松 代 −都市になれなかった北信州一の城下町−
重厚な長屋門 藁葺きの武家屋敷 江戸期の大名御殿 |
町の特徴
松代は川中島の合戦のときに武田側の砦として築かれ、江戸期には北信濃一の城下町として栄えました。 |
![]() ![]() |
100年前の松代 100年前(明治期)の地形図が手に入りませんでしたので、江戸期18世紀中ごろの城下町絵図を見てください。松代にもいくつかの城下町絵図が残されていますが、この「御家中屋敷絵図」が最も道路、方位や縮尺がきっちりしています。 本丸などの城郭内は雲で隠され、町屋の区画割りが記載されていないのは、他の城下町絵図にも共通したものです。 白地で残る町屋が中央部でL字に曲がっていることが分かります。城郭の北西に川が2本描かれていますが、2本とも千曲川と記載されています。太いほうの千曲川は、現在の千曲川の流路で、この絵図作成の頃に細いほうから付け替えられたといわれます。 |
![]() |
町の歴史 江戸期までの松代
松代城は、かつては海津城と呼ばれ、戦国期の永禄三年(1560)に甲斐の武田信玄により築城されたのが始まりだといわれています。 明治期以降の松代
維新後の廃藩置県により、一時、松代県となりますが、すぐに隣接の長野県に統合されて県庁が長野におかれてしまいます。以来、ほとんどの行政機能が長野や篠ノ井に集められ、松代に立地することはありませんでした。 |
町の立地条件と構造 松代城天守台から、川中島方向を見ると、信越自動車道の土手の斜面とその遥かかなた向こうに山々が見えます。自動車道がなく、天守台の上に物見台があったのなら、千曲川、川中島、そして善光寺平(長野盆地)全体が、見渡せたのではないかと思います。それほど善光寺平は真平らで、今でも視線を遮るものは何もありません。
松代の町は、広い善光寺平の南端に空いた穴ぐらのような場所にひっそりと佇んでいます。 前面には千曲川が流れ、南の象山(標高470m)と北の東寺尾の尾根筋(標高450m)が善光寺平から松代の町を切り取るように張り出しています。また、背後には尼厳山(標高780m)、奇妙山(標高1100m)、皆神山(標高650m)舞鶴山(標高560m)がつらなる山地が控えています。 この立地条件が、近世以降は長野の「奥座敷」のような立地条件となり、交通の要所からも外れていたため、都市化の進展がほとんどみられず、昔ながらの地割や町並みをよく残してきたのです。 千曲川と南から張りだす尾根筋の間をすり抜けるように北国脇街道と長野電鉄は走っています。 北国街道と信越本線が善光寺平(長野盆地)の北側をのびのびと走っているのに比べて対照的です。このあたりの地形的要因も、明治以降の長野と松代の発展を分けたのかも知れません。 他の城下町と同様に、松代城下町も江戸期を通じて数々の絵図を残しています。 どの絵図にも、本丸のすぐ北西側に隣接して千曲川が描かれています。 もともと松代城は千曲川に南沿岸に建設されたのです。ただ、江戸期には洪水が頻発したため宝暦年間(1760頃)に、700m北の現在の場所に付け替えたといいます。 川中島をにらむ砦として築かれた城郭を基準として城下町が建設されたため、本丸が城下の最も低地に位置し、上級武家屋敷から下級武家屋敷になるにしたがって高台に上がることになりました。 元和8年(1622)、真田信之が松代に入った頃にはすでに城下町が形成されていましたが、当時、城下には土居(惣構)と堀が巡らされていたといいます。江戸期を通じて、町は土居(惣構)と堀を越えて、武家屋敷は南へ広がり、町屋は街道沿いに西側に伸びていきました。 北国脇街道(現国道403号線)は西側から城下に入り、伊勢町で直角に折れ曲がり北に向かうことになります。 この北国脇街道に沿って、松代には町八町とよばれる町屋がありました。東西方向の馬喰町、紙屋町、紺屋町を上三町、南北方向の伊勢町、中町、荒神町、を本町三町、これに平行した鍛冶屋町、肴町、を脇二町とよんでいました。このうち上三町は土居(総構)の外にあるので、城下町建設当初は町中に組み込まれていなかったいわれています。 松代の町に降りたったときの第一印象は、「単なる田舎町」でした。 長野電鉄松代駅はとんでもなく古く、駅前は広いもののロータリーなどは見当たらず、まともに食事する店もありません。最近できたと思われるスーパーマーケットが一軒、場違いな新しさでひときわ目立っていました。
町中を歩いても、ここが400年も前に建設された城下町で、明治期までは北信濃で最も栄えていた町だとはとても想像できません。 しかし、町中を歩いていると、ハッとするような歴史的遺物に出くわします。 矢澤家の長屋門は、まさにこれにあたります。 松代藩家老の家筋にあたる矢澤家の屋敷は、城下で最も初期に建設された本丸東側の殿町にあり、漆喰で補修されいくらか手が加えられているようですが、その大きさ、重厚感は圧巻で、田舎町の一角に突然現れるとびっくりするものがあります。
殿町は、上級武士の屋敷町跡にあたりますが、明治期以降の変化最も激しい場所で、その跡地は明治から昭和初期にかけて、製糸工場や繭の倉庫の大きな土蔵が建ち並ぶ工場地区となり、その後、養蚕製糸業の衰退から工場はまったく姿を消して、今は松代総合病院、農協会館などに変っています。 ここから、北国脇街道(国道403号線)を越えて、南側の地区は中下級武士の屋敷町となり、部分的に土塀が保存、復元されています。昭和40年代の写真をみると、この時代までは、未舗装に道路の両脇に素掘りの水路がはしり、土塀が途切れることなく続いていたことが見て取れます。ここ30年ほどの間に、道路は舗装され、土塀はなくなり、そしてまた復元されたようです。 この地区で最も土塀が数多く保存、復元されているのは象山沿いの竹山通りです。 象山に沿って流れる神田川にし土塀が連続して保存、復元されていて、往時の雰囲気が最も感じられる場所です。
紺屋町の東端に郵便局がありますが、ここで旧街道は鍵状に曲がっていますが、ここに土居と堀があった名残です。道路拡幅があったせいか、沿道建物はほとんど建て替わり、かつての町屋の名残はほとんど見られません。 その先の木町はもともと武家屋敷でしたが、街道沿いであることから商店が建ち並んだようで、昭和60年ころまでは、6mほどの道路の両側にアーケードがかかった商店街だったようです。いまではアーケードはなくなり、道路は拡幅されて、一般的な国道沿道になっています。 伊勢町から中町にかけては、いくらか戦前のものらしき旧商家が残っていますが、あくまでも部分的で、往時の町屋の雰囲気はほとんど感じられません。
| |
復元された松代城 本丸南の大門 太鼓門 石垣と門が復元されていますが、平城とはこんなものかと分かる城です。 |
![]() |
竹山通りの土塀 神田川に面して土塀が連続している様子は、往時の武家屋敷の雰囲気を伝えてくれます。 |
![]() |
長屋門 三連発 上:旧白井家 長屋門 別の場所から移設されたようですが、その存在感は格別のものがあります。 中:旧今井家 長屋門 松代藩で郡奉行などを勤めた中級藩士今井家の長屋門です。 内部には茅葺の屋根を持つ住宅があり、重要文化財に指定されています。 下:矢澤家 長屋門 私は、やはり矢澤家の長屋門が一番気に入ってます。 |
![]() ![]() ![]() |
情報リンク
長野市観光課 ホームページ エコール・ド・まつしろ2004 松代の数々の文化財を教室として使い、 様々な趣味や生涯学習の講座や集会を年間に渡って開催し、 〈城下町まるごとカルチャースクール〉にしてしまおうという計画です 松代大本営の保存をすすめる会 |
歴史コラム
幻の松代大本営移転計画
太平洋戦争末期、松代にとんでもない計画がもちあがりました。 日本軍が本土決戦最後の拠点として、大本営(日本軍総司令部)や政府機関などを極秘のうちに松代に移転するというもので、実際に松代周辺の象山(標高470m)、皆神山(標高650m)、舞鶴山(標高560m)などには、移転先として終戦までに巨大な地下壕が掘られました。 日本の中心部に位置し、岩盤層からなる松代周辺の山に白羽の矢が立ったのですが、その影で、約7000人ともいわれる数多くの朝鮮人労働者が強制労働に従事させられ、従来あった多くの家屋が立ち退きを余儀なくされたといわれます。 政府機関や放送通信機関の移転予定地だった象山では、総延長5.8km、床面積23,400uもの地下壕の掘削がほぼ終了していたといわれ、巨大な地下壕は一度も使われることなく終戦を迎えました。 山中には巨大な地下壕がいまでも残されて、象山の地下壕のうち500mだけが現在公開されています。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2004.8.12 参考資料 @「城下町・松代」 松代文化施設等管理事務所 A「太陽コレクション 城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町」 B「城郭と城下町4 北陸・甲信越」 C「岩波ブックレットNO.207 松代大本営」和田登 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス 「信濃松代」「稲荷山」「長野」「信濃中条」「戸隠」「若槻」 |