亀 山   −東海道の要所 要塞の城下町−

鈴鹿の関を目前に控えた東海道の要所
それゆえ 江戸期の亀山藩主には幾多の譜代大名が名を連ねた
広重が描いた「雪晴」には 雪景色の中 せり上がる崖面に緊張感が漂う
亀山城下町は 天然の要塞都市なのかもしれない



 

 


 

町の特徴


 亀山はとても小さな城下町なのですが、その町並みにはとても高さが感じられます。
 旧城下町は丘陵地の崖地の上に広がり、そこから、さらにせり上がる高石垣の上に城下町唯一の遺構 多門櫓がそびえています。
 この城下町は、丘陵地を切り開いて城地を整備し、谷筋を埋め立てて堀を造りだしてきました。
 安藤広重の東海道五十三次に描かれた亀山宿の風景は、亀山の町の特徴をとても象徴的に表していると思います。




広重の描いた京口門のあった場所  崖面の上にかつての城下町が広がる

 


 

100年前の亀山


現在の地形図と100年前(明治25年)の地形図を見比べてみます。


 明治期に比べて、市街地規模はそれほど大きく拡大していないことが見て取れます。
 もちろん、城郭内には、学校、市役所などの公共施設が立地し、旧城下町と亀山駅との間にいくらか市街地が広がっていますが、町の大きな骨格は全く変わっていません。
 また、街道を拡幅整備して、城下町の中を幹線道路が貫通しているわけでもありません。

 変わったのは町の周囲の交通網だと思います。
 旧城下町と鈴鹿川の間を通る旧国道1号線、町の北側、山麓部を通る現在のバイパス国道一号線、そして両方の国道から町へアクセスする道路、これらが整備されたことが一番の変化だといえます。

 外的を寄せ付けなかった要塞都市の亀山城下町が、近代交通網の整備により解放的な町になったといえます。 ※10秒毎に画像が遷移します。




現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史


 近世の亀山の歴史は、鈴鹿郡西北部を根拠地とした関氏が、文永年間(1270頃)に久我(現 鈴鹿郡関町)から亀山に移って若山(現 亀山氏若山町)に城を築いたことに始まります。
 この地は、鈴鹿川北岸の丘陵地上にあり、北は椋川の小渓谷から屹立する天然の要害の地でした。

 戦国末期の争乱で、北伊勢の関氏や中伊勢の長野氏、工藤氏その他の在地土豪勢力が秀吉の統一政治体制に組み込まれた後、小田原征伐の終わった天正十八年(1590)、蒲生氏郷に従った関一政が陸奥国白河城に移ると、峯城(現、亀山市川崎町)にいた岡本宗憲が亀山城を与えられ、若山城の東南に本格的な平山城(現 亀山城)を築きます。

 宗憲は、東西方向に峯と谷の走る地形を利用して、丘陵を切り開いて堀とし、渓谷をせき止めて堀池(現 池ノ側)を作るなど、天然の地形を利用して内堀、外堀をめぐらせ城郭を整備しました。

 慶長五年(1600)、岡本氏は関ヶ原の戦いで滅亡し、美濃国多良(現 岐阜県養老郡)に転じていた関一政が五万石で再入封し、翌年に幕命に従い伝馬を置いて亀山宿を整備した時、亀山城下町はその基礎が固まったといわれています。

 慶長十五年(1610)、城郭の大修築を終えた一政が伯耆国黒坂(現 鳥取県日野郡)に転封となった後は、譜代大名の頻繁な藩主交代が行われます。

 三河国作手(現愛知県設楽郡)から松平忠明が五万石で入部して元和元年(1615)に大坂に転じた後、天領と津領、久居領の一時期を経て、元和五年(1620)三河国挙母(ころも)から三宅康信が入封しますが、その後も、三河国西尾から本多俊次、近江国膳所から石川憲之、下総国関宿から板倉重常、志摩国鳥羽から松平乗邑と、ほぼ15年おきに藩主交代が続き、延享元年(1744)には備中松山より石川総慶が六万石で入ってようやく藩主家が定着し、以降、石川氏11代の支配で明治時代を迎えます。

 めまぐるしい藩主交代の影響で、関一政以降、城下町は大規模な普請が行われなかったようです。
 その中にあって、板倉重常は西町と野村町の境界を流れる竜川から切り立つ崖の上に京口門を構築し、東町には江戸口門を置き門外に堀を設けます。これにより東海道が貫通する城下の東西が画され、城下町の体裁は完成します。

 城下を東西に貫く東海道沿いの町並みは、東海道五十三次のひとつ亀山宿です。  寛文年間には、家数370、旅籠屋21軒が記録されている亀山宿には、東町と西町に分かれ、東町にあった大手口の前には樋口本陣と椿屋脇本陣がおかれました。
 また、城下町には合計19町がありましたが、鍋町を除き職人町の形成された様子がなく、東海道沿いで物資の流通が盛んであったことが影響しているといわれています。

 明治28年、旧東海道に沿うように関西鉄道(現 JR関西本線)が開通し、同時期に開通した旧国鉄参宮線への分岐点として、機関区も置かれた鉄道の街として栄えた時期もありました。
 地場産業として、蝋燭の生産が大きなシェアを持ち、国内シェアは4割のカメヤマローソク(本社は大阪市に移転)が存在します。
 また、三重県のハイテク企業誘致策により建設されたシャープ亀山工場では、世界初の液晶パネルからテレビまでの一貫生産が行われ、「亀山産の液晶テレビ」というブランドにまでなり人気を博しています。


 


 

町の立地条件と構造


 江戸から東海道を上る旅人は、桑名の渡し場で船を下りたあと、四日市宿、石薬師宿、亀山宿、関宿を通り鈴鹿の峠を越えて畿内に入ります。
 安藤広重の東海道五十三次に描かれた亀山宿「雪晴」は、亀山城下町の京都側西門にあたる京口門とそこに至る急坂です。

 広重は、モノトーンに近い雪景色の静寂の中に京口門と斜面下に佇む家並みを描き、斜面を登る旅行列をわずかに覗かせてアクセントとしています。そして中央の松が迫上がり、京口門を押し上げている斜面を一層鋭角に見せています。




 ここに見られる風景が亀山の地形的特徴をもっとも端的に表わしてるようです。

 亀山は鈴鹿山脈の南麓の中腹に位置し、南を東流する鈴鹿川沿いにある亀山駅からみると20〜30m上がった小高い丘の上に位置しています。
麓下にある県道(旧国道1号線)から北方向を見上ると、斜面の緑が帯状に連続し旧城下町と宿場町が丘陵地にあることが実感できます。

 東海道の鈴鹿の関に近い亀山の地は、交通の要所であるだけでなく、西方からの防衛最前線の役割も持っていたのかもしれません。
 亀山城下町は、周囲から一段高く急峻な崖地に囲まれた場所にあり、鈴鹿山脈を越えてきた上方からの侵攻を食い止める要塞都市として建設されたのです。
 そのため、城下町以前の東海道は、丘陵地の南で鈴鹿川に沿って通っていたのを、城下町建設時に丘陵地の上に付け替えられたのではないかと思います。



かつての城下町の南には緑の帯(丘陵の崖面)が確認できる




崖面の下から見た緑の帯  この上にかつての城下町が広がる



 亀山城下町は、北の若山に、亀山城本丸と御殿のあった二の丸(現 西小学校と市役所)があり、それを取り囲むように西三の丸(現 亀山中学から青木門あたり)などの武家屋敷地区が広がっていました。
 武家屋敷地区と丘陵地崖面の間には東海道が東西に貫通し、街道一本だけの幅の狭い宿場町を形成していました。
 なかでも池ノ側の南は最も町屋地区が薄い箇所ですが、ここは江戸初期の藩主岡本宗憲が渓谷を堰き止め、池ノ側などの内堀を造った堤防にあたります。

 江戸初期の正保絵図に描かれた亀山城下町は崖地の上だけに展開していましたが、慶安年間(1650頃)の藩主石川氏時代の絵図では、崖地の下にも武家屋敷(現 南野町付近)と街道沿いの町屋が広がっていました。




 城山の北西に歴史博物館や図書館があります。
 ここから東へは深く落ち込む谷となり、かつての西の丸と内堀を埋め立てた亀山中学校の裏手から二つ折れの急坂を登ると児童公園にでますが、ここが亀山城の本丸にあたり、現在、公園には蒸気機関車や軽飛行機が展示されています。

 本丸の南には天守台があり、その石垣上には江戸期からの唯一の遺構である多門櫓がそびえています。
 平屋建て白壁の塗り込みで屋根は入母屋、東西北の三方に破風をつけた建物は、江戸期には武器庫として使われていました。藩主御殿をはじめとした城内の建物が明治初年にことごとく取り壊されたにもかかわらず、多門櫓だけが現在まで残ったのは、当時の士族の生業のために木綿の織物工業として利用されていたためです。
 かつては、高さ15m近い石垣が内堀から林立し城下町を睥睨していたようですが、いまでも亀山中学校の校庭からは壮大な石垣と多門櫓が望めます。



左:中学校の裏道    中右:中学校の校庭からせり上がる石垣と多門櫓



 中学校の東に残る池ノ側(という名前の池)は、かつての内堀の名残ですが、中学校と池の間には無粋なコンクリートの道路が走り、折角の城下町の風景を台無しにしています。この池の南側が城下町建設当時に築造された堤で、その以前は深く切れ込んだ渓谷だったようですが、いまでは街道と町屋が並び、400年前に埋められた堤だったとは想像もできません。



左:池ノ側に架かるコンクリート製の道路  向こう岸がかつての堤
右:歴史博物館にある町の模型  内堀の池が谷筋を堤で堰き止めてできたことがよく分かる



 かつての東海道亀山宿場町は、丘陵地の崖地の沿って東西に長く延びています。  すでに述べたとおり、京口門のあった竜川の崖地には、門はなく立派な橋が架けられ、往時の面影は全くありませんが、竜川と崖地形はいまでもそのままで、広重がどの場所に座りスケッチしたのかは大体想像ができます。



京口門と竜川との位置関係



 京口門跡から宿場町を東に歩きます。
 かつて町屋が軒を並べていた旧街道には石畳がひかれ、道路拡幅されることもなく、沿道に高層建物が建つでもなく、往時のスケール感を保った宿場町の雰囲気を伝えてくれます。
 右へ左へと曲がったのちに青木門の跡にでます。そこには少しだけ幅広く鉤型に曲がった道路が残され、角地にはかつて亀山藩家老職を勤めた加藤家の長屋門と土蔵が保存されています。



左中:加藤家の長屋門と土蔵  右:かつての青木門跡



 かつての西町問屋跡と池ノ側を過ぎてさらに東へ歩くと、大きく右に曲がった後に緩やかな左カーブの坂道に入りますが、この辺りには古い町並みが残されています。
 その先は東町に入りますが、かつての東町は今ではアーケードの架かる商店街になっていて、道路の緩やかなカーブだけが往時のままです。
 江戸口門のあった場所は、多くの車が通行する三叉路の広い交差点になっていて、かつての面影は全くありません。



左中:東海道の町屋の町並み  右:かつて江戸口門のあった三叉路



 


 

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亀山西小学校


東三の丸御殿のあった場所にあります。
最近建て替えられたようですが、古い町並みに無理やり合わせることなく、とてもきれいなデザインで好印象をもちました。
東町の町屋

時代村テーマパークのような、江戸期の町屋が保存されているわけではないですが、緩やかなカーブと少しの勾配が、とても印象に残る街道沿いの町並みを創りだしています。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.10


参考資料

@「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい
A「北勢の歴史 <上巻>」郷土出版社
B「江戸時代の亀山領」亀山市歴史博物館

使用地図
@1/25,000地形図「亀山」平成9年部分修正
A1/20,000地形図「亀山」明治25年測図


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