二本松   −複雑な地形に応答した町割りの城下町−

信長家臣の家筋である丹羽氏の城下町 二本松
戊辰戦争により城下町は一夜にして灰燼に帰した
複雑な山地形を巧みに活かした町割りはとてもめずらしく
およそ 城下町らしくない城下町だといえる



 

 


 

町の特徴


 福島県下では会津藩に次ぐ十万石の大藩でしたが、堂々とした会津若松城下町に比べて、二本松は、およそ城下町らしくない町だといえます。
 東西方向に走る高さ50mほどの観音丘陵をはさんで、城内と城下は南北に分断され、丘陵が外堀の役目を果たしているのでしょうが、町の広がりや連続性がなく、かつての城下町らしさが伝わってきません。
 一方で、丘陵地のヒダのような谷間に佇む寺院、城山をアイストップにした街道のビスタ、丘陵の切り通しを抜けて城郭内に通じる道など、二本松城下町は、複雑な山地形を巧みに利用した町割りが行われています。



左:城郭内から見た観音丘陵 その向こうが町屋(城郭外)  右:丘陵の谷間にあるお寺

 


 

100年前の☆


明治大正期の地図が手に入らなかったため今回はお休みです。

 


 

町の歴史


 南北朝期に畠山国氏が奥州管領として下向した際、田地ヶ岡(現二本松塩沢・霞ヶ城の北西2km)に城を築いて二本松城と称したのが、二本松の初見といわれます。

 以来200年間、この地を支配してきた畠山氏は、天正十四年(1586)、畠山義継の子国王丸の代に伊達政宗によって攻め滅ぼされます。正宗は国王丸を放逐し、伊達成実を城代に命じますが、このとき成実が城の修理をしたとの記録が残されています。

 天正十八年、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、蒲生氏郷が会津に入部して二本松を含む足立郡をも領し、城主に蒲生郷成が配されます。

 慶長三年(1598)には、上杉景勝が会津百二十万石で入部し、二本松城もその配下に置かれますが、同五年関ヶ原の戦いで西軍に組し、三十万石に減じられ米沢に転封となったことで、蒲生秀行が再び会津若松城主となり六十万石を領します。

 しかし、寛永四年(1627)、今度は加藤嘉明が四十万石で会津に入部すると、二本松には下野国鳥山(栃木県)から松下重綱が五万石で入部して、このとき二本松藩が成立します。
 翌五年には、加藤嘉明の次男明利が三春から二本松に三万石で移ることとなり、明利は二本松入部と同時に、父兄による若松城大改修工事にならって、城の改修を行いました。
 この改修後に描かれたのが、正保城絵図とよばれる「奥州二本松城之絵図」だといわれています。

 寛永二十年(1643)、丹羽光重が十万七百石で二本松藩主として入部し、以降、幕末までの220年間、丹羽氏10代の居城となります。
 光重は、それまで雑居状態にあった居住区分を整理するため、東西に走る観音丘陵を境として、丘陵北側に武家屋敷、丘陵南側に町屋や寺社を配置し、城郭の内外に完全に分離しました。

 また、大手箕輪門前を通り城郭内を東西に縦貫していた奥州街道を、観音丘陵南側の城郭外に付け替え、この付け替えた街道に面し、かつて久保丁門を呼ばれていた門を大手門としました。

 城は山城の本丸を中心に、藩主館のある二の丸、政所と会所のおかれた三の丸、そして屈曲する道で結ばれた郭内には、一族、重臣らの広い屋敷が割地されました。

 戊辰戦争では、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟に加わりますが、官軍によるわずか一日の攻撃で城は炎上し、城下町も焼き尽くされてしまいます。

 明治20年、かつての町屋地区の南側に東北本線二本松駅が開設され、ここを中心として城下町の南側一帯に新しい市街地は形成されていきます。

 近年になり、箕輪門の着到櫓や漆喰の壁が復元され、二本松城址の学術調査、石垣の改修復元も行われています。箕輪門の前には白虎隊の二本松版ともいえる「二本松少年隊」のブロンズ像が置かれ、会津若松に続けとばかりに旧城下町の復旧整備が進んでいます。

 


 

町の立地条件と構造


 二本松城下町は、福島県の中通り地域を北に流れる大河 阿武隈川の中流域に位置し、山城の霞ヶ城の辺りから東方向に延びる観音丘陵を中心として、東に向けて流れ阿武隈川に注ぐ、北の鯉川と南の六角川に挟まれた範囲に広がっています。
 JR東北本線は城下町の南端を通り、東北自動車道は西側を、国道4号線は南側を通っていて、二本松はまさに東北地方の幹線地域に位置することが分かります。



 高さ30〜50mの観音丘陵が外堀の役割を果たし、丘陵の尾根筋を渡る3ヶ所の切り通しの門と東の奥州街道から鯉川を渡って入る竹田門の4箇所が城内への出入口となっています。
 城下町としてはとても珍しい構造をしていると思います。
 南から東方向に抜ける奥州街道は、当初、丘陵の北側の郭内を通っていましたが、城下町建設時に、今の丘陵南麓に付け替えられたといいます。


城郭外(町屋)から見た観音丘陵


城郭内(武家屋敷)から見た観音丘陵 正面は池ノ入門のあった切り通し道路


 二本松の町には、城下町当時の石垣や堀、町屋が軒を並べる町並みはほとんど残っていませんが、この町の町歩きには結構面白いところがあります。
 かつての城郭と惣門、街道と寺社、町屋と武家屋敷などが、観音丘陵の複雑な山地形と応答するかのように、それぞれの施設が配置されています。




@ 奥州街道から山城へのビスタ

 奥州街道を通り、二本松城下町を訪れる旅人は、霞が城本丸のある城山を見ながら城下町に入ることになります。
 奥州街道は、二本松城下町近くでは、明らかに城山をアイストップとして街道配置されたといえます。


左:旧奥州街道  中:左の場所から反対方向を見ると城山へのビスタが確認できる
右:旧竹田門方面の旧奥州街道からみえる城山


A 城郭内への4つの城門

 二本松城郭に入るには、観音丘陵の切り通しを抜ける三本の通りと、お堀端からの竹田門の4ヶ所の城門がありました。
 奥州街道から城郭内への脇道には、桜谷の松阪門、久保町の大手門と久保町門、亀谷には池ノ入門がそれぞれ設けられていました。
 特に、大手門を通り抜けて切り通しまでの上り坂の両側には、武家屋敷が並び郭内への防衛拠点を形成していました。


左:久保町の大手門跡  中:久保坂の切り通し 横断橋はは観音丘陵を縦断する歩行者道  右:竹田門の跡


B 谷筋の奥にある寺社

 観音丘陵の麓には、ヒダのように小さな谷筋がいくつもあり、その谷筋の奥に一つづつ寺院や神社が置かれています。
 城郭防衛上の配慮から、城下町外延部におかれることが多く、山間部の城下町の場合には、谷筋の奥に置かれることもありますが、二本松のように徹底されている町はとても珍しく、城下町建設時に何らかの明確な意図があったのだと思いますが、それが何かは全くわかりません。


街道からの脇道は谷筋の奥にある寺院まで一直線に延びる


 城山の入り口には箕輪門があります。
 昭和57年に復元されたものですが、どっしりと風格があり旧二本松城の象徴のような存在となっています。
 平成7年には、城山の本丸跡に天守台などの石垣も復元されて、城跡一帯は霞が城公園として綺麗に整備がされています。


左:復元された箕輪門  中:復元された城山の石垣  右:霞が城公園内に残る搦め手門の石垣


 城郭内の武家や敷地には往時の雰囲気も痕跡も全く残っていません。あるところは完全に水田に戻ってしまっているほどで、石垣や土塀などは全く残されておらず、ましてや長屋門などはどこにも残されていません。

 しかし、旧奥州街道沿いには再生整備された土蔵がいくつか残されています。
 道路の拡幅工事により、町屋の主屋部分が撤去されたため、奥にあった土蔵が見えるようになったもので、これが道路沿いに以外な歴史的景観を創りだしています。


旧奥州街道沿いに残る土蔵

 


 

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二本松城本丸の天守台跡


 山城といっても標高が低いため、さほどドラマチックな風景ではありませんが、360度のパノラマ景観が楽しめます。
旧奥州街道沿いの蔵


この蔵は石造り。錆び色の軽石のような素材で外壁を覆っていますが、お隣の城下町の三春にも数多く見られるものです。屋根と窓扉はベンガラ色で、この地方独特の蔵なのかもしれません。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.8


参考資料

@「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」
A「図説 福島県の歴史」河出書房社

使用地図
@1/25,000地形図 国土地理院 地図閲覧サービス


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