長 浜   −「ガラス工芸」で賑わう旧城下町−

大都市圏から遠く離れた近江の湖北にありながら
年間200万人の人々が訪れるという
戦国期に造られた城下町  長浜
「ガラス工芸」を核とした町づくりは
まったく新しい町の歴史を造りつつある



 

 


 

町の特徴

 長浜は、戦国期に羽柴秀吉の城下町として開かれ、楽市楽座がおかれました。

 江戸期には大通寺の門前町、北国街道の宿場町、琵琶湖の港町、絹織物の商工業都市として発展を遂げました。

 各地の駅前の中心商店街が、郊外型大型店舗の進出により停滞を余儀なくされている中で、長浜の旧市街地は「ガラス工芸」をこれからの産業、文化の中心にすえて、まったく新しいまちづくりに取り組んでいます。
 「ガラス工芸」は町の歴史とはまったく無関係なのですが、伝統にこだわらない自由な発想こそ、近江商人ならではのものかもしれません。

 


 


 

100年前の長浜

現在の地形図と100年前(明治24年)の地形図を見比べてみます。

 明治期に比べて、市街地は四方にまんべんなく広がっています。
 南北に走る北陸本線とともに、明治22年に廃止された長浜−関が原間の鉄道がまだ描かれています。
 北陸本線の西側の殿町は、かつての武家屋敷町でしたが、明治期にはすっかり田畑に戻っているのがわかります。
 明治期には、ヨットハーバーやホテルの建つ港町はまだなく、鐘紡や三菱樹脂の工場も田畑の状態です。
 北・東・南側に街道に沿って町が延びていますが、かつて武家屋敷のあった西側は、あたかも切り取られたように町域が途切れているのがわかります。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史

 秀吉が城下町を造る前、長浜は「今浜」と呼ばれていました。

 室町期から戦国期まで、長浜を含む湖北地方は、古来より近江国を支配してきた佐々木氏の流れをくむ京極氏が支配しており、その家臣今浜氏が長浜の地に城を構えていたといわれています。

 戦国時代、この地を支配した浅井長政は、織田信長の妹お市の方を娶りますが、織田信長の朝倉氏攻めに対して反旗を翻します。浅井、朝倉連合軍と織田、徳川連合軍が激突した姉川の合戦を経て、天正元年(1573)9月、浅井氏は滅亡します。
 この合戦で戦功をあげた木下藤吉郎は羽柴秀吉と名乗り、江北三郡十二万石の領主となって浅井氏の居城であった小谷城に入ります。
 時に秀吉37歳。長浜は秀吉がはじめて一城の主となった記念すべき地なのです。

 翌年、秀吉は城と城下町を小谷から今浜に移します。

 今浜の地は、琵琶湖に面して北国街道の通る水陸交通の要所ともいえる場所でした。

 天正3年、秀吉は城郭の完成とともに、地名を今浜から「長浜」に改め、以後7年間ここを居城にして城下町の発展に尽力します。

 城郭と同時に整備された城下町には、小谷城下から住民を移しただけでなく、近郊からも商人を集めて町の繁栄につとめたようです。
 城下町に占める町屋の比率は高く、この頃の城下町にみられる鍵型道路を配置した複雑な町割りではなく、街区は碁盤目状にきれいに配置されています。
 また、信長の築いた安土の町につづいて、ここでも楽市楽座がしかれます。
 戦国期の真最中にもかかわらず、秀吉は城下町建設にあたり商業都市を目指していたようです。

 また、秀吉は賎ヶ嶽の戦いの勝利により、町屋の年貢三百石を免除しています。これは戦いに際して町の男子すべてが秀吉軍に馳せ参じて戦ったことへの褒賞であり、この特典は明治にいたるまで継承され、町の発展に寄与したといわれています。

 天正10年(1582)、信長亡きあとの清洲会議において、長浜城は柴田勝家の甥の勝豊が城主となりますが、早くもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、越前の柴田氏との賤ヶ岳合戦の拠点とします。

 その後、長浜城は山内一豊、内藤信成、内藤信正を城主に迎えますが、豊臣氏の滅亡に伴い長浜城も取り壊されました。
 江戸期には、井伊氏の治める35万石彦根藩の領地となり、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われたといいます。
 長浜にある大通寺の門や彦根城の櫓などは、長浜城の遺構だといわれています。

 古来より湖北地方は養蚕が盛んで、生糸を原料とする絹織物を生産し、宝暦年間(1760頃)から浜縮緬(はまちりめん)を製織したといわれ、近世の長浜は、生糸や織物の集散地として、また、商業の町として賑わいおおいに栄えました。

 また、中山道の鳥居本から分かれて北進する北国街道の宿場でもあり、また長浜港は琵琶湖の船運を利用して、湖周各地への湖上交通の要所で、松原、米原と共に彦根藩三港の一つでもありました。

 江戸期を通して長浜の人口は5000人を数え、明治維新以降も大津、彦根に次ぐ滋賀県下第3の都市として街は周辺に広がっていきます。
 しかし、中心市街地は明治5年11月の大火によって約800戸が全半焼してしまい、江戸期の町なみは北国街道沿いと大通寺門前付近を残すだけとなりました。

 北国街道と大手通りの交差する交差点は札の辻で、江戸期には藩命などを伝える高札が掲げられた町の中心地でした。
 明治33年、この札の辻の角に黒漆喰の外壁をもった第百三十銀行長浜支店が建設されました。
 長年、黒壁銀行の愛称で親しまれてきたこの建物は、平成元年に改装されて「黒壁ガラス館」としてオープンしています。

 郊外型大型店の進出により、長浜もその例にもれず中心市街地が沈滞していましたが、この歴史遺産の活用が中心市街地活性化の起爆剤となりました。
 地元企業人有志による第三セクター「黒壁」は、昭和63年の設立以来、町中に数多く残る歴史的建物を活用して、「ガラス工芸」の工房、ギャラリー、ショップなどを次々とオープンさせています。
 その第一弾が「黒壁ガラス館」なのです。

 この動きに触発されて、この周囲に残る虫籠窓のある商家、蔵造りの商家などは次々とショップやレストランにリニューアルされ、現在では年間200万人以上の来街者を迎えるようになりました。

 江戸期における湖北の商業中心地「長浜」は、平成に入り「ガラス工芸」を新たなキーワードとして、往時をまさる賑わいを取り戻しています。

 


 

町の立地条件と構造

 長浜城下町は、戦国期の真只中に作られたにもかかわらず、まったくの平地に立地し、町割りも碁盤目状に分かりやすく造られています。
 一方で、北国街道沿いにある湖畔のこの地は、水運、陸運とも交通が至便で、湖北平野部のほぼ中心にあたる場所は、平時に湖北地方を治めるには最も適した場所だといえます。
 また、武家屋敷町に比べて町屋町はとても広く、秀吉は当初から商業都市を目指して城下町を建設したのではないかと考えられます。


 現在の町の賑わいの中心は、江戸期と同じく北国街道と大手通りです。

 明治5年の大火によって、江戸時代の家並みの多くは失われ、現在残る建物は明治期以降のものですが、北国街道沿いには明治、大正期の商家が数多く残っています。


町屋地区の至る所に残る明治大正期の商家


 まちあるきの日は、ちょうど17回目のアート・イン・ナガハマ(長浜芸術版楽市楽座)フェスティバルの開催日で、黒壁ガラス館を中心とした黒壁スクエア一帯には、小雨がぱらつく天候にもかかわらず、多くの観光客が来訪していました。
 特に大手通りの商店街には、地元の工芸家達が出店するミニショップが連なっていて大変な賑わいを見せ、開催日2日間で10万人の来訪者があったようです。


アート・イン・ナガハマの賑わい  左:旧大手通り  右:旧北国街道



右:黒壁スクエア  中・左:旧北国街道と沿道にあるレストラン(左)



 線路より西側の殿町周辺はかつての武家屋敷町ですが、江戸期には既に田畑にもどっていたため、武家屋敷の名残は何も残っていません。
 城郭跡は豊公園として市民の憩いの場となっており、そこにある長浜城は、昭和58年に市民の寄付金などで再建されたもので、内部を歴史博物館として使用されています。
 その先にある港町には、ヨットハーバーとホテルが整備されていて、かつての琵琶湖交通の港は、今や琵琶湖リゾートの拠点となっています。


左:南からみる再建された天守閣  中:堀の名残の水路  右:長浜ヨットハーバー


 長浜旧市街の北東端にある大通寺は、寛永16年(1639)に城跡に建てられた後、この地に移されたもので、本願寺長浜別院として、湖北388寺を管轄しています。
 通りから見上げる山門の威容には、この町が大通寺の門前町であったことが実感できます。


左:参道から見上げる壮大な大通寺山門  中:山門からの参道をみる  右:大通寺本堂

 


 

まちなみ ブックマーク

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大通寺参道


 通りのさきに大通寺の壮大な山門がみえ、江戸期に長浜が大通寺門前町であったことが実感できます。
町中を流れる堀跡の水路


 川を流れる水はとても綺麗で、護岸の石垣には家から下りる階段がみられます。
 狭い川幅からみて、水運のための運河ではなく、生活用水路だったのでしょう。
旧開知学校 校舎

 明治4年、県下初の小学校「滋賀県第一小学校」が開校しました。明治7年には、市民の寄付によりこの学舎が建てられ「開知学校」と改名され、現在の長浜小学校の前身になります。
 昭和12年に現在の場所に移築された後、老築化が進む一方でしたが、平成12年に研究研修施設としてリニューアルされました。
長浜タワー

 駅前通りを挟んで開知学校の向かいにある4階建ての鉄筋コンクリート建物。
 「NAGAHAMA TOWER」の看板がかかり、屋上には電波塔のようなものがある。
 あまりの悪趣味な歴史的遺物におもわずシャッターを切りました。

 


 

 情報リンク

 

長浜市ホームページ



黒壁スクエア
ガラスの工房、ショップだけでなく製作講座、一日体験教室なども開催する
轄封ヌのホームページです。


長浜観光協会 ホームページ


ふるさと長浜
子供を対象にしたHPですが、それだけにとても分かりやすく書かれています。


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.10.3


参考資料

@「長浜町絵図の世界」市立長浜城歴史博物館
A「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい
B「歴史の町なみ 近畿篇」保存修景計画研究会

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「長浜」
A1/20,000地形図「長浜」明治26年測図


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