倉 吉   −川沿いにつづく土蔵と石橋の陣屋町−

山陰道から外れた 小さな盆地の山裾に倉吉の町はある
古くは近くに国府がおかれ 長らく東伯耆の中心地だった
近代交通の要所から外れ 往時の賑わいは失せ 古い町並みが残った
白い漆喰と黒い焼杉板のコントラストに石橋のリズム感が心地いい



 

 

 


 

町の特徴

 江戸期には東伯耆の政治経済の中心地だったにもかかわらず、近代交通の要所から外れたため、往時の古い町並みが残されました。

 そんな倉吉の町並み景観のなかで最も印象的なのは、玉川沿いに建ち並ぶ土蔵群です。

 杉焼き板の縦目板張りと白漆喰壁の土蔵群と、それぞれの戸口まで架けられた石橋が、倉吉独特の町並みを創りだしています。

 


 


 

100年前の倉吉

現在の地形図と100年前(明治31年)の地形図を見比べてみます。

 明治31年の地形図では、奥まった盆地の北斜面に張つくように小さな倉吉の町があります。
 平成10年の地形図では、上井地区にできた山陰本線の倉吉駅との間に新たに市街地ができていることがわかります。


 


 

町の歴史


 小鴨川、国府川、天神川が合流する倉吉盆地は、大山火山の腐植土を豊富に含んだ火山灰におおわれた豊かな地域で、盆地の西側には伯耆国府と国分寺がおかれ、この地は古来より伯耆国の中心地でした。

 打吹山にあった倉吉城は、延文年間(1360頃)に伯耆の守護山名時氏の長男師義によって築かれたといいます。山名氏は、この地に約200年間にわたり居を構えましたが、応仁の乱の後の山名氏にかつての権勢はなく、単なる一地方の小領主のようなものだったといいます。

 大永4年(1524)、戦国大名尼子氏が伯耆に乱入し、ほかの諸城とともに打吹城も落城します。天正8年(1580)、毛利氏が中国地方全域に覇権を広げると、一族の吉川元春がここに入って城郭を再建ますが、同13年、秀吉配下の南條氏の領有となり、南條氏の重臣が交代で城を守るようになります。

 関ヶ原の合戦の後、倉吉の支配は、米子城主の中村氏、幕府の天領、因伯二国を領した池田光政の重臣伊木長門守、と短期間で変遷し、その間に一国一城令により打吹城も廃城となります。

 寛永9年(1632)、岡山城主池田光仲が、国替えにより因伯二国を領することとなり、倉吉は池田氏の家老荒尾志摩守嵩就に任されます。
 以後、幕末に至るまで、荒尾氏が打吹山麓に陣屋を構え倉吉を治めるところとなります。

 打吹山の麓に、倉吉城下町がいつ成立したかは定かではありませんが、伯耆での戦乱がやんだ16世紀後半ではないかといわれています。
 江戸初期、荒尾氏の陣屋が山麓(現町役場)におかれ、それを中心にして両側に武家屋敷町、その外側に町屋が配置されました。

 倉吉は、山陰道からは外れていたものの、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった周辺地域とを結ぶ街道が集まり、交通の要所でした。
 古来より東伯耆の中心地が、山陰道の通る日本海側ではなく、少し奥まった倉吉盆地におかれたのは、ここから山側に延びるいくつもの街道筋の結節点にあたるためだと思われます。

 また、中国山地は古くからたたら製鉄が盛んで、その良質の鉄を利用して稲扱千刃(いなこきせんば・脱穀機の一種)の産地として知られ、周辺地域では米生産、綿花生産が盛んで農耕地域でもありました。

 本町通りには、これらの産物を扱う商家が軒を連ね、倉吉は、江戸期を通じて、陣屋町から商工業の町へと性格を変えていったのでした。

 明治時代に入り、稲扱干歯の生産は一層活発になり、全国にその販路を広げていきます。また、木綿生産は「倉吉絣」や製糸業に転換され繊維産業が発達しました。

 こうした産業の活性化に伴い、明治期においても、倉吉は東伯耆の中心地として栄えますが、明治後期以降、藩庁のおかれていた鳥取や、同じ陣屋町の米子に大きく遅れをとるようになります。
 その原因は、鉄道をはじめとする交通機関が、鳥取、米子に比べて大きく遅れたためでした。

 鳥取、米子は山陰線の主要駅であるばかりでなく、山陽方面に向けて、鳥取には智頭急行鉄道、米子には伯備線がそれぞれ通り、山陰地方の交通の要所となっています。

 しかし、倉吉では、山陰線は中心地から3〜4kmも北に外れた上井(あげい)地区を通っています。
 また、明治45年には山陰線上井駅(現倉吉駅)と軽便鉄道でつながり、その後国鉄倉吉線となったものの、幹線鉄道には位置づけられず、昭和60年に廃止されました。

 また、鳥取、米子には、ともに空港が設置され、高速道路も開通しましたが、交通の不便な倉吉には新たな産業立地もままならず、鳥取市20万人、米子市15万人に次いで県下3位といえども、約5万人を数えるに過ぎず、しかも人口の減少が続いています。

 


 

町の立地条件と構造


 鳥取県のほぼ中央部に位置する倉吉市は、昭和28年に倉吉町を母体とし周辺町村が合併して生まれた人口5万人の地方都市です。

 市の中心である倉吉旧陣屋町は、天神川の支流小鴨川の南岸に位置し、城山である打吹山の北麓に張つくように東西に細長く形成されました。

 標高204mの打吹山はとてもシンボリックな形をしていて、盆地のいたるところから仰ぎ見ることができます。
 かつての伯耆国府は、盆地北西部の国府川河岸段丘の高台に置かれていましたが、打吹山におかれた城郭は、山陰道の方角を向き、盆地全体を見渡せる場所に設けられました。

 小鴨川は、狭い倉吉盆地には不似合いなくらい川幅が広く、倉吉城下町の立派な外堀として機能していたと思います。
 倉吉の町は、南の打吹山から北の小鴨川に向かって緩やかに傾斜していて、城郭、陣屋、武家地、町屋の順番に、幅の狭い場所にきれいにゾーニングされていました。



左:町中のどこからでも見える打吹山 右:小鴨川はとても川幅が広く、倉吉の外堀として機能していた


 江戸時代の倉吉の状況は、宝暦年間(1750頃)に描かれた「倉吉御陣屋絵図」等によってうかがうことができます。

 荒尾氏の陣屋は打吹山北麓に北面して建てられ、陣屋を中心にして東西に細長く武家屋敷が配置されました。

 武家屋敷の外郭にあたる北側と西側に町屋地区が配され、東西に縦貫する二筋の道沿いには町屋が建ち並び、あわせて20の町がありました。
 二筋の道は、武家屋敷側が本町通り、北側が新町通りと呼ばれ、両道筋の間には、小鴨川から引水した玉川が直線的に東に流れています。


 現在では、旧陣屋町は市街地の中に埋没して、その境界が定かではありませんが、今の地形図で旧陣屋町を切り取ると興味深い点が幾つか見つかります。

 現在では街中に点在しているようにみえる寺院は、旧陣屋町においては市街地の外延部に位置していたことが分かります。
 また、東西に貫通する本町通りと新町通り、そして間の玉川が、3本の軸線となって東西に貫通し、これらを南北につなぐ道がT字で交差していることが分かります。

 そして、近代に入り新設された幹線道路は町屋の外延部と山麓の武家屋敷地区に配置されたため、町屋地区の通りを拡幅することなく、古い町屋景観が保存されることとなりました。


左:旧陣屋町の東端に位置する大岳院 中右:旧陣屋のあった場所(現小学校)


 倉吉の中で古い町並みが残されているのは、大きく二つに分かれます。

 一つは、本町通り沿いに展開する商家を主体とする町並みで、もう一つは、本町通りと新町通りの間を流れる玉川沿い(通称川端)の町並みです。

 本町通りは、東から魚町・東仲町・西仲町・西町の町からなり、江戸後期から明治期までの記録に残された幾たびかの火災にもかかわらず、往時から大きく変化することなく現在まで引き継がれています。  東仲町、西仲町には現在アーケードが架けられた商店街となっていますが、ここも往来する客も少なく、開いている店舗も限られ、寂れた旧街道筋の典型を示しています。


本町通りの町並み



左:魚町の町並み 中:東仲町のアーケード 右:魚町にある倉吉信販


 玉川沿いには白壁の土蔵が建ち並び、川にかかる石橋と赤褐色の石州瓦が倉吉特有の町並みを形成しています。

 玉川は、倉吉市街の西端で小鴨川から取水し、市街地を西から東へ貫流する巾3m前後の人工河川で、東端で再び小鴨川に注いでいます。

 玉川の南岸は、本町通りの北側に建ち並ぶ商家の裏側にあたり、外壁は腰廻りが杉焼き板の縦目板張りで、上方が漆喰壁で統一されています。また、それぞれの土蔵の戸口には、ゆるやかな反りをもつ一枚石の石橋が架けられ、独特の景観を醸し出しています。


幅2m程の玉川沿いの建物の外壁は、杉焼き板の縦目板張りと白漆喰で統一されている



清流の川には家屋毎に石橋が架かる


 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

玉川沿いの土蔵


石垣の上に縦目杉板と白漆喰の土蔵群
そして、なによりも軽快な石橋の連続が独特の景観を醸しだしている
倉吉大店会


 明治41年旧国立第三銀行倉吉支店として建てられた擬洋風建築。鳥取県初の国登録有形文化財で、本町通り角地の堺町にあり、シンメトリックな土蔵造りの建物
倉吉交番


 明治町2丁目にある打吹交番
 真前にある市営住宅など、とてもオーソドックスな瓦葺RC打ち放し建物が目に付きます。

 


 

 情報リンク

 

倉吉市ホームページ



倉吉観光協会



夢街道を行く 八橋往来


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005年7月


参考資料


使用地図
@1/25,000地形図「倉吉」平成10年修正
A1/50,000地形図「倉吉」明治31年測図


ホームにもどる