亀 山 −東海道の要所 要塞の城下町−
鈴鹿の関を目前に控えた東海道の要所 |
町の特徴
亀山はとても小さな城下町なのですが、その町並みにはとても高さが感じられます。 |
![]() 広重の描いた京口門のあった場所 崖面の上にかつての城下町が広がる |
100年前の亀山 現在の地形図と100年前(明治25年)の地形図を見比べてみます。 明治期に比べて、市街地規模はそれほど大きく拡大していないことが見て取れます。 もちろん、城郭内には、学校、市役所などの公共施設が立地し、旧城下町と亀山駅との間にいくらか市街地が広がっていますが、町の大きな骨格は全く変わっていません。 また、街道を拡幅整備して、城下町の中を幹線道路が貫通しているわけでもありません。 変わったのは町の周囲の交通網だと思います。 旧城下町と鈴鹿川の間を通る旧国道1号線、町の北側、山麓部を通る現在のバイパス国道一号線、そして両方の国道から町へアクセスする道路、これらが整備されたことが一番の変化だといえます。 外的を寄せ付けなかった要塞都市の亀山城下町が、近代交通網の整備により解放的な町になったといえます。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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町の歴史
近世の亀山の歴史は、鈴鹿郡西北部を根拠地とした関氏が、文永年間(1270頃)に久我(現 鈴鹿郡関町)から亀山に移って若山(現 亀山氏若山町)に城を築いたことに始まります。 |
町の立地条件と構造 江戸から東海道を上る旅人は、桑名の渡し場で船を下りたあと、四日市宿、石薬師宿、亀山宿、関宿を通り鈴鹿の峠を越えて畿内に入ります。 安藤広重の東海道五十三次に描かれた亀山宿「雪晴」は、亀山城下町の京都側西門にあたる京口門とそこに至る急坂です。 広重は、モノトーンに近い雪景色の静寂の中に京口門と斜面下に佇む家並みを描き、斜面を登る旅行列をわずかに覗かせてアクセントとしています。そして中央の松が迫上がり、京口門を押し上げている斜面を一層鋭角に見せています。
ここに見られる風景が亀山の地形的特徴をもっとも端的に表わしてるようです。 亀山は鈴鹿山脈の南麓の中腹に位置し、南を東流する鈴鹿川沿いにある亀山駅からみると20〜30m上がった小高い丘の上に位置しています。 麓下にある県道(旧国道1号線)から北方向を見上ると、斜面の緑が帯状に連続し旧城下町と宿場町が丘陵地にあることが実感できます。 東海道の鈴鹿の関に近い亀山の地は、交通の要所であるだけでなく、西方からの防衛最前線の役割も持っていたのかもしれません。 亀山城下町は、周囲から一段高く急峻な崖地に囲まれた場所にあり、鈴鹿山脈を越えてきた上方からの侵攻を食い止める要塞都市として建設されたのです。 そのため、城下町以前の東海道は、丘陵地の南で鈴鹿川に沿って通っていたのを、城下町建設時に丘陵地の上に付け替えられたのではないかと思います。
亀山城下町は、北の若山に、亀山城本丸と御殿のあった二の丸(現 西小学校と市役所)があり、それを取り囲むように西三の丸(現 亀山中学から青木門あたり)などの武家屋敷地区が広がっていました。 武家屋敷地区と丘陵地崖面の間には東海道が東西に貫通し、街道一本だけの幅の狭い宿場町を形成していました。 なかでも池ノ側の南は最も町屋地区が薄い箇所ですが、ここは江戸初期の藩主岡本宗憲が渓谷を堰き止め、池ノ側などの内堀を造った堤防にあたります。 江戸初期の正保絵図に描かれた亀山城下町は崖地の上だけに展開していましたが、慶安年間(1650頃)の藩主石川氏時代の絵図では、崖地の下にも武家屋敷(現 南野町付近)と街道沿いの町屋が広がっていました。 城山の北西に歴史博物館や図書館があります。 ここから東へは深く落ち込む谷となり、かつての西の丸と内堀を埋め立てた亀山中学校の裏手から二つ折れの急坂を登ると児童公園にでますが、ここが亀山城の本丸にあたり、現在、公園には蒸気機関車や軽飛行機が展示されています。 本丸の南には天守台があり、その石垣上には江戸期からの唯一の遺構である多門櫓がそびえています。 平屋建て白壁の塗り込みで屋根は入母屋、東西北の三方に破風をつけた建物は、江戸期には武器庫として使われていました。藩主御殿をはじめとした城内の建物が明治初年にことごとく取り壊されたにもかかわらず、多門櫓だけが現在まで残ったのは、当時の士族の生業のために木綿の織物工業として利用されていたためです。 かつては、高さ15m近い石垣が内堀から林立し城下町を睥睨していたようですが、いまでも亀山中学校の校庭からは壮大な石垣と多門櫓が望めます。
中学校の東に残る池ノ側(という名前の池)は、かつての内堀の名残ですが、中学校と池の間には無粋なコンクリートの道路が走り、折角の城下町の風景を台無しにしています。この池の南側が城下町建設当時に築造された堤で、その以前は深く切れ込んだ渓谷だったようですが、いまでは街道と町屋が並び、400年前に埋められた堤だったとは想像もできません。
かつての東海道亀山宿場町は、丘陵地の崖地の沿って東西に長く延びています。 すでに述べたとおり、京口門のあった竜川の崖地には、門はなく立派な橋が架けられ、往時の面影は全くありませんが、竜川と崖地形はいまでもそのままで、広重がどの場所に座りスケッチしたのかは大体想像ができます。
京口門跡から宿場町を東に歩きます。 かつて町屋が軒を並べていた旧街道には石畳がひかれ、道路拡幅されることもなく、沿道に高層建物が建つでもなく、往時のスケール感を保った宿場町の雰囲気を伝えてくれます。 右へ左へと曲がったのちに青木門の跡にでます。そこには少しだけ幅広く鉤型に曲がった道路が残され、角地にはかつて亀山藩家老職を勤めた加藤家の長屋門と土蔵が保存されています。
かつての西町問屋跡と池ノ側を過ぎてさらに東へ歩くと、大きく右に曲がった後に緩やかな左カーブの坂道に入りますが、この辺りには古い町並みが残されています。 その先は東町に入りますが、かつての東町は今ではアーケードの架かる商店街になっていて、道路の緩やかなカーブだけが往時のままです。 江戸口門のあった場所は、多くの車が通行する三叉路の広い交差点になっていて、かつての面影は全くありません。
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亀山西小学校 東三の丸御殿のあった場所にあります。 最近建て替えられたようですが、古い町並みに無理やり合わせることなく、とてもきれいなデザインで好印象をもちました。 |
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東町の町屋
時代村テーマパークのような、江戸期の町屋が保存されているわけではないですが、緩やかなカーブと少しの勾配が、とても印象に残る街道沿いの町並みを創りだしています。 |
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まちあるき データ
まちあるき日 2006.10 参考資料 @「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい A「北勢の歴史 <上巻>」郷土出版社 B「江戸時代の亀山領」亀山市歴史博物館 使用地図 @1/25,000地形図「亀山」平成9年部分修正 A1/20,000地形図「亀山」明治25年測図
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