長 浜 −「ガラス工芸」で賑わう旧城下町−
大都市圏から遠く離れた近江の湖北にありながら |
町の特徴
長浜は、戦国期に羽柴秀吉の城下町として開かれ、楽市楽座がおかれました。 |
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100年前の長浜 現在の地形図と100年前(明治24年)の地形図を見比べてみます。明治期に比べて、市街地は四方にまんべんなく広がっています。 南北に走る北陸本線とともに、明治22年に廃止された長浜−関が原間の鉄道がまだ描かれています。 北陸本線の西側の殿町は、かつての武家屋敷町でしたが、明治期にはすっかり田畑に戻っているのがわかります。 明治期には、ヨットハーバーやホテルの建つ港町はまだなく、鐘紡や三菱樹脂の工場も田畑の状態です。 北・東・南側に街道に沿って町が延びていますが、かつて武家屋敷のあった西側は、あたかも切り取られたように町域が途切れているのがわかります。 |
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町の歴史
秀吉が城下町を造る前、長浜は「今浜」と呼ばれていました。 |
町の立地条件と構造 長浜城下町は、戦国期の真只中に作られたにもかかわらず、まったくの平地に立地し、町割りも碁盤目状に分かりやすく造られています。一方で、北国街道沿いにある湖畔のこの地は、水運、陸運とも交通が至便で、湖北平野部のほぼ中心にあたる場所は、平時に湖北地方を治めるには最も適した場所だといえます。 また、武家屋敷町に比べて町屋町はとても広く、秀吉は当初から商業都市を目指して城下町を建設したのではないかと考えられます。 現在の町の賑わいの中心は、江戸期と同じく北国街道と大手通りです。 明治5年の大火によって、江戸時代の家並みの多くは失われ、現在残る建物は明治期以降のものですが、北国街道沿いには明治、大正期の商家が数多く残っています。
まちあるきの日は、ちょうど17回目のアート・イン・ナガハマ(長浜芸術版楽市楽座)フェスティバルの開催日で、黒壁ガラス館を中心とした黒壁スクエア一帯には、小雨がぱらつく天候にもかかわらず、多くの観光客が来訪していました。 特に大手通りの商店街には、地元の工芸家達が出店するミニショップが連なっていて大変な賑わいを見せ、開催日2日間で10万人の来訪者があったようです。
線路より西側の殿町周辺はかつての武家屋敷町ですが、江戸期には既に田畑にもどっていたため、武家屋敷の名残は何も残っていません。 城郭跡は豊公園として市民の憩いの場となっており、そこにある長浜城は、昭和58年に市民の寄付金などで再建されたもので、内部を歴史博物館として使用されています。 その先にある港町には、ヨットハーバーとホテルが整備されていて、かつての琵琶湖交通の港は、今や琵琶湖リゾートの拠点となっています。
長浜旧市街の北東端にある大通寺は、寛永16年(1639)に城跡に建てられた後、この地に移されたもので、本願寺長浜別院として、湖北388寺を管轄しています。 通りから見上げる山門の威容には、この町が大通寺の門前町であったことが実感できます。
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大通寺参道 通りのさきに大通寺の壮大な山門がみえ、江戸期に長浜が大通寺門前町であったことが実感できます。 |
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町中を流れる堀跡の水路 川を流れる水はとても綺麗で、護岸の石垣には家から下りる階段がみられます。 狭い川幅からみて、水運のための運河ではなく、生活用水路だったのでしょう。 |
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旧開知学校 校舎 明治4年、県下初の小学校「滋賀県第一小学校」が開校しました。明治7年には、市民の寄付によりこの学舎が建てられ「開知学校」と改名され、現在の長浜小学校の前身になります。 昭和12年に現在の場所に移築された後、老築化が進む一方でしたが、平成12年に研究研修施設としてリニューアルされました。 |
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長浜タワー 駅前通りを挟んで開知学校の向かいにある4階建ての鉄筋コンクリート建物。 「NAGAHAMA TOWER」の看板がかかり、屋上には電波塔のようなものがある。 あまりの悪趣味な歴史的遺物におもわずシャッターを切りました。 |
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情報リンク
長浜市ホームページ 黒壁スクエア ガラスの工房、ショップだけでなく製作講座、一日体験教室なども開催する 轄封ヌのホームページです。 長浜観光協会 ホームページ ふるさと長浜 子供を対象にしたHPですが、それだけにとても分かりやすく書かれています。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2004.10.3 参考資料 @「長浜町絵図の世界」市立長浜城歴史博物館 A「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい B「歴史の町なみ 近畿篇」保存修景計画研究会 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス「長浜」 A1/20,000地形図「長浜」明治26年測図 |