尾 道   −坂と寺院と海運 「箱庭」のような商業都市−

千光寺山から見下ろす尾道の町は箱庭のよう小さい
それに比べ、西国寺や浄土寺の伽藍は不釣合いなほど立派だ
尾道三山に鎮座する25の寺院は
尾道だけでなく、瀬戸内全域の守り神なのだ




 

 


 

町の特徴

多くの文人が住んだ町 多くの映画の舞台となった町
そして、いまも多くの人々を惹きつけてやまない町

それが、 尾道です。

この町の特徴は次の3つではないでしょうか。

・ 山麓部に、西の京といわれたほど寺社が多く存在していること
・ そこでは寺社と民家が混在し、坂の路地は迷宮のようにドラマティックであること
・ そして、山麓部の寺院から見下ろす風景は、誰もが足を止めるほど美しいこと

 迷宮のような山麓部の町並みの歴史は意外と新しく、明治中ごろ以降、鉄道の敷設を契機に住宅や別荘が建ち並びました。
 それまで、千光寺山、西国寺山、浄土寺山の、いわゆる尾道三山は、古刹が伽藍を広げる神聖な地だったのです。

 海際まで迫出した山々、狭い平野部、向島を始めとする対岸の島々
 このような地形を持つ場所は瀬戸内海にはたくさんあります。
 にもかかわらず、尾道だけにこのような独特の景観ができたのには、地理的に、歴史的に、ちゃんと理由があるのです。


京都の寺にも匹敵する大きな伽藍の浄土寺  その山門は鉄道を挟んで市街地を見下ろす

千光寺からの尾道の町 尾道水道としまなみ街道がみえる   坂の路地が縦横に走る

 


 

100年前の尾道周辺

 現在の地形図(1/25,000)と100年前(明治30年頃)の地形図(1/50,000)を、同一縮尺に編集し交互に表示させます。

 100年前の地形図をみると、
 線路に囲まれた海側が旧市街地で、それ以外では、北に通じる長江街道沿いが少し市街化されているのが見えます。尾道駅は町の西端に設置され、そこから内陸部の栗原川沿いには水田が広がっています。尾道水道をはさみ向島側には、いくつかの大きな塩田が見えます。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史

 

 尾道の港は、せまい水道をはさんで対岸に向島があるため、潮の流れはいくぶん速いものの、天然の良港だといえます。それにくわえ、背後を山々に、前方を水道に挟まれ、左右は尾根筋が海際まではりだした、防御のしやすい要害の地でもあるのです。
 また、潮の干満に伴って起きる瀬戸内の潮流は、紀伊・豊後両水道を迂回して流入し、中央部の広島県福山市の鞆の沖合で合流します。「潮待ちの港」といわれる鞆の浦と同じく、尾道の港も潮待ちの船が多数停泊していたことは想像に難しくありません。
 中世における尾道の発展は、このように、豊後水道から見て潮流の東端に位置するという地勢と、外敵の侵入に不向きな要害の地形に負うところが大きいようです。

 

尾道発展の歴史は、次の5つの時期に区分することができます。

平安期 ・・・ 後白河法皇による倉敷地公認
建武期 ・・・ 足利尊氏の天下取りに協力
室町期 ・・・ 対明貿易と石見銀山の積み出し港
江戸期 ・・・ 北前船による豪商達の栄華
明治期 ・・・ 鉄道敷設と山麓部の市街地化

 

平安期  後白河法皇による倉敷地公認

 尾道が、商都として発展する契機とされる、初めての歴史的事実が平安末期にあります。
 嘉応元年(1169)、後白河法皇により、尾道の地が備後国大田荘の倉敷地(年貢米の保管・積出港)の指定を受け公認されたといわれます。

 大田荘は、現在の甲山町及び世羅町の大半を占め、山間部における米所として古くから開発されていました。荘園は、平清盛の五男重衡へ寄進され、重衡よりさらに後白河法皇へ寄進されています。平家滅亡後は、法王から高野山に寄進されました。
 13世紀頃には、尾道倉敷地(船津)に加え、他領の年貢輸送を請け負ったり、航行する船から「津料(通行税)」を徴収するなど、荘園の従属から離れ、港湾の独自性が発揮され始めていたようです。この頃の港は、現在の防地口周辺と考えられていて、この時期に生まれた中世の海運業者は、「梶取(かじとり)」とよばれ、彼らが、海の見渡せる山の手に、船の安全を祈願して寺を建立したと考えられています。

建武期  足利尊氏の天下取りに協力

 建武三年(1336)、京都を追われた足利尊氏は一旦西国へ下向しますが、浄土寺で戦勝挽回を祈願して、空教和尚に徳良郷の地頭職を寄進することで、尾道の梶取らを味方につけることに成功します。
 湊川の合戦に大勝し室町幕府を開いた尊氏は、尾道の恩顧に応え、浄土寺利生塔を建立し、灯明料として多くの荘園を寄進し、寺宝を治めて殺生禁断の浦として外護しました。
 貞治六年(1367)、二代将軍義詮は、父尊氏の遺志を受け継ぎ、尾道浦の豪族万代道円の求めに応じて天寧寺を建立し、幕府の海上進出の中間基地としました。

室町期  対明貿易と石見銀山の積み出し

 室町時代、山名氏は備後国の守護職を160年にわたって務め、尾道もその管轄下にありました。
 山名氏は尾道港を基地として、明国を相手に貿易を営んでいました。

 山名家による主要な対明貿易品は、中国山地の銅や日本刀でした。その頃、尾道には「其阿弥(ごあみ)」と証する刀匠の一類がいて、明国ではこの日本刀を「神品」として非常に珍重していました。その山名氏は、長年にわたり西国寺に莫大な寄進を続けたといいます。
 また、室町時代末期には、世界有数の銀山として知られていた石見銀山(島根県東部の山間部)の銀を運んだ石州街道(石見銀山街道)が尾道に通じ、ここから時の権力者の都に向け銀が船積みされたのです。

江戸期  北前船による豪商達の栄華

 川村瑞賢が東回り航路を開拓したのは寛文11年(1671)で、次いで西回り航路が開拓されました。今の山形県酒田から日本海沿いを西に回り、関門海峡から大坂、伊勢志摩、伊豆を通り江戸に入るルートで、各寄港地に役人が置かれ、要所に毎夜烽火を上げて船の目印としました。北前船は、西回り航路に乗って大阪と蝦夷地の間を走りました。

 「北前船」とは、大坂や瀬戸内の人々が北陸や東北地方の船籍の船を呼んだ呼称です。

 春から秋にかけて日本海を通って、北海道から下関をとおり大坂までの間を行き来しながら、その性格は、各地の特産品を船に積み込み、他の特産品を売りさばくことで商売を行う「海上の商社」買い積み船でした。
 瀬戸内の代表的な寄港地だった尾道では、高品質で知られる特産の備後畳表や瀬戸内の塩に加え、付近で生産された綿製品、お酢、船の錨などが積み込まれました。
 このように、尾道は時代の波に乗るように発展をつづけ、豪商の屋敷が軒を並べる瀬戸内の商都としての地位を築き、商人達は船の安全と商売の繁盛を祈願して、海を見下ろす山麓部に競うように寺院を建立、寄進したのです。

 明治期に入っても、商都尾道の豪商達はその実力を見せつけることになります

 尾道の豪商灰屋橋本吉兵衛が明治11年に第六十六国立銀行を設立します。これ以外に広島県内では、広島市の第百四十六銀行が設立されたのみで、この二行は後に合併し、現在の広島銀行となります。
 また、明治25年には、広島県の商工会議所とは別に、尾道商工会議所が独立して設立され、一県一会議所の原則のなか、特例をつくるほど尾道は実力を有していました。そして、明治28年には財閥住友家が、支店のあった尾道において重役会を開き、住友銀行の創立を決議し、住友家の銀行業への進出がここ尾道において決定されています。

明治期  鉄道敷設と山麓部の市街地化

 明治21年、神戸から下関までの鉄道建設が始まります。
 尾道市内の区間は明治24年に開通しますが、これにより、尾道三山の中腹にある寺院の参詣路が分断され、線路敷きにあった多数の家屋が立ち退きを余儀なくされました。

 鉄道の敷設は、まさに平野部(海の手)と山麓部(山の手)線引きすることとなり、立ち退いた家屋は山側に移転し、それまで古刹が伽藍を広げる神聖な地であった山麓部の中腹には、移転民家が立ち並ぶこととなりました。
 時代とともに寺院信仰が薄れていく中で、移転民家の建設が契機となり、豪商達が先を争うように山手に「茶園」と呼ばれる別荘建設を行うようになります。

 これが、「坂の町」尾道の始まりとなります。

 


 

町の立地条件と構造

 

 明治31年、鉄道(山陽本線)が開通した7年後の地形図です。
 千光寺山、西国寺山、浄土寺山の「尾道三山」と長江街道のアイストップとなっている向島の岩屋山をプロットしています。

 こんな狭い平野部に、なぜ瀬戸内の商都が築かれたのか不思議に思います。
 前述した地理的な要因と大田荘の積出港になったことが大きく影響しているのだと思います。



 町の軸線は、3つの山をアイストップにして構成されています。


 西国から京に上る西国街道は、尾道の東はずれで北に大きく進路を変えます。福山へは山道を行くことになりますが、これは尾道から東の海沿いが断崖になっているからと思われます。
 西国街道が大きく北方向に曲がる場所が防地口で、ここからは、浄土寺山がアイストップになっています。
 また、大田荘や石見銀山、出雲からの長江街道(石州街道、出雲街道)は、まっすぐ岩屋山を見ながら町に入ることになります。長江街道だけでなく、西国寺の参道も、八幡神社(山の手側)から八坂神社(海の手側)への見通しも、岩屋山をアイストップとしています。岩屋山は尾道市街からよく見え、岩肌が見える特長のある形をしています。
 もうひとつのアイストップは千光寺山です。町の西側では、南北方向の道はすべて千光寺山に向いていて、商店街を歩くと、路地の先には常に千光寺が見えます。


西国街道防地口の先の浄土寺山(左)  商店街(旧西国街道)の切れ間からみえる千光寺(右)


八幡神社(山手側)から八坂神社(海手側)への軸線(左)  西国寺の参道(右)  ともにその先に岩屋山がみえる



 かつて尾道には、81もの寺社が山麓部に伽藍を配していたといわれ、現在でも25の寺院と6つの社が山麓部を中心に残っています。
 それらをプロットしたのが下図です。赤丸が寺院、青丸が神社をあらわしていますが、見事なまでに鉄道の線路に沿って配されているのがわかります。これは、山麓部の同じ標高の場所に寺院が建築され、その鼻先をかすめとるよう鉄道が敷設されたことを表しています。


 鉄道敷設によって町は分断され、古くからの商人達の海辺の町と明治以降に都市化が進んだ迷宮のような山の手の町に明快に色分けされました。今、観光エリアとして人々の人気を得ている山の手のエリアは、明治期に鉄道敷設を契機としたスプロール(無秩序な都市化)地帯といって差し支えありません。
 緑豊かな寺院の境内に移転民家が立ち並び、あわせて豪商達が別荘建設を行い、時代が進むとともに尾道が往時の活力をなくしていく過程で、スポンサーを失った寺院は自らの境内を切り売りせざるをなくなったのでしょう。


迷宮のような坂の路地(左)  旧市街からの寺社への参道は鉄道により分断されている(右)

 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

千光寺山からみる「箱庭」の町 尾道

尾道を歩くときには、とりあえずロープウェーで千光寺山にのぼり、箱庭のような町を一望しましょう。
迷宮探訪

山頂から町を一望した後は、迷宮のような山麓部の坂の路地をさまよい歩きましょう。
みえているのは天寧寺の三重塔です。
けっして急がず、あわてず、
ゆっくりと歩きます。
一番好きな寺  西国寺

数多ある寺院の中で一番気に入ったのが西国寺です。特に、金堂から見た三重塔は絶品です。

やはり、塔は見上げたときが一番美しい。
尾道城???

JR尾道駅から見上げたとき目立つのがこの尾道城?
城下町でない尾道に天守閣があるはずもなく、これは町の有力者が昭和39年に建てた「世界城博物館」だという。現在は廃墟になっていました。

それにしても、目立ちすぎる・・・
それに、危ない・・・
豪商のお屋敷

防地口付近にある西国街道に面した灰屋橋本吉兵衛の屋敷。
街道沿いの長屋門には店子が入っているようですが、これだけ広大な屋敷を維持しているのは非常に珍しいことです。
上の写真は街道沿いの長屋門。下は屋敷の裏側の塀。

 


 

 情報リンク

 

尾道市ホームページ
観光マップや寺社の説明などが、一応ひととおり押さえてあえいます。


EngineRoomMurakami
「尾道探訪」のコーナーには尾道の文化、歴史などがきれいな写真をつかって紹介しています。


尾道デジカメ紀行
尾道の写真集のようなホームページです。写真以外で特筆すべきは、かなり詳しい歴史年表が掲載されていることです。


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.07.03


参考資料

@「松江城物語」島田 成矩
A「松江堀めぐり」中国新聞松江総局
B「絵図で見る城下町 松江」歴史地理学島根大会実行委員会
C「松江市史」


使用地図
@1/25,000地形図「尾道」平成12年修正
A1/50,000地形図「尾道」明治31年測図


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