亀 岡   −山陰、丹波から京への出入口にあたる町−

京の都と老ノ坂峠をはさんで至近の距離にあり、
日本海に通じる山陰道、播磨国への篠山街道、池田に抜ける摂丹街道がここで分岐する。
戦国時代の信長期には明智光秀が、秀吉期には太閤の近親大名が、
そして、江戸期には徳川譜代の大名がこの地を治めた。
古代より畿内、京との関係の中で特殊な立地条件をもった町だった。



 

 


 

町の特徴

 亀岡は、江戸期以前は「亀山」とよばれていました。
 この町は戦国期に丹波領主だった明智光秀が築いた城下町です。

 そして、いまでも城下町時代のスケール感をとてもよく残しています。

 マンションの乱立や幹線道路による町の分断など、無秩序な市街化がされることなく、かといって、空地や空家が目立つように、廃れて時代から取り残されることもなく、秩序を保った穏やかな建て替えが行われ、緩やかな市街化が進行したようです。
 そのため、道巾と建物高さのバランスや壁面の連続性などに安心感があり、町を歩いていてもどことなく心地よさを感じます。往時のヒューマンスケールな空間が町中には残っています。


紺屋町に残る旧町屋

建物が建て替わっている旅篭町のまち並み。

 


 

100年前の亀岡

現在の地形図と100年前の地形図を見比べるてみます。
 ・亀山城本丸(現大本本部)の南側に城下町が東西に広がっていたことが分かります。
 ・100年前の地図は明治31年測量のものですので、開通直後の山陰本線が表示されています。
 ・鉄道と国道9号線が旧市街地を挟み込むように南北にはしり、その周辺に市街地が広がっていますが、城下町の形はほぼそっくり残っていることが分かります。

 


 

町の歴史

戦国期以前の亀山

 古来より、丹波は山陰道七国の最初の国として重要な位置を占めてきました。

 丹波の入り口にあたる亀岡盆地は「口丹波」とよばれ、その中でも亀山は地理的に都に近いため、当時から集落もかなり存在しており、国府が置かれ、国分寺が建てられるなど、亀山は政治、文化の中心的な地域でした。

 中世になると、荘園を管理していた武士の勢力が強まり、鎌倉時代には東国の御家人が新しく地頭として配置されるなど、幕府による統治が進みましたが、丹波は禁裏(朝廷)御料、摂関家領、大社寺領などの荘園が多く存在していたため、有力な土豪勢力が育たなかったといわれます。
 鎌倉末期には、足利尊氏が口丹波に拠点をおき、篠村の八幡宮で兵を上げたのち、丹波の軍勢を糾合して京都六波羅を攻め滅ぼすことになります。
 室町後期には、黒井城(春日町)に本拠をおき氷上郡に支配した萩野氏、八上城(篠山市)に本拠をおき多紀郡に勢力もった波多野氏など、いくつかの有力土豪が台頭してきました。

明智光秀による亀山城築城

 天正三年(1575)、織田信長の命を受けた明智光秀により、5年の歳月をかけた丹波平定の戦が開始されます。光秀は、丹波全域を攻略するための軍事的拠点として、また、その後の丹波支配の本拠地として、京都と山陰地方、播磨地方をむすぶ要所の亀山に城郭を築きました。

 城郭は、大堰川の氾濫地域の南にある丘陵に配置され、その南を通る山陰道を取り込むように城下町が形成されました。室町末期には、すでに亀山周辺の大堰川(保津川)右岸の段丘上にいくつかの集落が散在していて、この村々の住人達が城下町に集められました。
 本格的な城下町の整備は、丹波平定後の天正九年以降からと推定され、光秀がその基礎を築き、以降の歴代の城主によって整備が進められたといわれています。

 天正十年(1582)、信長は宿敵武田氏を滅ぼし、いよいよ中国の毛利氏攻めが本格化します。光秀は、中国攻めを行う羽柴秀吉への援軍を命じられ、亀山城から出陣することになります。
 出陣の数日前、光秀は愛宕山に詣で、同所の西の坊で連歌に興じています。その時の光秀による発句は、あまりにも有名です。

「ときは今 天が下しる 五月哉」

「とき」とは土岐氏=光秀の出自を意味し、「天が下しる」とは天下を掌握することを意味するといわれています。
 光秀は1万3000の兵を率いて亀山城を出発し、老ノ坂峠を越え、京都沓掛にいたります。ここを右に向かえば、山崎をへて西国街道を中国に向かうことになりますが、信長の閲兵と偽り左に馬頭を向け、桂川を渡ったのちに「敵は本能寺にあり」と、信長を討ちに進軍することになります。

亀山城下町の整備

 光秀の死後、丹波を支配したのは羽柴秀吉でした。秀吉は亀山城主に養子の羽柴秀勝(織田信長四男)や小早川秀秋らの近親の武将、そして前田玄以らの重臣を次々に配しています。秀吉が、京に接し山陰地方への交通の要所である亀山を、いかに重要視していたかが分かります。
 光秀が亀山城を築いてから、城郭や城下町の整備は継続的に行われてきたようですが、関が原の合戦(1600)から大阪の陣(1615)までの間には、その中でも最大規模の築城工事が行われたようです。
 慶長14年(1609)に亀山藩主となった岡部長盛は、幕府の命を受け、隣接の篠山城と同様に「天下普請」により亀山城を完成させています。内堀、外堀、惣掘の三重の堀によって城下町を一体化し、五層の天守閣をもった近世城郭がこのとき完成したのです。

 亀山藩は、丹波国の桑田郡を中心に、船井郡、氷上郡、多紀郡などの一部を領有した藩で、常に譜代大名が置かれましたが、藩主交替は頻繁に行われました。
 岡部氏が岸和田に転封となったのち、約25年の間に、松平氏、菅沼氏、藤井松平氏、久世氏、井上氏、青山氏と六家が藩主となり、寛延元年(1748)以降は形原松平家が明治まで治めることになります。

 明治初期、政府は反政府勢力の拠点になることを恐れて廃城令を公布し、一部の例外を除いて全国の城郭を取り壊すこととしました。亀岡城もこのときに破壊されました。城郭の土地は払い下げられ、何度かの転売を経たのち、大正8年(1919)、本丸と二の丸が宗教法人大本の所有となりました。城郭は、昭和初期の大本弾圧事件により廃墟となりましたが、現在ではきれいに復旧されて大本の本部となっています。

 明治32年、亀岡の田中源太郎を中心として設立された京都鉄道会社により、京都から綾部までを結ぶ鉄道が開通しました。このとき旧亀山城の石垣の石が使われたといわれます。
 また昭和31年には国道9号線が開通し、昭和44年には9号線と亀岡駅をむすぶクニッテルフェルト通り(その5年前に姉妹都市となったオーストリアの市の名前をつけた幹線道路)が開通し、現在の亀岡中心部の骨格はできあがります。
 その一方で、慶長11年(1606)、京都の豪商角倉了以によって開かれた保津川の船運は衰退を余儀なくされ、今では観光用の船下りだけが盛況を呈するようになりました。

 


 

町の立地条件と構造


 亀岡の市内から京都の方をみると妙なことに気がつきます。

 亀岡市内から東にあたるこの方向は、山陰地方から京都への入り口部にあたるだけではなく、亀岡盆地の水を集めた大堰川(保津川)が京都方面に流れでる方角でもあります。しかし、亀岡市内から東をみたとき、そこには山が連なり、街道や川が京都に抜けているようはとても感じられません。

 保津川は、周囲の山々から流れでる川を集めながら広い亀岡盆地をゆったりと流れた後、この先から渓谷(保津峡)に入ることになります。流末が狭い渓谷になっているため、最近まで保津川の沿岸は、普段でも湿地帯で、大雨が降ると水浸しになる氾濫原だったのです。
 また、遠く日本海沿岸地域からくる山陰道は、亀岡の町で、播磨国の姫路から通じる篠山街道、摂津国の池田から通じる摂丹街道と合流し、老ノ坂峠を越えて京都に入ることになります。光秀は、保津川渓谷の北側の峠道を越えて本能寺に向かったといわれ、このルートは今では明智越とよばれています。

 亀岡の町は、主要街道の分岐部をしっかりと押さえる場所に位置し、保津川の氾濫原を北に接し、東西を年谷川と曽我谷川に囲まれ、この三方の川を天然の堀とした亀山城下町として計画されました。
 また、南側から保津川に合流する年谷川の扇状地の北端、保津川の河岸段丘の上に城郭は築かれたため、扇状地の地下を流れる水が、城の堀の底から自然に湧出しているといわれています。

 本丸は保津川の氾濫原を背にして配置され、上級家臣の屋敷は城内(外堀内)に、その外には中級家臣、城下町惣堀の外に下級家臣が、与力、同心、御旗組の組み屋敷に居住していました。
 また、数多くの寺院が外堀や惣掘の内側に配置されています。これらの寺院は、有事に際しての防衛拠点としての役割ももっていたのです。
 山陰道は城下町の中に組み込まれ、東の三宅町のあたりでは年谷川の橋の手前で街道を意図的に枡型に曲げ、西の安町では曽我部川の手前でくの字型に折れています。ともに城下町への直進を避ける工夫がされています。

 いまでは、本丸(内堀の内側)は宗教施設となり、上級武家屋敷と御館のあった二の丸、三の丸(外堀の内側)は、主に学校、官庁施設が立地しています。その外側で中下級武士の屋敷や町屋のエリアは、静かな住宅地として今も往時の雰囲気を残しています。
 城下町北側の保津川河川敷については、城郭からJR亀岡駅までのエリアは、高層建物を含む商業・業務施設が建ち、そこから保津川まではいまでも田畑が広がっています。
 城下町南側のエリアは、国道9号線沿いには沿道商業施設が並び、そこから南の山裾にかけては新興住宅地として開発されています。

 堀は内堀、外堀とも一部を残してすべて埋め立てられました。いまでも残る本丸北側の内堀沿いは、南郷公園として整備されていますが、宅地の裏手にあたるため目につかず、せっかくの町の歴史資産を生かすことができていません。
 惣堀は1〜3m巾の水路として城下町の外周全体に残っていますが、堀の名残はほとんど感じられません。また、惣堀の内側にあった土塁はほとんど見ることはできませんが、ほんの一部が正誓寺の南に残っています。


南郷公園沿いの内堀(左) 本丸内に残る築城当時の石垣(中) 正誓寺に残る土塁跡(右)


 旧町屋の地区には、マンションなど高層建物の乱立、幹線道路による町の分断、屋敷跡のミニ開発など、無秩序な市街化のあとはあまり見られませんし、かといって、空き地が散在したり、人の住まない空き家が目立つということもなく、廃れて時代から取り残されているわけでもありません。
 古い町並みは紺屋町と本町に残ってはいますが、それ以外の町ではほとんどが一般的な住宅に建て替わっています。しかし、全体的にみて町屋は秩序を保った建て替えが行われ、明治以降の市街化の進行はとても緩やかだったようにみえます。
 それだけに、町並み景観にドラマチックな展開は期待できませんが、道巾と建物高さのバランスや壁面の連続性などに安心感があり、町中を歩いていてもどことなく心地よさを感じます。


紺屋町と本町に残る往時の町並み



建物は建て替わっていても往時のスケール感を残す町並み


 このような町になったのは、鉄道と国道9号線の配置が適切だったためと思います。

 亀岡駅が町屋のある南側ではなく反対側に造られたため、何もない湿地帯に新たに駅前商業地区が形成されることになり、町屋に商店街ができることもなく、時代とともに次々と建て替わることもありませんでした。
 逆に国道9号線は、田畑の広がる城下町の南側に開通したため、町域は南方向に拡大することとなり、鉄道から北側は田園風景が残ることとなりました。国道と駅とは、クニッテルフェルト通りとよばれる幹線道路により城下町エリアの外周を通って結ばれて、町屋エリアには通過交通が入ってきません。

 ただし、国道9号線はとても渋滞するため、旧街道が抜け道になっているようでした。道巾の狭い街道をひっきりなしに車が通るため、危なくて歩くことすらできない状態で、これは今後の道路行政の大きな課題だと思います。


クニッテルフェルト通り(左2枚) 抜け道となっている旧街道(右)

 


 

まちなみ ブックマーク

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 本町に残る妻入り町屋

 篠山の川原町ほど多くは残っていませんが、丹波地方の特色である妻入り町屋はここにも残されています。

 

 旧山陰道沿いの古世横町に残る町屋  とてもきれいです。
 ただ、前面の道路は狭いわりに交通量が多く、対面にはマンションが建っていたことが残念です。そして、4枚の写真を無理やりパノラマにしたため端が歪んでしまったことも残念でした。

 西町と紺屋町の境界あたりに残る
 町屋と賃貸マンション

 コンクリート打ち放しは、町屋のような古い木造家屋と意外に調和するものです。

 愛宕神社の常夜燈

 旧町屋のあちこちに見られるものです。亀岡の北東(京都からは北西)の丹波と京都の境の愛宕山には、火の神様、愛宕信仰の総本宮である愛宕神社が鎮座しています。その麓にある千歳(亀岡旧市街の保津川対岸)には「元愛宕」とよばれ鎌倉時代建立といわれる愛宕神社があり、その影響で町中のいたるところにあるのだと思います。
電 柱

 それにしても、旧町屋の通りには電柱がやたらと目につきました。
 幅員5m程度の細街路の両側に建物の倍近くの高さの電柱が建っています。 両側の家屋へは、写真のごとく真下に電線が垂れ下がっています。
 一応、カラー電柱(茶色)にしているのですが、そんなことをするより、道路の片側だけに高さ半分の電柱とするだけで、景観はかなりよくなると思います。
 できれば無電柱化(地下化)が望ましいのですが・・・

 


 

情報リンク

 

亀岡市ホームページ



亀岡市観光協会
とても充実しているセンスのいいサイトです。
亀岡3大観光地、保津川下り、トロッコ列車、湯の花温泉の詳しい情報もあります。


明智家記
明智光秀に関するサイトならここ。
明智軍記をもとに明智光秀の生涯を辿るページです。


亀岡祭山鉾連合会
鍬山神社の例祭、亀岡祭りは口丹波の祇園祭ともいわれ、
亀岡最大の秋祭りとして、11基の山鉾が町中を巡行します。


 


 

歴史コラム

 丹波国亀岡の地は、日本海文化圏と瀬戸内文化圏との接点といわれています。

 「延喜式」における丹波国桑田郡(亀岡市周辺地域)の式内社19座の祭神をみると、大和朝廷系、出雲系、松尾系(秦氏系)、賀茂系などが入り混じって祭祀されているのです。

 特に日本海文化圏の象徴ともいえる出雲系の古社があることは注目に値します。
 和銅二年(709)創建と伝えられる式内大社出雲大神宮(亀岡市千歳町)は丹波国の一の宮であり、出雲大社の京都分院は亀岡市内の下矢田町にあります。

 また、上矢田町の鍬山神社はこんな由緒を伝えています。
 古い昔、亀岡盆地は湖であり、丹波を訪れた大巳貴神(おおなむち・大国主神)が湖に船を浮べて、一把の鍬で保津渓谷を開削し、京都側に水を流したといいます。鍬山神社はこのときの大巳貴神を祭神としています。

 亀岡は、日本海文化圏から畿内(京、大和、河内など都の置かれていた地域)への玄関口であり、ここに日本海(出雲地方)文化の痕跡が残されることになったのです。

 ちなみに、秦氏と賀茂氏とは、ともに平安遷都以前から京都に勢力をもっていた渡来系集団で、秦氏は京都洛北の嵯峨野を本拠とし松尾神社と建立し、賀茂氏は鴨川沿いに勢力をもち上賀茂神社、下鴨神社を建立しています。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.05.15


参考資料

@「亀岡市史」
A「丹波亀山城物語」亀岡市文化資料館
B「京都・兵庫歴史散歩 謎の丹波路」神戸新聞出版センター


使用地図
@1/25,000地形図「亀岡」「法貴」平成13年修正
A1/20,000地形図「亀岡」明治21年測図


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