鹿児島 −桜島と対話する 薩摩藩都の城下町−
鹿児島の印象を決めているのは |
町の特徴
薩英戦争、西南の役、太平洋戦争。 |
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100年前の鹿児島 現在の地形図と100年前(明治35年)の地形図を見比べてみます。明治期の町は鶴丸城跡の東(平野の北側)に集中し、現在の鹿児島中央駅から南には田畑が広がっています。 鹿児島の中心地である中央駅が、かつては市街地のはずれだったことが分かります。 現在の市街地は、明治期に比べて南方向に大きく拡大し、錦江湾の埋め立てと山側へ住宅地が広がっていることも分かります。 ※10秒毎に地図が遷移します。 |
町の歴史 城下町の建設
鹿児島は薩摩国、大隅国そして日向国の南西一部を合わせ、島津薩摩藩77万石の藩都として栄え、幕末維新を牽引し、明治新政府の中心人物を数多く輩出した町です。 鹿児島を飛躍させた名君
農業的には貧弱だった薩摩藩が、倒幕の中核を担うほど経済的、軍事的に強大になるのは、琉球王府を通した中国との貿易を基礎に、歴代の藩主による富国強兵、殖産興業政策がとられたからです。 あいつぐ戦災による町の破壊
鹿児島は、幕末から太平洋戦争までの戦乱により、町は今まで何度かの戦火に身を焦がしてきました。そのため、古い町並みは何一つ残ってはいません。 明治期以降の町の発展
鹿児島に初めて鉄道が開通したのは、明治34年のことで、鹿児島〜国分間の鹿児島線(現在の日豊線)でした。 |
町の立地条件と構造 鹿児島の立地特性としては次の3つがあげられます。 その第1は鹿児島の閉鎖性と桜島の存在です。 東京、京都など日本の中心地からとても遠く、霧島山系の山並みが、九州の他地域からも鹿児島を隔絶しています。 そして、桜島の圧倒的な存在感が、鹿児島の閉鎖性を強調しているようにみえます。 霧島山地にある空港からバスに乗り市内に向かい、桜島が目の前に現れたとき、極端に表現すれば、異国に来たのではないかと錯覚してしまうほどです。 荒々しい桜島の姿は市内のどこからでも見て、桜島を中心として鹿児島の町は成立しているようにも見えます。実際に市内のマンションは南側ではなく、西側(桜島の方向)にバルコニーを配置しています。
第二の特性はシラス台地です。 県内のほとんど全域を覆うシラス(火山灰土)の堆積が、鹿児島の農業の低生産性の原因となり、時には数十mの厚さにも堆積し大きな台地を形成しています。 シラスは桜島の火山灰だと勘違いしている人が多いようですが、実はそうではなく、太古に存在した姶良火山(カルデラ)の火山灰の堆積土です。 海面に沈んで分かりにくくなっていますが、錦江湾の北部は姶良カルデラの跡で、太古に大噴火したカルデラに海水が侵入して湾となったもので、桜島はその外輪山にすぎません。錦江湾口は阿多カルデラ跡で、開聞岳はその外輪山にあたります。 シラスは、土というよりガラスの極小破片の塊といったほうが近く、農業面から見ると耐水性に乏しく、地味でやせてしまって全く農業に適しません。近世初期に伝来した甘藷(かんしょ)がこの地に適した作物として定着し、薩摩芋とよばれています。 一方、地形的にみると、シラス台地辺部では急勾配の斜面が多く見られます。かつて地滑りがあったであろうシラスの地肌がみえ、ほぼ垂直に近い傾斜の山もあり、山水画的風景を見せてくれます。 第三には、鹿児島の開放性を上げなければなりません。 これは第一の閉鎖性と矛盾するようにも見えますが、こうした相反する特性が並存する点に、鹿児島が大きな歴史のうねりの中心たりえた理由があります。 琉球を始めとする南方海上に点在する島々に目を移したとき、この開放的特性が浮かび上がってきます。 薩摩藩が幕末期の雄藩として維新を遂行できたのは、島津氏の中国大陸との結びつきの深さがあります。 鎖国時においても琉球王府を通じて外国の物資・情報が伝えられ続け、異国の文化をいち早く摂取できたことが、富国強兵、殖産興業を行えたことはすでに述べたとおりです。 鹿児島城下町の様子を描いた江戸期の絵図として、寛文十年のものと、天保十四年のものがあります。 このうち寛文十年の絵図をもとに、現在の地形図に江戸初期の城下の範囲を、書き入れてみました。 鹿児島中央部を流れる甲突川は、南に大きく広がる鹿児島平野から城下町を防御する、天然の外堀として機能していました。 江戸初期、寛文十年絵図によると、甲突川は、西本願寺別院の先(現松原町)で錦江湾に注いでいたようです。 これより以前は、和泉崎(城山の南西端で現平之町付近)で大きく曲がり、城山の山麓を流れ、俊寛堀付近(現 山形屋デパート付近)が河口だったとの記録もあります。 俊寛堀とは、平家全盛の頃に平家打倒を計った鹿ケ谷の謀議が発覚したことにより、鬼界ヶ島(鹿児島の南100kmにある火山島の硫黄島)に流された俊寛が、島に渡るため船に乗ったといわれる場所です。 江戸期、城下町が南へ拡大するにしたがって、甲突川は南に付け替えられ、江戸後期には現在の位置となり、新しく城下に組み込まれた場所には新屋敷町が築かれました。 寛文十年絵図の海岸線は、現在よりずっと内陸側の現在の市電通りにあり、東本願寺別院のある易居(やすい)町辺りには、海に突き出た埋立地が見えます。 一方、西本願寺の別院は、今の松原町にありますが、ここはその名のとおり、松の植わった砂浜として絵図に描かれ、呉服町、船津町とつづく甲突川三角州の先端にありました。 今も松原町にある松原神社の本殿は南の方向を向いています。 また、城下町は鶴丸城を中心に南北に広がり、南北双方に小さな町屋地区(赤色で表示)が見られます。
鶴丸城より北側の市街地は総称して上町と呼ばれ、ここは城下町鹿児島の発祥の地だけに、島津家由縁の名所、旧跡が多くあります。 鹿児島に島津氏がはじめて拠点を置いた東福寺城は、海に近い多賀山公園内の高台にありました。現在では海沿いに高層マンションが建ち並び、海から城跡は見えませんが、桜島が真正面にみえ、姶良(隼人、国分)方面から鹿児島平野にでる要害の地にあたります。 城下町鹿児島の基点となった清水城は、天文十九年(1550)には廃城となり、その跡地には真言宗の大乗寺が置かれましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は清水中学校となっています。
いずれの城も、鹿児島平野の北端にあり、防衛戦略上の拠点にはなりえても、広大な鹿児島の地を治めるには北に寄り過ぎているようです。 浜町にある鹿児島駅は、いまでは市街地の北の外れになりますが、旧城下町からみると中心に位置しています。駅周辺は、市電のターミナルと広場、そして港町の雰囲気を残した商店街(らしきもの)が、かつての中心地の名残をみせています。
鶴丸城(御館)跡には、石垣と内堀が残されています。 黎明館(歴史資料センター)の建っている場所は、本丸として藩主の居館がありましたが、明治6年に焼失した後、第七高造士館(鹿児島大学の前身)となりましたが昭和20年の空襲で焼失し、昭和43年に現在の黎明館が建設されました。 図書館、美術館、博物館などが建ち並ぶ旧二の丸は、隠居した前当主や子弟たちの居宅でしたが、西南の役で焼失しています。 これらは、国道をはさんで新設された県立文化センターとともに、鹿児島の文化の中心ゾーンを形成しています。 また、現在中央病院の建つ場所は江戸期には御厩(おうまや)でしたが、維新後は征韓論に敗れて下野した西郷隆盛がここに私学校を創設しました。国道沿いの石垣には西南の役による弾痕が生々しく残されています。
城跡の南に広がるのが鹿児島一番の繁華街 天文館 です。 天文館通りを中心として、いくつものアーケード街が延びています。 江戸期には、天文館通りから東側(海側)が町屋で、西側(山側)が武家屋敷でしたが、武家屋敷の通りだった天文館通りが、なぜ鹿児島一の繁華街になったのでしょうか。 山形屋や三越のある場所は、鹿児島城下町ができた当初に成立した町屋なので、まずここが繁華街として栄え、その後旧武家屋敷のほうに拡大したのではないかと思います。
明治以降、鹿児島の市街地は城の南側に広がっていきました。 鹿児島中央駅は、今では鹿児島の交通の拠点となり、駅も大幅に改修され新幹線の発着する一大ターミナルとなっていますが、つい最近まで西鹿児島駅と称されていました。 たしかに、旧城下町から見ると西の端に位置しています。 城跡と鹿児島中央駅の間にあるのが、東西の千石町と鍛冶屋町です。 千石町は、江戸期には知行高が千石以上の重臣の屋敷が並んでいたため、こう呼ばれるようになりました。町中を貫き山下小学校の北側を通る県道は、かつての参勤交代の経路にあたり、甲突川を渡る西田橋は、新上橋、高麗橋、玉江橋、武之橋と合わせて5大石橋とよばれ市民に親しまれていました。 平成5年の鹿児島大水害で新上橋と武之橋が流され、残る3橋も撤去されて、現在は稲荷川河口の石橋記念公園に移設されています。
千石町の南にある鍛冶屋町は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎など、幕末から明治初期にかけて数多くの偉人を輩出した下級武士の屋敷町として有名です。 現在では、戦災復興の区画整理により往時の雰囲気はまったく感じられませんが、「誰某の出生地」と刻まれた巨大な石碑がいたるところにおかれています。
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城山からみる桜島 鹿児島を訪れたら、なにはともあれ城山に上り、桜島をバックに記念撮影をしましょう。 |
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鹿児島駅 明治末期、日豊本線により北九州方面とつながってから昭和前期までの間、ここは鹿児島一の交通ターミナルでした。 鉄道で鹿児島を訪れた人たちは、ここで路面電車に乗り換えて市内各地に向いました。 古い建物などが残っているわけではないのですが、どことなくレトロちっくでいい雰囲気を持っています。 |
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維新ふるさと館 明治維新の英傑達を数多く輩出した鍛冶屋町にある歴史館。 音や光のあふれる空間・ジオラマや、等身大ロボットなど、ハイテク技術を用いた展示方法によって、明治維新の歴史を、わかりやすく、楽しく体感できます。 結構おもしろい。 |
情報リンク
鹿児島市ホームページ 「敬天愛人」 西郷隆盛に関するホームページ 集成館事業 150年 鞄津興業のホームページ |
まちあるき データ
まちあるき日 2005.11 参考資料 @「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社 B「日本の城下町」ぎょうせい 使用地図 @1/25,000地形図「鹿児島」平成2年修正 A1/50,000地形図「鹿児島」平成3年修正 B1/50,000地形図「鹿児島」明治35年測図
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