦帯橋も、川縁から間近で見るとその大きさに驚かされます。
 石造りの橋脚の基礎部分の安定感と、木製のアーチ橋が連続するリズム感が、人々の心を引きつけるこの橋の魅力なのでしょう。
 それにしても、この橋、かなり歩き難い・・・

 架橋以来300年近く幾度の増水でも流されることのなかった錦帯橋は、昭和25年の台風によりあっさり流失してしまいます。
 連合軍が岩国基地の大改修を行った際に、錦川の川砂を大量に採取したのが原因だといわれています。
 現在の錦帯橋はその後に再建されたものです。



左中:錦帯橋  右:橋上からみる城山


 錦帯橋を渡り、そこから東に延びる大手通りは大名小路とよばれ、沿道には立派な門構えをもつ家が多く残り、この沿道も武家屋敷町だったことを今に伝えています。



大名小路の町並み


 小路を更に進むと、三角形の広場にでます。明治末期に開通した岩国鉄道の新地駅ターミナルがあった場所です。
 大正時代に岩国の交通の中心地だった周辺には、レトロ調の建物が目に付きます。

 かつての宿屋を思わせる木造三階建ての建物や、昭和初期頃のものと思われる木造洋館風の建物が、広場に面して建てられ、近くにはかつての賑わいの余韻を感じます。


 大名小路から南に入ると岩国七町とよばれた町屋町になります。

 昭和20年の5月と8月に岩国は米軍の大空襲を受けていますが、狙われたのは沿岸部の陸軍燃料廠などで、旧城下町の横山、錦見は戦火をまぬがれています。
 また、江戸期を通してもさしたる大火があったわけではないよなのですが、町中には江戸期から明治大正期までの、どっしりした商家はあまり残されていません。

 しかし、いまでも幅4m程度の道路の両側には、2階建て家屋が軒を並べている様子は、かつての町屋の風情を伝えています。

 その中にあって最も目を引くのは、玖珂町にある國安家と材木町の商家です。
 國安家は、嘉永年間(1850頃)に髪付油を製造販売していた松金屋によって建築されたと伝えられ、どっしりとした豪壮なファサードは岩国城下の町屋の面影をよくとどめている。
 現在は漬物問屋となっている材木町の商家も、当時の姿のまま綺麗に保存されています。



右は登富町商店街の看板が架かっていた通り





左:柳井町  中:玖珂町の國安家  右:材木町の商家


 幅員10m以上もある臥竜橋通りが、町屋の中心部を横断しています。
 錦帯橋の下流に臥竜橋が架けられたのが大正10年ですので、このときに合わせて道路拡幅されたのかもしれません。
 2〜3階建の妙に平面的なファサードの商店が並び、歩道もないのにそれぞれの店は勝手気ままにビニール製の庇をだしています。この無機質なのっぺら感と無秩序なところがなんとなくアジア風で、市場的風景を演出しています。

 通りの突き当りには岩国藩主吉川家歴代の守護神だった椎尾八幡があります。
 八幡宮は寛永三年(1626)に、岩国二代藩主吉川広正が、駿河八幡宮の神霊を奉還すると同時に、東北の椎尾地区にあった猿田彦神を合祀したものです。



左中:臥竜橋通り  右:駿河八幡宮


 


 

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岩国城とそこからの風景


 本物の岩国城は、江戸初期に幕府の一国一城令により破却されていて、現在の城はかつての絵図をもとに、模擬天守として昭和37年に復元建築されたものです。
 天守は、もともと本丸の北隅にありましたが、復元にあたり錦帯橋から見えるように現在の位置に移されました。
 1、2階と最上階の物見台は下見板張りですが、3、4階は白漆喰塗り、しかも3階より4階の方が大きく張り出す独特の構造をしていて、これを「南蛮造り」というそうです。

 冒頭で述べたとおり、ここからの眺めは絶景で、錦川沿いに造られた町の構成が一望のもとで分かります。
 天守の近くまでロープウェイで登れるので、岩国を訪れた際には是非とも山頂から岩国の町を眺めることをお勧めします。



 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.7


参考資料

使用地図
@国土地理院 空中写真閲覧サービス 1/40,000 岩国 2000.11〜12


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