金 沢   −城下町のまま大都市になった 加賀百万石の藩都−

加賀百万石の藩都 金沢は
県庁所在地で 北陸最大の都市 であるにもかかわらず
いまだに 城下町の残像を 色濃く残す町でもある
城下町のまま大都市となった 金沢はそんな町である



 

 


 

町の特徴


 金沢は、城下町の歴史的遺構が今なお色濃く残る町です。
 それは、同じ北陸の都市の中でも、戦災の焦土から計画的復興を遂げた富山や福井とは異なり、金沢が戦災を受けていないためです。
 この歴史的遺構こそが、北陸の中心的な大都市であるにもかかわらず、全国から人々が訪れる観光都市 金沢の源泉である一方、今日の都市の発展や住民生活の大きな障害にもなっています。

 最も代表的な障害に道路の狭さと坂の多さが挙げられます。

 戦災と震災を一度に受けて全面的に復興事業が行われた福井には、片側2〜3車線の広幅員道路が碁盤目状に配置され、細街路も自動車通行に支障のない幅まで広がってます。  一方、金沢では、城下町時代の堀を埋め立てたり、北国街道を拡幅したりして、旧城下町内に数本の幹線道路を通していますがその数は少なく、ほとんどの細街路は自動車の離合もままなりません。また、複雑な地形が災いして、幾つかの幹線道路には急坂やトンネルがあります。
 城下町の骨格をそのままに、無理に近代都市を押し込んだ、そんな印象を受けます。

 一方で、金沢は、自らのもつ歴史的遺構をとても大切にしている都市でもあります。
 かつて、金沢城郭内には、戦前は第九師団司令部を始めとした軍事施設が、戦後は金沢大学や石川県庁を始めとした公共施設が数多く建ち並んでいましたが、今その多くは郊外に移転し、数多の門や櫓を復元するなど往時の城郭に戻す努力が続けられています。

 これからも訪れるのが楽しみになる町だといえます。




左:長町の旧武家屋敷町 街路の狭さと向こうに見える高層ビルが印象的
右:兼六園横の坂道 小立野台地の縁にはこんな急坂が多い

 


 

100年前の金沢


現在の地形図と100年前(明治期)の地形図を見比べてみます。


 かつての城下町は、浅野川と犀川の間の狭い地域に凝縮していましたが、現在では、市街地は大きく四方に拡大し、旧城下町との境界がまったく分からなくなっています。
 また、金沢駅は、旧城下町の北西のはずれに配置されたことと、現在では金沢駅の反対側にも市街地は広がっていることが分かります。 ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史


 南北朝時代の建武二年(1335)、富樫高家が足利尊氏に味方した功績により加賀国守護となって以来、富樫氏が代々この地を治めてきました。

 文明三年(1471)、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世蓮如が、加賀に近い越前国吉崎(現 福井県あわら市吉崎)に御坊を開き、教義を民衆にわかりやすく説くことで勢力を拡大していきます。

 しかし、次第に門徒たちによる一揆は蓮如の想像を越えて大きく拡大し過激化していき、文明七年(1475)、蓮如は北陸での布教を断念して吉崎を退去することになりますが、蓮如が去った後も加賀の一向一揆は国人衆や地侍、百姓衆を巻き込みますます肥大化して、長享二年(1488)、ついに守護富樫政親を攻め滅ぼすことになります。

 一揆衆は富樫康高(政親の祖父の弟)を擁立して新守護としますが、実質的に加賀は「百姓の持ちたる国」となり、その後約100年間、一向宗(浄土真宗本願寺)門徒の支配することとなります。

 一向門徒が支配するといっても、100年もの間、統一された支配体制が続いたわけではなく、畿内における本願寺内部の政争と連動して、賀州三か寺(本泉寺・松岡寺・光教寺)など有力真宗寺院の間で、幾度もの主導権争いがくり返されていました。
 天文十五年(1546)、加賀国は石山本願寺の直轄となり、その政庁として、現在の金沢城址の地に金沢御堂(尾山御堂)が創建され、以降、加賀一向一揆の拠点として真宗門徒や商工業者が多数居住し、金沢は交通・商業の中心、寺内町として賑わうことになります。

 約一世紀にわたり、史上かつて例のない宗教勢力のもつ国だった加賀でしたが、天下統一を狙う新たな武家勢力の前についに屈する時がきます。

 信長と本願寺の間で繰り広げられた10年に及ぶ石山合戦が始まると、本願寺坊官に指揮された加賀は兵粮米や兵力の基地となります。
 天正三年(1575)、越前一向一揆を平定した信長は、柴田勝家に加賀支配を委ねますが、石山合戦が終結した同八年(1580)、停戦命令を無視した柴田軍は加賀に侵攻し金沢御堂は陥落してしまいます。
 柴田勝家配下の佐久間盛政により、御堂跡地は改修され尾山城が築かれることになります。

 天正十一年(1583)、柴田勝家と羽柴秀吉が信長の後継をめぐって争った賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れ、この戦いで与力として勝家についていた前田利家は戦線を離脱、秀吉に降って、秀吉軍の先鋒となり尾山城を開城させます。
 利家はこの協力によって、秀吉から北加賀を与えられ、尾山城に入り金沢城と改名します。

 利家の子利長は関ヶ原の戦いで東軍に組し、弟利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、加賀、能登、越中の三国の大半を領する百二十万石(後に三代利常(利長の弟)の隠居時に支藩として越中富山藩十万石と加賀大聖寺藩七万石を分与し百二万五千石となる)という広大な領地を支配することとなり「加賀百万石」が成立します。

 犀川と浅野川の河間地に東から西に延びる小立野台地の先端に築かれた金沢城は、この二大河川を天然の外堀とし、さらに、慶長四年(1599)に東西の惣構堀、慶長十五年(1610)に東西の外惣構堀が掘削されました。

 そして、犀川の水を城下まで運び、浅野川に排水する用水路も整備されました。  寛永九年(1632)完成の辰巳用水は、犀川上流の上辰巳で取水され、小立野台地を流れ、金沢城の堀や二の丸御殿に水を送り、元和年間に掘削された鞍月用水は西外総堀に連結して外堀の水を供給しました。

 加賀藩で最高の家格をもち、いずれも一万石以上の禄高を持つ、本田家、長家、横山家、奥村家、前田家、村井家など「八家」と呼ばれる上級家臣や人持組と呼ばれる八家に次ぐ家格の家臣団約70家の屋敷が、金沢城を取り囲むように配置されました。
 城郭の西側を通る北国街道沿いには町屋を配し、二大河川の渡り口を二箇所(現 犀川大橋、浅野川大橋)にしぼり、その外延部には寺院群を集中的に配置しました。また、金沢城本丸の小立野台地側には百間堀(現在の城跡公園と兼六園の間の道路)を掘削して台地方向からの守りとしました。
 金沢城は、城下町の中ではこれ以上ないと思われるほど、地形を有効に活用したの堅牢な防御都市となったのです。

 維新においては、徳川幕府を支持しましたが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後には方針を改め、新政府の北陸鎮撫軍に帰順しました。

 明治4年の廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県が成立しますが、明治16年、越中4郡が分かれて富山県が設置され現在の石川県が確定します。

 幕末期、江戸、京都、大坂の三都を除くと日本最大の人口を誇った金沢でしたが、廃藩後、極端な人口減少が続きます。
 明治4年に12.3万人いた人口は、翌年には11.0万人となり、市制が施行された明治22年には9.4万人となり、その6年後には8.4万人まで減少し続けます。

 この都市衰退が止まらない金沢が、明治後期から「軍都」として復活します。

 明治8年、金沢城址に陸軍歩兵第七連隊司令部が設置されたのを皮切りに、明治31年にはその上位部隊である第九師団司令部が設置されます。
 第九師団司令部とその配下の第六旅団司令部、第七連隊が金沢城址に、郊外の野村(現在の野田町、平和町付近)に第三十五連隊が置かれ、金沢は第九師団の将兵とその家族2万人以上が住むことになりました。
 なお、第九師団は日露戦争に動員され、乃木希典大将率いる第三軍に所属して旅順、奉天の激戦に参加し、第三軍のなかでも最大の戦死者を出したことで有名です。

 教育施設としては、明治27年、東京、仙台、京都に続いて、第4高等中学校が広坂(金沢城本丸の南隣)に開校し、戦後の金沢大学へと続いていきます。
 商業施設としては、大正13年に片町(現 ラブロ片町)に宮市百貨店(現 大和)が、昭和10年に武蔵が辻(現 めいてつエムザ)に丸越百貨店が(現 金沢名鉄丸越百貨店)開店し、香林坊と武蔵ヶ辻の2つの商業中心地が形成されます。
 鉄道施設としては、明治31年に北陸鉄道(現 JR北陸本線)が開通し、その後、私鉄七尾鉄道、軽便鉄道などが続々と開通し、金沢は地域の交通の結節点として重要性を増し、明治中期まで減少していた人口は回復し、大正9年には人口20万人の都市にまで成長します。

 昭和20年、福井や富山が相次いで空襲をうけて焼失する中で、幸いにも被災しないままに終戦を迎えます。
 戦後、第9師団司令部のあった金沢城跡には金沢大学が広坂から移転し、跡地には石川県庁(現在、県庁は駅西の鞍月地区に移転して公園化)と大学付属中学校など(現 21世紀美術館)が立地し、出羽町の練兵場は野球場や住宅地に、野田町の兵営舎や野村練兵場は学校や住宅に変わりました。


 現在の金沢市の人口は45万人ですが、香林坊などの繁華街での人込みの多さ、新しい集客施設の建設、そして都市の大きさそのものが、政令指定都市に匹敵するものを持っているように感じられます。

 現在、金沢では歴史都市への回帰と先進的都市デザインへの挑戦が、同時並行に試みられているようです。

 歴史都市への回帰としては、中心部の大学、官公庁の郊外移転による金沢城址の復元公園化が盛んに行われています。

 城内にあった金沢大学が角間地区へ、広坂にあった付属小中学校が平和町へ、同じく広坂にあった石川県庁が駅西の鞍月地区へと、それぞれ移転して、金沢城内はかつての櫓、御殿など城郭建物が順次復元されつつあります。
 また、昭和32年に金沢市が住居表示制度の実験都市に指定されたため、数百年続いてきた500余りの歴史ある町名が次々と消滅しましたが、平成11年から主計町を皮切りに飛梅町、袋町などかつての町名が復活しつつあります。

 一方で、先進的都市デザインへの挑戦としては、金沢城郭の間近で金沢21世紀美術館の円形平面のカーテンウォールを実現したことがその代表事例ですが、つい最近では、見るものを唖然とさせる金沢駅舎の改修とイオン系列の商業施設フォーラスの開店があげられます。


 


 

町の立地条件と構造


立地条件

 明治期の地形図(下図)をみると、金沢の町は、広い金沢平野の東の山麓部に立地していることがわかります。




 旧北国街道も北陸本線も、山麓部に寄添うように南北に延びていますが、日本海の方向に一直線に伸びている鉄道が見えます。

 これは、金沢の外港として江戸期からあった金石(かないわ)に通じていた北陸鉄道金石線です。
 北前船の寄港地として栄えた金石とは、江戸期から金石往還を通して物資の往来が盛んで、金石線は往還に沿って明治31年に馬車鉄道として開通したものです。  しかし、昭和46年に廃線、現在では広幅員の県道金沢港線となり、この地域の幹線道路として機能しています。

 犀川は多少蛇行しながらも金沢平野を海に向かって流れ、金石の南で日本海に注いでいます。
 一方の浅野川は、金沢の北に広がっていた河北潟に流れでています。
 河北潟は、かつて大野川を通じて日本海の海水が入り込む、東西4km、南北8kmにわたる汽水湖でしたが、昭和38年に始まった干拓事業により1/3まで小さくなりました。
 河北潟と金石の間には、鳥取砂丘に次ぐ二番目の規模を持つ内灘砂丘が続いています。


城下町の構造

 浅野川と犀川に挟まれた小立野台地と呼ばれる河岸段丘が南東から北西に延びていますが、その先端部にあたる場所に金沢城は築かれました。




 小立野台地の両脇を流れる浅野川と犀川、その外側にある卯辰山丘陵地と寺町台地、2つの河川と3つの台地にまたがる形で、金沢城を中心としてほぼ四方に金沢の町は広がっています。
 そのため、町の地形はとても複雑で高低差があり、町を歩いていくと、突然崖ふちにでて絶景が広がったり、市街地から急に渓谷に入り込んだりするなど、時々ドラマティックな光景にでくわします。


左:寺町台地から犀川に向けての下り道  中:天神町から小立野台地にある金沢大学病院を見上げる
右:兼六園の東隣にある通称「木曽谷」 金沢中心地にあるとな思えない谷筋


 金沢城下町は、浅野川と犀川を天然の外堀とし、その内側に惣構堀と外惣構堀の2重の外堀と、さらにその内側に百間堀などの内堀を配し、幾重にも堀に囲まれた要塞都市の様相を呈していました。

 惣構堀は金沢城の東西を囲むように内と外の二重に築かれました。
 謀反の疑いをかけられた前田家二代利長が徳川との戦に備え、客臣の高山右近に命じて造らせたのが内惣構堀で、その10年後、三代利常が外惣構堀を構築し、より強固な防御態勢を整えたのです。


左:浅野川  中:犀川  右:現在の犀川大橋は無機質な鉄骨トラス橋


 また、土地利用的にも、同心円を描くように武家屋敷町が配置されました。
 金沢城を核に、小立野方面には八家の本多家や奥村家が、西外総構堀の外側には長家や村井家が、東外総構堀の外側には横山家が配され、その周囲を約70家の人持組みの屋敷が固めていました。
 そして、西の北国街道沿いには町屋地区を、最も外延部には3つの寺院群と足軽組屋敷を配置して、城郭を幾重にも囲むような町割がなされたのです。


金沢城

 金沢城と兼六園の間の広い道路は渓谷のように落ち込んでいます。
 ここは、かつての百間堀の跡で、その金沢城側にある石川門は、金沢城内では数少ない江戸期の遺構で国の重要文化財に指定されています。
 金沢は、二重の惣構堀に加え浅野川と犀川の二大河川に守られた要塞都市でしたが、小立野方面からのの侵入に対しては懸念があったようで、小立野台地の尾根筋を断ち切るように、ここに一大土木工事をおこし百間堀を掘削したのです。

 城郭内には、戦前までは第九師団司令部があって軍都金沢の中心をなしており、戦後は金沢大学が立地して北陸の学問の中心でしたが、現在ではすべて郊外に移転しました。現在、金沢城址では100年後の文化財を目標に、菱櫓、橋爪門続櫓、五十間長屋などが当時の工法で続々と復元され、城址公園化が進められています。


左:百間堀跡  中:石川門  右:復元された櫓など


左:寺町台地から犀川越しにみた小立野台地(遠景の緑の帯)  右:県庁跡から小立野台地の本丸跡を見上げる


 一方、台地上にあった金沢城にとって、水源の確保は重要命題で、飲用水と防火用水を常に確保しておくことが必要でした。
 特に、寛永八年(1631)の大火では、本丸御殿などが焼失し多くの被害を出したため、城内への上水と防火用水を常に確保できる潤沢な水供給が不可欠となったのです。
 このため、小立野台地を縦断する用水路「辰巳用水」が江戸前期に造られています。

 辰巳用水は、寛永九年(1632)に三代藩主前田利常が、小松の町人板屋兵四郎に設計させた江戸期の水道施設で、犀川上流の上辰巳で川水を取り込み、そこから正確に1/200の勾配をとって犀川に沿った2.7kmの導水トンネルを掘り、そこから5.2kmの距離を開水路で小立野台地を流れ、一日1400トンの水を兼六園の霞が池に貯水しています。
 兼六園の霞ケ池(標高53.6m)に貯めた水は、百間堀の地下(標高42.2m)の導水石管を通り、再び城内二の丸(標高50.2m)へ逆サイホン方式で揚水し、金沢城本丸にも飲用水と防火用水を供給していました。
 江戸前期にこれだけの土木技術があったことは大変な驚きで、完成後の設計者板屋兵四郎の消息をたどる記録がないことから、秘密保持のために殺されたのではないかという憶測まで呼んでいます。


左:小立野台地の尾根筋を兼六園まで一直線に流れる辰巳用水
右:台地上にある県立美術館の脇から流れ落ちる辰巳用水 このような滝が台地の端部には幾つかある



北国街道

 金沢城下を北から南に貫通する北国街道は、金沢城の鼻先をかすめ、段丘の西側を巻き込むように通り、その沿道に町屋が形成されました。
 これが現在の国道157号及び159号線で、片町から香林坊、武蔵が辻、尾張町を経て橋場町につづく金沢の中心地にあたります。

 片町は金沢一の繁華街でラブロ金沢をはじめ商業施設がひしめきあい、香林坊には、南端に香林坊アトリオ、東急109などの商業施設、そして日銀金沢支店をはじめとして金融機関のビルが建ち並び、武蔵が辻には、商業施設の名鉄エムザと昔ながらの近江町市場が健在です。


左:ビジネス街の香林坊  中:武蔵が辻にある名鉄エムザ  右:近江町市場


 約6000坪の近江町市場には、鮮魚をはじめ、青果、精肉、惣菜、日用品など180軒あまりの店がひしめきあっています。
 享保六年(1721)に各地に散らばっていた市を一ケ所に集めたのが発祥といわれており、金沢中心部にあるにもかかわらず現在まで続き、昔ながらの魚市場の光景は観光客らの人気を集めています。
 しかし、近年、市場の北西部の1/3ほどが再開発されることが決定し、今の市場は今年限りで姿を消すことになりました。平成22年には地下1階地上5階建てのビルの再開発が竣工する予定です。


御茶屋街

 北国街道が犀川と浅野川を越える東西の渡り口(現 犀川大橋、浅野川大橋)の外縁部には、寺院群と遊郭街がありました。

 「御茶屋街」とよばれるかつての遊郭街は、文政三年(1820)、金沢の町奉行が付近に散在していた御茶屋を集めて町割りしたのが始まりです。

 金沢の御茶屋街は全部で3ヶ所あり、浅野川の外縁に位置する東の「ひがし茶屋街」(卯辰茶屋町・現愛宕町)と犀川の外縁にある西の「にし茶屋街」(石坂新町・現千日町)が江戸期に形成されたもので、浅野川西岸の主計町が明治期に入ってから設けられました。

 平成13年に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された卯辰茶屋町(ひがし茶屋街)は卯辰山の麓にあり、今では金沢の代表的な観光地として全国的に知られていて、格子と大戸、通りには繊細な木虫籠をはめ込んだ江戸期の面影を残す町並みが続いています。


ひがし茶屋町の町並み  中の写真は大門跡の広場


 江戸期、町屋は中二階が一般的で、二階は物置程度の利用しかできず実質的に平屋建てとされていましたが、御茶屋街の町並みは、接客空間である二階の階高が1階より高いのが特徴で、京都祇園に残されている御茶屋建築と同様の造りをしています。

 中には江戸期に建築され改修もされていない建物もあり、往時の内部空間がそのまま残されています。また、改修された建物も、表通りの格子と大戸を復元して町並みとしての統一感を保っています。

 往時、茶屋街は高い木塀で囲まれ、北国街道からのみに出入り口が限定されていたようで、東茶屋街の大門跡には、現在でも広小路のような空間が残されています。

 西茶屋街(石坂新町)も同様に観光地となっていますが、こちらは保存されている範囲も狭く、現存している建物も少ないようです。


左:主計町の御茶屋  中右:にし茶屋街の町並み


 浅野川大橋たもとの主計町の御茶屋街は明治以降に成立したものですが、ほかの御茶屋街とは違い、明治後期から昭和初期にかけて三階建てに増築されるなど時代相をよく伝えています。


長 町

 北国街道の西側には、上・中級家臣の武家屋敷が広がっていましたが、その一つ長町には、歴史都市金沢の町並みの代名詞ともなっている長町武家屋敷があります。
 長町は、八家のひとつ長氏の屋敷があったことからつけられた町名で、今も残る木羽板茸き屋根の付いた黄土色の土塀や、武者窓のある門構えが当時の面影を偲ばせ、休日ともなると全国から訪れた観光客で狭い長町はあふれかえります。

 多くの土塀は最近になって復元されたものでしょうが、それ以前から土塀がたくさん残されていた地域だったようで、広い旧金沢城下町の中でも中心地香林坊に近い長町だけに集中して残った理由はよくわかりません。


長町武家屋敷町の町並み  遠景に香林坊の高層ビルがみえる。



寺 町

 金沢市内には、神社が330余り、寺院が400近くあるといわれています。
 この数の多さは、明治維新や太平洋戦争で戦災を受けたかったことと、これだけの寺社が成り立つだけの経済的基盤がこの町にあったことを示しています。

 また、およそ400寺のなかで、浄土真宗が210寺、その内192寺が真宗大谷派(東本願寺)で占められています。しかも、他宗派の寺院数が江戸初期からほぼ横ばいなのに対して、真宗大谷派の寺院のみが3倍あまりに増加、特に大正、昭和期に大幅に増加していることに特徴があります。


左:寺町寺院群  中右:卯辰山寺院群の町並み


 また、真宗寺院は立地場所でも特徴があります。
 金沢の寺院は、小立野台地の曹洞宗天徳院を中心とする小立野寺院群、浅野川大橋の北側、卯辰山の麓に広がる卯辰山寺院群、犀川大橋の南側、寺町台地の先端部に広がる寺町寺院群、の3箇所に集中して立地しています。

 これに対して、真宗寺院だけは町中に散在しています。
 城下町西側の低地部に、東西の本願寺別院があることでもわかるように、江戸期を通して、真宗寺院は3つ寺院群の外に立地することが許されていたようで、このことが明治以降に寺院数が大幅増加した一因かもしれません。

 この中で、横安江町商店街は、およそ300年ほど昔に成立した真宗東本願寺金沢別院の門前町で、今年春に商店街の改修工事が完了して46年前に設置されたアーケードが取り外されました。近隣のお客が買い物に訪れた時代はアーケードも意味があったのでしょうが、郊外型店舗にお客をとられた商店街では、かつての門前町に姿を戻し新たな町興しを始めたようです。


左:横安江町商店街  中:商店街の途中に東本願寺別院  右:突当りには西本願寺別院

 


 

まちなみ ブックマーク

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ひがし御茶屋街 志摩


文政三年(1820)茶屋町創設当初に建てられた建物で、その後、大きな改造もされずにそのまま残されているのはここだけといわれています。
京都の町屋のような奥行きはないものの、中庭は木塀で隣家と仕切られ、縁側に座ると、往時の町方旦那衆の粋な遊び場だったころの光景がそこにあります。
写真は早朝だったので雨戸が閉まり、二階の張り出し縁側が隠れています。
尾山神社 神門


加賀藩祖前田利家公をまつる由緒ある神社で、明治8年に造営された神門は、国の重要文化財で、その姿は明治文化黎明期の異国情緒豊かな建築様式を伝えています。
神門の両脇には尾山神社前商店街あります。といっても、もはや廃業したスナックの看板などがあるだけの商店街とはいえない寂れた状態でなのですが、明治以降に成立した「門前町」だったようです。
金沢駅 もてなしドーム


平成17年3月、金沢駅東口に完成したガラスドームと木造のゲート「鼓門」。
初めて訪れた人は誰もが度肝を抜かれるはずです。それにしても一体これは何なのか・・・

 


 

歴史コラム

 

金沢大学応援歌 「南下軍」


 「南下軍」とは、旧制第四高等学校(現金沢大学)が明治40年に第三高等学校(現京都大学)との対抗試合に選手を送り出したときの応援歌です。
 柔道部の対抗試合で、読売中興の祖 正力 松太郎が無段ながら大将を務め、圧倒的有利とされた三校に奇跡的な逆転勝利したことが伝説となり、以来100年に渡りこの歌は寮歌として金沢大学で歌い継がれてきました。

 歴史ある大学には、明治大正期に作曲され、寮歌や応援歌として応援団を中心に歌い継がれている歌が必ずあるもので、金沢大学の「南下軍」はこれに該当します。
 そして、この歌詞の根底には、古代から現在に至るまで、常に南(京都)中央権力に支配されてきた能登と加賀の人々の、アンチ中央の理念が息づいているといいます。

 南下軍は、「啻に血を盛る瓶ならば〜」で始まり、「〜遂に南下の時到る」と歌います。

 ・地理的に京都に近いにもかかわらず裏日本と呼ばれていたこと
 ・戦国期に100年にわたり歴史上類を見ない一向門徒による自治都市が成立していたこと
 ・前田加賀藩は徳川家に次ぎ100万石の大藩であったこと   などなど

 他の都市とは違った誇るべき歴史と積年の想いとが、この応援歌を生み出したともいえます。


 <参考> 金沢大学を含む、いわゆる「ナンバースクール」と現在該当する大学

  第一高等学校   東京大学教養学部
  第二高等学校   東北大学教養部
  第三高等学校   京都大学教養部
  第四高等学校   金沢大学法文学部、理学部、教養部
  第五高等学校   熊本大学法文学部、理学部
  第六高等学校   岡山大学法文学部、理学部、教養部
  第七高等学校造士館   鹿児島大学文理学部
  第八高等学校   名古屋大学教養部

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.10


使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「金沢」
A1/20,000地形図「金沢」明治42年測図
B1/50,000地形図「金沢」明治42年測図


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