鹿児島   −桜島と対話する 薩摩藩都の城下町−

鹿児島の印象を決めているのは
桜島の圧倒的な存在感だ
鹿児島の町そのものが 桜島を基軸にしてつくられ
すべての建物は 桜島と対話するかのように配置されている



 

 


 

町の特徴


 薩英戦争、西南の役、太平洋戦争。
 いくどもの戦火に身を焦がし、そのたびに鹿児島の町は破壊されてきました。そのため、鹿児島に古い町並みは何一つ残っていません。
 しかし、かつての城下を歩くと、鹿児島は桜島を基軸にして町割されたことがよくわかります。
 いまでも、建物は桜島と対話するかのように配置されていて、鹿児島における桜島の存在の大きさを実感します。



 


 

100年前の鹿児島

 現在の地形図と100年前(明治35年)の地形図を見比べてみます。

 明治期の町は鶴丸城跡の東(平野の北側)に集中し、現在の鹿児島中央駅から南には田畑が広がっています。
 鹿児島の中心地である中央駅が、かつては市街地のはずれだったことが分かります。
 現在の市街地は、明治期に比べて南方向に大きく拡大し、錦江湾の埋め立てと山側へ住宅地が広がっていることも分かります。  ※10秒毎に地図が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史



城下町の建設

 鹿児島は薩摩国、大隅国そして日向国の南西一部を合わせ、島津薩摩藩77万石の藩都として栄え、幕末維新を牽引し、明治新政府の中心人物を数多く輩出した町です。

 鹿児島が島津氏の本拠地となるのは、南北朝時代のことといわれています。
 暦応四年(1341)、北朝方の島津貞久が、南朝方の肝付兼重らが立て籠もる東福寺城(現在の多賀山公園)を攻略し、これを奪取しました。
 東福寺城は稲荷川の北岸、鹿児島湾に面した台地に築かれた山城で、単なる戦略上の砦としての機能しかもたなかったようで、城下町(守護町)の形成には至っていません。

 鹿児島が城下町としての体裁を整え始めるのは、嘉慶元年(1387)、島津元久が、東福寺城の北方1kmで同じく稲荷川北岸の丘陵に清水城(現在の清水中学校北側)を築いてからのことです。

 当時の鹿児島城下町は、この清水城を中心に形成されました。
 島津家の菩提寺である福昌寺(現在の玉龍高校の地)、本立寺や、稲荷神社・南方(諏訪)神社など上町五社と呼ばれた島津家にかかわりの深い神社が清水城の周囲に集中して建てられ、稲荷川河口は、海外貿易の拠点として栄えたといわれます。

 16世紀初頭、一時的に島津家は衰退し、それとともに清水城も荒廃したようですが、これに変わり、慶長五年(1600)頃には、島津家を再興した家久によって、鶴丸城(鹿児島城)の普請が始められます。


 当初、鶴丸城は、上山城(現在の城山公園)とその麓に築かれた居館(現在の鶴丸城跡)からなっていましたが、江戸中期には上山城は廃城となって居館のみが御城として残されました。
 鶴丸城は俗称で、正式には鹿児島城や府城などと呼ばれていましたが、天守閣はなく、熊本城など壮大な天守をもつ近世城郭と比べると貧弱な感は否めません。

 薩摩には「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という有名な言葉があります。
 あえて立派な城郭を構築するのではなく、城に匹敵した武士達を配置することで、城郭に匹敵する防御を固めることを兵法の基本的姿勢としていました。

 その表れが外城(とじょう)制でした。

 薩摩藩は薩摩、大隈の二国を領していましたが、その領内に百余りの外城を設け、そこに武士達(郷士)を配置していました。
 これら外城は、後に「郷」と改称されましたが、いまも城下町の風情の残る知覧や出水は典型的な例です。
 江戸幕府の一国一城令を事実上無視していたともいえます。

 また、薩摩藩は77万石の石高を誇り、加賀藩102万石に次ぐ雄藩でしたが、籾高ではなく米高に直すと40万石にも満たないといわれていました。また、総人口の4分の1が士族であり、この比率は全国平均の6倍にあたり、財政的には相当苦しかったようです。

 そのため、外城に勤める藩士の多くは、普段の生活では農耕に携わり、定期的に軍事訓練を受けて、事が起きれば武士集落がそのまま軍となってなって戦う制度になっていたのです。

 外城の武士達は「郷士」と呼ばれ、城下の武士達「城下士」の下位におかれ、両者の身分格差ははっきり区別されていました。


 鶴丸城を中心とした新たな城下町の建設が始まった当時、海岸線はいまよりずっと内陸側の市電の通りにありました。
 島津家久が鶴丸城を今の地に築こうとしたとき、戦国の武勇で知られた父義弘は、城下町建設に伴う経済的な理由と、海に近すぎて海上からの攻撃に弱いという地理上の問題点をあげ反対したといわれています。
 戦国大名義弘にとって、城郭の立地は防衛的視点が最も重要であり、城下町経営に重きをおいた家久とは考えかた大きく違ったのでした。

 城下町の建設は、海岸の埋め立てや、甲突川の付け替え、役所、屋敷の移転整備を繰り返しながら行われたようです。


 文政九年(1826)の記録によると、鹿児島城下の人口は58,000人ほどあったらしく、このうち武士階級が17,000人余り、その家臣、家族が36,000人余りで、町人はわずか5,000人でした。
 鹿児島の人口の9割が武士階級であり、鹿児島は文字通り武士の町でした。


鹿児島を飛躍させた名君

 農業的には貧弱だった薩摩藩が、倒幕の中核を担うほど経済的、軍事的に強大になるのは、琉球王府を通した中国との貿易を基礎に、歴代の藩主による富国強兵、殖産興業政策がとられたからです。

 慶長元年(1609)、薩摩藩はそれまで友好関係にあった琉球王国に侵入し支配下におきます。以降、琉球王国を通した中国貿易は、薩摩藩に莫大な利益をもたらしたといわれています。
 また、中国を通じた西洋技術の導入も行われると同時に、世界情勢についての情報もいち早く正確に伝わったようです。そして、技術と情報を国づくりに生かす、英気をもった藩主が出たことが藩の飛躍につながります。

 「島津に暗君なし」といわれるほど、薩摩藩の歴代藩主には優れた人物が多かったようです。
 特に、第25代重豪(しげひで)から斉興(なりおき)、斉彬(なりあきら)と江戸後期には英邁な藩主がつづきます。

 そのなかでも第25代島津重豪は、江戸期の殿様としては飛びぬけた文化意識の高い人物でした。
 藩校の造士館、武術の演武館を創設し、人材育成の基礎をつくると同時に、西洋医学研究の医学館、紡績工場、そして天文館という天体観測所まで建設しています。
 天文館は正式には明時館といい、高さ4mの露台があり、天体観測器具を備えていました。当時は、天体観測の妨げとならないよう灯火管制がしかれていたといわれますが、現在この地は鹿児島一の繁華街としてネオンがこうこうと輝いています。

 その子 斉興は、製薬所を郊外の中村(現鴨池2丁目)に建設します。同時に薬瓶の製造も始まり、これが発展して薩摩切子というガラス工芸品を生み出しました。

 斉興の子、島津斉彬は幕末期の賢侯のひとりに数えられますが、彼の最大の業績は薩摩藩を西洋並みの産業国家に変えたことでした。
 水力発電所を建設し、有線の電信機を城内に設置したり、西洋式の火薬製造を行い、鹿児島湾防衛用の水雷、鉱山開発用の地雷をも実用化しました。
 そして、嘉永五年(1852)には、大砲鋳造のための反射炉や溶鉱炉、ガラス工場などが配された集成館という工場群を建設し、薩摩藩の富国強兵、殖産興業政策の中核としました。
 薩英戦争時の海岸砲はすべて国産であり、当時最新鋭のライフル銃や蒸気船まで国産化に成功していました。
 


あいつぐ戦災による町の破壊

 鹿児島は、幕末から太平洋戦争までの戦乱により、町は今まで何度かの戦火に身を焦がしてきました。そのため、古い町並みは何一つ残ってはいません。

 その最初の戦火が幕末期の薩英戦争でした。

 文久2年(1862)に起こった生麦事件により、翌年7隻のイギリス艦隊が鹿児島に来攻しました。
 英海軍の世界最新鋭アームストロング砲が威力を発揮して、市街地の一割を焼失させる損害をあたえましたが、旧式装備の薩摩軍も士気は旺盛で、英国艦隊に戦死者60余名におよぶ打撃を与えました。
 薩摩藩は,この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論を開国へ大きく転回したのです。

 そのつぎは西南の役です。

 命をかけ戊辰戦争を戦い抜いた武士達を待っていたのは、封建社会の崩壊による武士階級の消滅、つまり自らの失業でした。
 その不満が全国に吹き荒れ、佐賀、萩など全国各地で旧武士達による明治政府への反乱があいつぎ、その最大で最後の乱が西郷隆盛を担いだ明治10年の西南の役でした。
 当初、薩摩軍は南九州全域で善戦しますが、田原坂の戦いで敗れた後徐々に劣勢となり、最後は鹿児島まで政府軍に攻め込まれ、城山に立て籠もった西郷隆盛の自決により戦いは終結します。
 この時の戦火は城内にも及び、二の丸は西南の役により焼失しています。

 そして太平洋戦争。

 昭和20年の春から夏にかけて、鹿児島は8回もの空襲を受け、死者約3300人、家屋被害約20,000戸、 市街地の約9割が焦土となる被害を受けました。
 特に、6月17日の空襲は最大規模で、午後11時過ぎ、100機以上のB29が焼夷弾を投下し、2300人が死亡、12,000戸が一夜で焼失しました。

 これらの相次ぐ戦災により、鹿児島市内の建物はすべて破壊され、往時から残るものは鶴丸城跡の石垣ぐらいしかありません。
 戦災復興事業により、市内の道路はことごとく拡幅され、鶴丸城跡周辺には公共施設が建ち並び、天文館周辺は繁華街に、下級武士の屋敷町だった千石町や加治屋町はオフィス街となりました。


明治期以降の町の発展

 鹿児島に初めて鉄道が開通したのは、明治34年のことで、鹿児島〜国分間の鹿児島線(現在の日豊線)でした。
 鹿児島と北九州地域が結ばれたのは明治42年、吉松・人吉間の矢嶽トンネルが完成した時であり、さらに、現在の川内経由の鹿児島線となったのは、ずっと遅れて昭和2年、湯浦〜水俣間が開通したときでした。
 明治20年代に山陽本線が全通し、30年代には九州の鉄道(現在の鹿児島本線と日豊本線)が開通し、南端にある鹿児島につながったのが40年代だったのは、山陰本線が大正期に入ってようやく全通したことを思うと順当のように思います。

 市制が施行された明治22年、人口は5.8万人を数え、鹿児島は長崎や福岡を抑えて九州最大の都市でしたが、市街地は相変わらず甲突川の北部に集中していました。
 市街地が甲突川を越えて南下し始めるのは明治末期からです。
 その後、南部に隣接する村々の編入を繰り返し、昭和10年代には人口20万人を越え、昭和40年代後半には人口30万人を越えて、平野部は市街地で埋め尽くされ、住宅地は平野部から周辺のシラス台地へ拡大していきました。

 現在、鹿児島市の人口は60万人を超えています。
 鹿児島県の人口の1/3を占め、県下第2位の霧島市(平成17年11月に市町村合併により誕生)がようやく13万人に達しただけで、圧倒的な鹿児島市へ集中現象を見せています。

 これだけの人口の増加と集中を促したのは、昭和40年代に相次ぎ行われたシラス台地への大型住宅団地の開発と海岸部埋立による工場用地の拡大でした。

 昭和30年代から紫原団地の開発造成から始まり、原良団地、伊敷団地、玉里団地、桜ヶ丘団地、星が峰ニュータウン、皇徳寺ニュータウンなど、100haを超える大型団地が次々と平野を取り囲むように標高100m前後のシラス台地に開発されました。

 工場団地も、昭和30年代から次々と埋め立てが進み、昭和50年代後半まで合計800haを超える埋め立てが行われ、広大な臨海工業団地が出現しています。

 また、甲突川河口の与次郎ヶ浜は、江戸末期に平田与次郎により10ha規模の塩田が開墾された場所ですが、昭和40年代に住宅地造成のため山を削ったシラスの土砂を埋め立てて、現在では100haを超える埋立地となり、運動公園、市民文化ホール、遊園地、ホテルなどの施設が立地し、県庁も移転して鹿児島の新たな中心地になりつつあります。

 平成16年春、九州新幹線が開通したと同時に、西鹿児島駅は鹿児島中央駅となり、駅舎や駅前広場などが一新されました。

 


 

町の立地条件と構造


鹿児島の立地特性としては次の3つがあげられます。


その第1は鹿児島の閉鎖性と桜島の存在です。

 東京、京都など日本の中心地からとても遠く、霧島山系の山並みが、九州の他地域からも鹿児島を隔絶しています。
 そして、桜島の圧倒的な存在感が、鹿児島の閉鎖性を強調しているようにみえます。

 霧島山地にある空港からバスに乗り市内に向かい、桜島が目の前に現れたとき、極端に表現すれば、異国に来たのではないかと錯覚してしまうほどです。
 荒々しい桜島の姿は市内のどこからでも見て、桜島を中心として鹿児島の町は成立しているようにも見えます。実際に市内のマンションは南側ではなく、西側(桜島の方向)にバルコニーを配置しています。


圧倒的な桜島の存在感  左:城山からの桜島  中右:市内中心部から桜島が垣間見える


第二の特性はシラス台地です。

 県内のほとんど全域を覆うシラス(火山灰土)の堆積が、鹿児島の農業の低生産性の原因となり、時には数十mの厚さにも堆積し大きな台地を形成しています。

 シラスは桜島の火山灰だと勘違いしている人が多いようですが、実はそうではなく、太古に存在した姶良火山(カルデラ)の火山灰の堆積土です。

 海面に沈んで分かりにくくなっていますが、錦江湾の北部は姶良カルデラの跡で、太古に大噴火したカルデラに海水が侵入して湾となったもので、桜島はその外輪山にすぎません。錦江湾口は阿多カルデラ跡で、開聞岳はその外輪山にあたります。

 シラスは、土というよりガラスの極小破片の塊といったほうが近く、農業面から見ると耐水性に乏しく、地味でやせてしまって全く農業に適しません。近世初期に伝来した甘藷(かんしょ)がこの地に適した作物として定着し、薩摩芋とよばれています。

 一方、地形的にみると、シラス台地辺部では急勾配の斜面が多く見られます。かつて地滑りがあったであろうシラスの地肌がみえ、ほぼ垂直に近い傾斜の山もあり、山水画的風景を見せてくれます。



第三には、鹿児島の開放性を上げなければなりません。

 これは第一の閉鎖性と矛盾するようにも見えますが、こうした相反する特性が並存する点に、鹿児島が大きな歴史のうねりの中心たりえた理由があります。
 琉球を始めとする南方海上に点在する島々に目を移したとき、この開放的特性が浮かび上がってきます。

 薩摩藩が幕末期の雄藩として維新を遂行できたのは、島津氏の中国大陸との結びつきの深さがあります。
 鎖国時においても琉球王府を通じて外国の物資・情報が伝えられ続け、異国の文化をいち早く摂取できたことが、富国強兵、殖産興業を行えたことはすでに述べたとおりです。



 鹿児島城下町の様子を描いた江戸期の絵図として、寛文十年のものと、天保十四年のものがあります。
 このうち寛文十年の絵図をもとに、現在の地形図に江戸初期の城下の範囲を、書き入れてみました。




 鹿児島中央部を流れる甲突川は、南に大きく広がる鹿児島平野から城下町を防御する、天然の外堀として機能していました。

 江戸初期、寛文十年絵図によると、甲突川は、西本願寺別院の先(現松原町)で錦江湾に注いでいたようです。
 これより以前は、和泉崎(城山の南西端で現平之町付近)で大きく曲がり、城山の山麓を流れ、俊寛堀付近(現 山形屋デパート付近)が河口だったとの記録もあります。

 俊寛堀とは、平家全盛の頃に平家打倒を計った鹿ケ谷の謀議が発覚したことにより、鬼界ヶ島(鹿児島の南100kmにある火山島の硫黄島)に流された俊寛が、島に渡るため船に乗ったといわれる場所です。

 江戸期、城下町が南へ拡大するにしたがって、甲突川は南に付け替えられ、江戸後期には現在の位置となり、新しく城下に組み込まれた場所には新屋敷町が築かれました。

 寛文十年絵図の海岸線は、現在よりずっと内陸側の現在の市電通りにあり、東本願寺別院のある易居(やすい)町辺りには、海に突き出た埋立地が見えます。

 一方、西本願寺の別院は、今の松原町にありますが、ここはその名のとおり、松の植わった砂浜として絵図に描かれ、呉服町、船津町とつづく甲突川三角州の先端にありました。
 今も松原町にある松原神社の本殿は南の方向を向いています。

 また、城下町は鶴丸城を中心に南北に広がり、南北双方に小さな町屋地区(赤色で表示)が見られます。


左:本願寺別院  中:松原神社 前面道路に平行に南方向を向いている  右:甲突川からみる桜島



 鶴丸城より北側の市街地は総称して上町と呼ばれ、ここは城下町鹿児島の発祥の地だけに、島津家由縁の名所、旧跡が多くあります。

 鹿児島に島津氏がはじめて拠点を置いた東福寺城は、海に近い多賀山公園内の高台にありました。現在では海沿いに高層マンションが建ち並び、海から城跡は見えませんが、桜島が真正面にみえ、姶良(隼人、国分)方面から鹿児島平野にでる要害の地にあたります。
 城下町鹿児島の基点となった清水城は、天文十九年(1550)には廃城となり、その跡地には真言宗の大乗寺が置かれましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は清水中学校となっています。


左:春日町にある石垣 中:春日神社は桜島方向を向いている 右:背後にみえる清水城跡


祗園之洲大橋からみる多賀山公園 左の川が稲荷川、右手のマンションの背後の山が東福寺城跡



 いずれの城も、鹿児島平野の北端にあり、防衛戦略上の拠点にはなりえても、広大な鹿児島の地を治めるには北に寄り過ぎているようです。

 浜町にある鹿児島駅は、いまでは市街地の北の外れになりますが、旧城下町からみると中心に位置しています。駅周辺は、市電のターミナルと広場、そして港町の雰囲気を残した商店街(らしきもの)が、かつての中心地の名残をみせています。


左:鹿児島駅前の風景  右に市電のターミナルかみえ、右奥が鹿児島駅  右:鹿児島駅前のかつての商店



 鶴丸城(御館)跡には、石垣と内堀が残されています。
 黎明館(歴史資料センター)の建っている場所は、本丸として藩主の居館がありましたが、明治6年に焼失した後、第七高造士館(鹿児島大学の前身)となりましたが昭和20年の空襲で焼失し、昭和43年に現在の黎明館が建設されました。
 図書館、美術館、博物館などが建ち並ぶ旧二の丸は、隠居した前当主や子弟たちの居宅でしたが、西南の役で焼失しています。
 これらは、国道をはさんで新設された県立文化センターとともに、鹿児島の文化の中心ゾーンを形成しています。

 また、現在中央病院の建つ場所は江戸期には御厩(おうまや)でしたが、維新後は征韓論に敗れて下野した西郷隆盛がここに私学校を創設しました。国道沿いの石垣には西南の役による弾痕が生々しく残されています。


鶴丸城(鹿児島城)に残る石垣と堀  右後方が私学校跡(現中央病院)



 城跡の南に広がるのが鹿児島一番の繁華街 天文館 です。
 天文館通りを中心として、いくつものアーケード街が延びています。
 江戸期には、天文館通りから東側(海側)が町屋で、西側(山側)が武家屋敷でしたが、武家屋敷の通りだった天文館通りが、なぜ鹿児島一の繁華街になったのでしょうか。
 山形屋や三越のある場所は、鹿児島城下町ができた当初に成立した町屋なので、まずここが繁華街として栄え、その後旧武家屋敷のほうに拡大したのではないかと思います。


右:山形屋横の通り  中:天文館通り  左:照国神社と右背後は城山



 明治以降、鹿児島の市街地は城の南側に広がっていきました。

 鹿児島中央駅は、今では鹿児島の交通の拠点となり、駅も大幅に改修され新幹線の発着する一大ターミナルとなっていますが、つい最近まで西鹿児島駅と称されていました。
 たしかに、旧城下町から見ると西の端に位置しています。

 城跡と鹿児島中央駅の間にあるのが、東西の千石町と鍛冶屋町です。

 千石町は、江戸期には知行高が千石以上の重臣の屋敷が並んでいたため、こう呼ばれるようになりました。町中を貫き山下小学校の北側を通る県道は、かつての参勤交代の経路にあたり、甲突川を渡る西田橋は、新上橋、高麗橋、玉江橋、武之橋と合わせて5大石橋とよばれ市民に親しまれていました。
 平成5年の鹿児島大水害で新上橋と武之橋が流され、残る3橋も撤去されて、現在は稲荷川河口の石橋記念公園に移設されています。


右:石橋記念公園に移設された西田橋  中:鹿児島中央駅 観覧車がなんともいえない・・・
右:駅前のメインストリート



 千石町の南にある鍛冶屋町は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎など、幕末から明治初期にかけて数多くの偉人を輩出した下級武士の屋敷町として有名です。
 現在では、戦災復興の区画整理により往時の雰囲気はまったく感じられませんが、「誰某の出生地」と刻まれた巨大な石碑がいたるところにおかれています。


左:鍛冶屋町の町並み ごく普通の町です  中:西郷隆盛生誕の碑  右:大山巌生誕の碑


 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

城山からみる桜島


 鹿児島を訪れたら、なにはともあれ城山に上り、桜島をバックに記念撮影をしましょう。
鹿児島駅


 明治末期、日豊本線により北九州方面とつながってから昭和前期までの間、ここは鹿児島一の交通ターミナルでした。
 鉄道で鹿児島を訪れた人たちは、ここで路面電車に乗り換えて市内各地に向いました。
 古い建物などが残っているわけではないのですが、どことなくレトロちっくでいい雰囲気を持っています。
維新ふるさと館


 明治維新の英傑達を数多く輩出した鍛冶屋町にある歴史館。
 音や光のあふれる空間・ジオラマや、等身大ロボットなど、ハイテク技術を用いた展示方法によって、明治維新の歴史を、わかりやすく、楽しく体感できます。
 結構おもしろい。

 


 

 情報リンク

 

鹿児島市ホームページ



「敬天愛人」 西郷隆盛に関するホームページ



集成館事業 150年 鞄津興業のホームページ


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.11


参考資料

@「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社
B「日本の城下町」ぎょうせい

使用地図
@1/25,000地形図「鹿児島」平成2年修正
A1/50,000地形図「鹿児島」平成3年修正
B1/50,000地形図「鹿児島」明治35年測図


ホームにもどる