松 江   −山陰の「水都」 巨大な城下町−

山陰地方の中央に位置する宍道湖畔の巨大な城下町
城郭を中心として 河川や堀が縦横にはしる
防衛と水運をもっとも重視して計画された城下町
松江は まさに 山陰の「水都」である



 

 


 

町の特徴

 松江の特徴を一言で表現すると「水郷のめぐる巨大な城下町」といえます。

 北端の奥谷町から南端の雑賀町までは3km以上もあり、途中に2つの川を渡らなければなりません。また、東西方向についても、西端の外中原町から東端の北田町まで2km以上あり、いくつもの堀が横断しています。
 松江は24万石の大大名の城下町だったのですから、この規模も妥当だったのかもしれませんが、現在の人口15万人は県庁所在地のなかでは山口市、鳥取市とほぼ同数で最低ランクに属し、密度の低さのおかげで、町の広さが強調されているのかもしれません。

 また、大橋川から北側の旧武家屋敷の地区を歩くと、いたるところで堀(水路)に出くわします。城下町時代の堀の大部分は往時のまま残されていて、今でも豊かできれいな水面を保っています。
 川や堀のいたるところに船着場の跡がみられ、手を伸ばせば水に触れることができそうな親水性があり、転落防止の手摺や柵などあまりみあたりません。


松江城天守閣からの風景(南方向)  県立美術館のまだ向こうまで城下町は続いている

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左:天神川  川辺りに下りる階段があるが柵はない  右:町中にある堀を堀川遊覧船がはしる(南田町)

 


 

100年前の松江

 現在の地形図(1/25,000)と100年前の地形図(明治43年、1/50,000)を同一縮尺に編集し交互に表示させてみます。

 2つの河川(大橋川、天神川)を渡って南北に長く城下町が広がっていることが分かります。 明治41年に開通した山陰線松江駅が白潟地区(中央の中洲地区)の畑地の中にポツンとできています。
 宍道湖の夕日鑑賞で有名な県立美術館、松江大橋、国道9号線バイパスなど鉄道から西側は埋立地だったことがわかります。また、松江宍道湖温泉付近も埋立地だったことがわかります。

 


 

町の歴史

 

城下町建設以前の松江

 松江は出雲国のほぼ中心部に位置していますが、古代においては宍道湖から続く入り海や湿地帯が多く、人々の営みは続いていたものの寒村にすぎませんでした。出雲国の国衙がおかれるなど、古代においてこの地方の中心だったのは、松江市南部の大庭や竹矢地区の丘陵地でした。
 江戸初期に城下町が建設される以前において「松江」という地名はみられず、末次・白潟などの地名が鎌倉時代以降になってようやく文書に表れるに過ぎません。

 永禄9年(1566)、尼子氏の本拠地だった広瀬の月山富田城が陥落し、以後、出雲の国は毛利氏が支配するところとなりましたが、慶長5年(1600)、関が原の合戦により、毛利氏が防長2国に封じられるとともに、代わって、東軍に味方し奮戦した三河国の浜松城主堀尾吉晴が、出雲・隠岐二十四万石を拝領し、広瀬の月山富田城に入府することになります。

 しかし、富田城は山城で防御には利点がありますが、軍事面でも交通面でも要地ではないことから、堀尾吉晴とその子忠氏は、慶長8年(1603)に幕府の許可を経て城地の選定に入り、宍道湖と大橋川を隔てた亀田山(標高28.4m)に新たな城と城下町を建設することになります。

 戦国時代、亀田山には末松城という城がありましたが、土居と称されるようにきわめて簡便な砦のような城でした。一時は、後に伊丹清酒の生みの親ともいわれ、鴻池財閥の礎をつくった山中新六幸元の父で尼子十勇士の一人、山中鹿介幸盛が占拠し土居を構えたとの記録も残されています。

堀尾氏による城下町の建設

 慶長十二年(1607)、堀尾吉晴は築城工事に着手します。
 本丸の位置した亀田山は北側から伸びる尾根筋の先端部にあたり、その北側の尾根は防衛上の観点から切り崩し、さらに大堀(現在の塩見縄手沿いの北田川)まで掘削しました。幅が平均60m以上もある堀は、最も深い所で9mに達し、かなり大規模な土木工事だったようです。
 これ以外にも、幅がその名の通り四十間(約80m)ある四十間堀などを縦横に掘削し、その土砂で城の東の入江や沼地だった所を埋め立て、武家屋敷としたのが今の南田町、北田町や内中原町だといわれています。

 一方で、尼子氏の築いた富田城下はさびれてゆき、亀田山への移転して約半世紀後の寛文6年(1666)には富田川の大洪水で、旧城下町には川底に埋もれ、その姿もとどめなくなりました。

 堀尾氏は吉晴・忠氏・忠晴の三代で断絶、代わって若狭国から移封されてきた京極氏も一代で断絶します。寛永十五年(1638)、徳川家康の孫にあたる松平直政が信州松本から入府し、出雲18万6千石と隠岐1万8千石を領する松江松平藩の祖となり、以後明治維新までの230年間、松平氏十代が松江城の主となります。

 江戸初期の正保絵図と明治期の地図を見比べても、道路の構成や町の範囲などはほぼぴったり一致して、他の城下町に見られる、経済活動の進展による町家の拡大や下級武士階級の屋敷町の新設などは300年間なかったようです。

 18世紀中ごろになると、藩の財政は危機的な状況になり、松江藩7代藩主松平治郷は家老に朝日丹波を登用して「御立派(おだては)」改革を実施しました。蝋、薬用人参、鋳物などの特産物の生産の奨励し、専売制をとって財政を再建したのです。
 治郷は松江藩中興の祖といわれますが、財政再建を行った名君としてだけでなく、不昧流(ふまいりゅう)茶道を確立した茶人としても有名で、治郷は不昧公として松江市民に親しまれ、松江の茶菓子は全国的にも有名になりました。

明治以降の松江

 維新直後の城郭取り壊しの嵐が吹き荒れる中、松江城は櫓などは廃棄されたものの、天守閣は地元有志の尽力により奇跡的に残されることとなりました。
 明治初期の廃城を免れ現存する天守閣は全国に12あります。山陰地方で唯一現存する松江城天守閣は、外観は5層、内部は6層の望楼様式とよばれるもので、大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目の規模を誇ります。
 壁の大部分は、黒く厚い雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実践本意で安定感のある無骨な姿には、荘重雄大な桃山風天守の手法を見ることができます。

 明治維新以降、全国の城下町の武家屋敷がことごとく荒廃しましたが、松江もその例にもれず、二の丸、三の丸と母衣町は県庁、市役所、公会堂などが建ち並ぶ官庁街に姿を変えました。
 東の北田町、南田町、西の内中原町、外中原町、そして南端の雑賀町は今も住宅地のままで、特に、内中原町は上級、雑賀町は下級の武家屋敷跡の雰囲気が今も残っています。
 町家であった末次と白潟はいまも商業地で、特に末次地区の中心にある京店商店街は広場整備やイベント開催など都心活性化の拠点として様々な試みがなされています。

 明治22年に市制が施行された時、人口3.5万人の松江は山陰最大の都市でした。
 同時期にはラフガディオ・ハーンが小泉八雲と称して松江中学校で教鞭をとり、松江城北側の武家屋敷跡(塩見縄手通りの八雲記念館)に居を構えました。市内には彼(通称「ヘルン」)が小説の中に好んで取り上げた怪異話、奇談の題材とした場所が残されています。

 明治41年、山陰線が松江まで開通し、松江駅は白潟地区の東の畑地につくられ、新たな松江の中心地が形成されることになります。
 また、昭和3年、一畑鉄道が北松江駅(現松江温泉駅)まで延伸され、今も残るモダンな駅舎には宍道湖北岸を通り出雲方面から多くの人々が訪れ、隣接する末次町には商店街か形成されました。その南には、昭和46年に泉源がみつかり埋立地に今の宍道湖温泉街ができ観光都市松江の一翼を担うことになります。

 


 

町の立地条件と構造

 明治43年の地形図に丘陵地部分を着色してみました。(かなりいい加減ですが・・・(#^.^#))

 宍道湖は南北から迫出す丘陵地により堰き止められ、わずかに開いた松江の地から大橋川が中海に向かい湖水が流れ出ています。
 宍道湖を堰き止めた場所に松江の城下町は造られたのです。

 北側から延びる丘陵部の先端で、南の平野部を一望できる高台に松江城本丸は置かれました。米子から出雲に抜ける津田街道(山陰道)は、湖南の丘陵沿いを東西に通り、城下町はこれを取り込むよう南北に長く造られたのです。
 あたかも、東西方向の「水の流れ」と「物資の流れ」を城下町で堰き止めたような形になっています。


 現在の地形図に江戸期のゾーニングを重ねてみました。

 丘陵部の先端に設けられた本丸と二の丸は地図上かなり目立つ卵型をしています。その南隣の三の丸(現県庁舎)を囲んで内堀があり、その周辺に上級家臣の武家屋敷が内中原、母衣に立地し、その外周に外堀が巡っています。
 外堀の外周をコの字に町屋が囲み、さらに東には埋立地である北田、南田の中級武家屋敷が並んでいます。この地域はおおむね碁盤割に整然とした道路網となっています。
 それとは対照的に、その外周である北の奥谷地区、南の白潟地区、西の外中原地区では、複雑な丁字路、鉤型道、袋小路が張り巡らされ、見通しが利かないように工夫されています。
 大橋川と天神川に挟まれた白潟地区には町屋と寺町があり、今の新大橋通りから東の部分は浅瀬、沼地で屋敷はなく、明治末期に松江駅ができるまで田や畑に変化した程度で、江戸期は藩主の鷹場でした。
 天神橋の南には町屋(竪町)と雑賀町があります。雑賀町は鉄砲町ともよばれ、足軽鉄砲隊の下級武家屋敷の町で、山陰道を取り込む位置にあることから、戦時には防衛の最前線になる町でした。



 旧城下町の中から特徴のある地区をピックアップします。

@塩見縄手通り

 いうまでもなく松江観光の拠点で、武家屋敷の長屋門、老松、堀が写った写真は、必ず観光パンフレットの表紙を飾っています。
 松江城築城の時点では、このあたりは宇賀山があって本丸と尾根続きとなっていました。その山を切り取って屋敷通りを造り、さらに堀を開削したのです。堀に沿った細い道を「縄手」とよび、「塩見」はこの武家屋敷町の一角に住んだ立身出世の家老塩見氏に由来します。
 一般公開している武家屋敷は、その塩見氏の4代目も一時期居住した屋敷であり、江戸中期頃に建築されたものですが、よく保存され当時の面影を偲ぶことができます。



A北田町、南田町

 城郭の東側にある中級武士の屋敷町でしたが、ほとんどの道路は拡幅され、建物もすべて住宅に建て変っているため旧武家屋敷らしい雰囲気は一切残っていませんが、町中を縦横にはしる堀と、現在では大きすぎる街区に、城下町の名残が見られます。
 城下町時代に形成された一街区の短辺は80〜90mもあるのに、その後新たな通り抜けの細街路が造られなかったため、行き止まりの道路や旗竿式の敷地が数多くみられます。


左:大きな街区に行き止まり道が数多く入っているのがわかる  中:これは城下町時代からの道路
右:堀を渡った奥に続くこの道路はこの先行き止まり


B末次町

 末次町は明治期以降も松江の繁華街で中心地だっため、建物のリニューアルが相当進み、往時の町屋はほとんど残っていません。わずかに本通沿いの國暉酒造(こっきしゅぞう)だけが、江戸末期の町屋の姿をとどめています。
 京橋川沿いも繁華街の川べりらしく、昭和40年代まで、ラーメン屋やバー、すし屋、魚屋などが川にせり出すように軒を並べていたそうです。現在では、これらの建物はすべて取り除かれ、川沿いは親水空間として再整備され、「カラコロ工房」に姿を変えた旧日銀松江支店、堀川巡りの船着場、石畳と並木道などが川べりに面して、中心市街地の活性化事業がお客を呼び戻しています。


左:本通り(西本町) 右手が國暉酒造  中:京橋川沿いの親水空間整備  右:東本町(大橋北東詰め)


C白潟地区

 白潟地区は西に町屋、東に寺院が配置されていました。
 城下町を縦断していた通り沿いは商店街になっていますが、特に、通り北半分の本町商店街は、明治末期から昭和初期にかけて賑わった繁華街だったようです。
 石張りのコンクリート建物や旧町屋の前面だけが改修された建物など、かつては商店街として繁栄した跡が見られますが、本通り沿いの建物が一階部分を抜いて、幅1.5mほどの歩道を生み出しているのが印象的です。歩道の上に張り出した形になっている2階を鉄骨が支えていますが、かなり変ったストリート景観をつくりだしています。
 JR松江駅周辺の商業業務地区に挟まれるようにあるのが寺町で、今でも20前後の寺院が伽藍を並べています。


左:本町商店街の歩道  木造建物は鉄骨で補強  中:RC造はさすがに無理  右:寺町の寺院


D雑賀町

 白潟地区から天神橋を渡り竪町を抜けると雑賀町に入ります。
 雑賀町は鉄砲町ともよばれ、足軽鉄砲隊の下級武士の屋敷町で、戦時には防衛の最前線を担わされた町でした。
 幅員4〜5mの直線道路により整形に区画割された町並みが数街区つづき、南北の通りには幅1mぐらいの水路が通り、天神川まで排水する機能を果たしていたようです。現在ではコンクリート蓋がかかっていますが、現地にはその名残がしっかり残っています。
 それ以上に、往時の面影を残しているのが町並みそのもので、塀に囲まれた閉鎖的な町並みは武家屋敷だった時代の空気を十分に伝えてくれます。塀自体は、木塀であったり、コンクリートブロック塀であったり、はたまたトタンの塀であったりしますが、道の狭さとあいまって、松江の中でも江戸期の面影を最も残している地域だといえます。


左:ここまで本格的な屋敷はなかなかありませんが・・・  中:木塀にトタン塀も見えます
右:コンクリート塀ですが、庭の松も往時の名残かもしれません。天神川への排水路跡がみえます。


 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

松江城

 松江散策の前にまず訪れます。
 途中の展示コーナーには目もくれず、まず最上階まで旧階段をのぼりましょう。
 望楼形式なので、涼しい風が吹き抜ける中、松江市街が一望できます。なぜこの場所に本丸が築かれたか納得できるはずです。
塩見縄手通り 武家屋敷

 観光客と車がわんさかと通り、人や車の通らない風景を撮ることは至難の業です。
 典型的な観光地ですが、武家屋敷はよく保存されていて、一見の価値があります。
 裏庭がすぐ山に続いていて、ここが築城時に堀切された場所であることがわかります。
國暉酒造 (こっき しゅぞう)

 松江の地酒の代名詞ともいえる酒蔵で、末次町(現東茶町商店街)にあります。
 建物は文化5年(1808)の大火後に建築されたもので、今でも江戸末期の町屋の面影を残しています。
内中原町にある長屋門

 今回のブックマークはかなり観光向けになっていますが、これは穴場のお勧めスポットです。
 町歩きの中で偶然見つけた長屋門で、住宅地の中でひときわ歴史の重厚さを感じさせます。
 この門にかかっていた表札は、江戸初期、堀尾氏時代の城下町絵図に書かれている苗字と同じで、400年前の上級武家が代々住む継いできたものかも知れません。

宍道湖の夕日(白潟湖畔公園より)

 一日の宍道湖散策の締めくくりは、やはりこの夕日でしょう。
 私のまちあるき当日は曇り空でしたが、それでも湖面に映る夕日と茜に染まる夕空はきれいでした。

 


 

★ 情報リンク

 

松江市ホームページ



松江城と周辺観光案内
まあ見てみましょう  松江に関する情報量は呆れるほど・・・


マイタウン 松江
松江の写真集  大橋、宍道湖の夕日、歴史建物など、松江の街のきれいな写真が満載のサイト


島根バーチャルミュージアム
とても綺麗なHPで、企画展示で「茶人 松平不昧公の世界」が必見です。


 


 

歴史コラム

鉄の産地 奥出雲の「たたら」製鉄業

 

 松江藩の財政を支えた主要産業のひとつに製鉄があります。

 奥出雲(今の吉田村、仁多町、横田町)を流れる斐伊川の流域は砂鉄の産地で、周辺の豊富な森林資源を活用した「たたら」と呼ばれる製鉄業が盛んでした。
 「たたら」とは、粘土で造った炉中に、砂鉄と木炭を交互に挿入し、砂鉄の中の鉄分を還元分離して鉄を得る製鉄法のことで、映画「もののけ姫」にも登場しました。その語源はこの製法を考案したタタール人から来たものといわれています。わが国には古墳時代に伝わり、全国各地で行われていました。奥出雲のたたら製鉄は松江藩の保護下で全国の鉄の70%を生産していました。
 その中心となったのが、「たたら(鉄師)御三家」とよばれた田部、絲原、櫻井家で、各家とも藩の鉄師頭取役を務め、幕末期には農民でありながら士分役という得意な階層として藩の鉄行政にも関与し、明治維新以降は県政、国政にも参画し、地域発展のために尽力しました。そして、ともに奥出雲に広大な山林と邸宅を持ち、これらを訪ねるとかつての鉄師の繁栄ぶりがしのばれます。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.07.03


参考資料

@「松江城物語」島田 成矩
A「松江堀めぐり」中国新聞松江総局
B「絵図で見る城下町 松江」歴史地理学島根大会実行委員会
C「松江市史」


使用地図
@1/25,000地形図「松江」昭和年測図平成13年修正
A1/50,000地形図「松江」明治42年修正


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