佐 賀   −有明海の「水網」に浮かぶ低平な城下町−

維新の雄藩 鍋島藩三十五万七千石の城下町だった
低く平らな風景  毛細血管のように縦横無尽に走る水路
そして、数十メートルに達する軟弱な有明粘土層
まるで、町全体が有明海に浮かんでいるようだ



 

 


 

町の特徴


 佐賀の町を歩いたときの印象は、とにかく水路が多いことです。
 至るところで水路に出会い、至るところで橋を渡ることになります。
 どの水路も、水位は高いのですが、流れはまったくなく、水路というより細長い池といったほうが正確なように思えます



左:旧佐賀城の内堀  右:市内の水路

 


 

100年前の佐賀


明治大正期の地形図が手に入りませんでしたので、今回はお休みです。


 


 

町の歴史


 鍋島藩三十五万七千石の城下町だった佐賀は、鍋島氏が戦国大名である竜造寺氏の村中城を拡張、改修する形で佐賀城を築造し、同時に城下町の町割を行うことに始まります。

 戦国時代にこの地を支配した竜造寺氏は、もともと肥前の竜造寺村の地頭でしたが、隆信の代になると肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の五州と対馬、壱岐二島を支配する太守となるまでに勢力を拡大します。
 しかし、天正十二年(1584)、島原半島沖田畷で隆信は島津、有馬の連合軍と戦って敗死し、以後、肥前東部は鍋島氏の支配するところとなります。
 鍋島氏は、藤原秀郷(平将門追討により下野、武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍となった、当時の源氏、平氏と並ぶ武門の棟梁)の孫の秀清に始まり、もとは竜造寺氏の重臣でしたが、竜造寺隆信の死後、この地の竜造寺氏の居城だった村中、水ヶ江の両城を支配することとなり、天正十三年(1585)、鍋島清房のときに、村中城を大改修することとなります。

 城下町の構造を決定したのは、条里制の名残の土地割りとそれに合致した平野を縦横無尽に走るクリーク(水路)、竜造寺氏村中城がすでに存在していたこと、そして、長崎街道でした。

 江戸期、外国との門戸を長崎に限定していた幕府にとって、長崎の警護と江戸、京との往来の確保は重要政策課題の一つであり、鍋島藩はその一端を担うことを幕府から命じられてきました。
 幕末期においてこの重要性はさらに増すこととなり、佐賀藩が薩長土肥と称されるほど倒幕の主力となりえたのは、実は長崎に近いという立地条件が大きく関係しています。

 幕末期、長崎の警護にあたっていた佐賀藩は、文化五年(1808)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した際、財政難のために手薄な警護で防衛の任が果たせませんでした。
 この経験が後に、「世界の中の日本」という広い視野を佐賀藩にもたらし、人材育成と軍事力強化の必要性を痛切に感じさせたといわれています。
 これは、藩内に脈々と受け継がれてきた「葉隠武士道」が持っていた閉鎖性、独善性という一面を見直すことを促すとともに、藩校講道館の改革を進めることとなったといわれます。
 「葉隠」とは、江戸中期に佐賀藩主鍋島光茂側役の山本常朝が隠居した際、武士の心構えや生き方についての常朝の談話を藩士がまとめた武士道書のことです。

 また、当時の藩主鍋島直正は、「蘭癖大名」と称されるほど西洋の新しい学問を取り入れるのに熱心で、長崎を窓口にしてもたらされる西洋先進文明を積極的に導入し、反射炉の建設、大砲の鋳造などを次々と成功させ、全国諸藩に先んじ名を馳せました。

 築地反射炉は、 嘉永三年(1850)に日本で始めて建設された鉄の精錬所のことで、ここでは鋼鉄製の大砲の鋳造にも成功しています。
 その3年後のペリー来航の際には、幕府から大砲200門の製造依頼を受けるほど、当時の佐賀藩は高い技術を持っていたようです。
 また、佐野常民により精錬方が創設され、日本初の蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させ、火薬やアームストロング砲を研究しただけでなく、ガラス、製紙など殖産興業の研究所としても活躍しました。

 人材育成の面では、藩校講道館の改革が行なわれ、厳しい教育の徹底、西洋学問の導入、自由な議論遊学や海外留学も積極的に行なわれ、江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣などの維新の先導者を数多く輩出しました。

 廃藩置県後、幾多の変遷を経て、明治16年に旧佐賀城内に県庁が置かれ、明治22年には市制がしかれ、維新後も佐賀県の中心地としての地位を確かなものにしますが、町は明治7年の江藤新平らによる佐賀の乱の兵火により、町の大半を焼失したため、現在では江戸期からの町並みはほとんど残っていません。

 明治24年に九州鉄道が博多から佐賀まで開通し、旧城下町の北部に佐賀駅が開設され、それまで城下町の外側に位置していた唐人町が駅まで延伸し、その後の都市化も佐賀駅の周辺部とその北部へとの進展することになります。

 昭和51年の佐賀国体に向けて行われた都市整備により、佐賀駅が北に100mほど移転して高架となり、駅の北部には総合体育館、佐賀市文化会館などの建設が進み、新たな文教地区として整備が進んでいます。

 


 

町の立地条件と構造


 佐賀の市街地は佐賀平野のほぼ中央に位置し、高台、丘陵や坂道、港湾、河川といった地形的アクセントに乏しいのが特徴で、これがこの町の風景イメージに大きな影響を与えています。
 その中で、佐賀の地形特性を挙げるとすれば、北方にみえる低い背振山から平坦な佐賀平野そして有明干拓地へと広がる「低平な地形」とクリークや堀と呼ばれる「水路網」になります。


 佐賀平野の地盤は、筑後川や六角川などの河川からの堆積層と有明海の海退等による有機物の多い軟弱な有明粘土層(厚さ10〜30m)で構成されています。
 一方で、佐賀平野には地形的に水源に乏しく、河川は干潮作用が中流域まで達するので水源としては利用できないため、農業用、工業用などの水源として地下水が取水されてきました。
 このため、地下水位の低下が粘土層に圧密減少を引き起こし、佐賀平野全域にわたり地盤沈下が生じています。

 昭和35年、六角川の右岸の白石地区の脊振山麓線に沿って、幅330m長さ5kmにわたる亀裂を伴った凹溝状の沈下が確認されて以降、佐賀平野の各地において地盤沈下が問題視されてきました。
 農業用水の水源確保、水道事業の促進、揚水の規制などの施策が実施されたおかげで、佐賀周辺での地盤沈下は沈静化しているようですが、白石地区では、現在でも水道用水と農業用水を地下水に依存せざるを得ないため、年間2〜3cm程度の地盤沈下が止まっていません。
 また、調査の始まった昭和32年以降の累積最大沈下量は、1.2mに達しているといわれています。

 佐賀平野を車で走ると、ま平らで一直線に伸びる道路に、水路を渡る橋だけが盛り上がっているように見えます。橋脚部の基礎補強により沈下対策が施されているため、周辺が沈下しているのですが、橋だけが沈下しないため盛り上がっているように見えるのです



左:飛行機から見た佐賀平野干拓地  右:広大な農地にある水路



 クリークとも堀とも呼ばれる、佐賀平野全域を網羅している水路の多くは、普段は流れのほとんどない貯水堀で、灌漑と治水などの機能を併せ持っています。  明治期の地形図を見ると、佐賀平野を毛細血管のように水路が走っているのがよくわかります。
 これらの水路の中でも特に大きいものを「江湖」といいます。干潟の中でも特に低い場所にできる澪(みお)が、干拓により湖のように残ったもので、現在でも佐賀江、本庄江、八田江などがあります。
 干満の差が6mにも達する有明海にできた佐賀平野の水路では、潮の満ち引きによって船は上流へ下流へと無動力で航行できました。大正期までは、佐賀市内への船便はこの江湖を利用して石炭、米、石等を運んでいたようで、佐賀城下の南西にある本庄江の厘外津、南東にある佐賀江の今宿は、かつては有明海と船運で連絡し佐賀城下町の外港の役割を担っていました。

 このような低平な佐賀平野の中心に位置する佐賀の町もまた、毛細血管のように水路が走る「水網」の町だといえます。


佐賀城下町の東方向 佐賀江の付近にまさしく「網の目」のように走る水路



 佐賀城下町は、古来からの条里制土地割りの残る平野部の南端に位置し、西の方向に十数度ふった方位を基本としています。
 しかし、明治期の地形図をみると、東堀(現在では埋め立てられてない)や現存する西堀の方位はこれと微妙にずれていて、城郭と城下町が統一した基準線により計画されたものではないようです。

 江戸期において、北からの攻撃に対する防御のため、南北方向の幹線道路は造られませんでした。また、東西方向の幹線道路である長崎街道は、いわゆる「遠見遮断」のため幾度も屈曲しています。  これらに代表される前近代的な城下町の街路構成を解消することが、佐賀における近代都市化の大きな目標となりました。



 佐賀城郭内を蛇行しながら流れる川が多布施川で、城下町建設時に造られた人工河川です。
 嘉瀬川上流に設けられた石井樋から分岐し、城下町の上水道や下流域の農業用水として利用され、川沿いには川縁に下りる「棚路」が数多く設けられたようで、城郭内にはいまでもその名残がみられます。
 佐賀平野のすべての河川が有明海を目指し南方向に流れているのに、多布施川は蛇行しながら部分的に北に流れていて、この川が人工河川であることが分かります。



左:旧城郭内に残る棚路  中右:県庁周囲を流れる(?)多布施川



 江戸期には、城郭内と北堀の端に藩重臣の屋敷が配され、その周囲には松原小路、中の小路、八幡小路などの「小路」と呼ばれる町通りに中下級の武家屋敷が配されていました。
 佐賀の町は維新直後の佐賀の乱により焼失したため、江戸期の町並みはほとんど残っていませんが、城郭の北西部にあたる中の小路、八幡の小路には、いまでも往時の大きな敷地割を保った住宅が残っており、武家屋敷門もいくつか残されています。



左:八幡小路に残る長屋門  中右:中の小路には往時の大きな敷地割が残る



 城下町の北側を東西方向に屈曲して通る道が長崎街道で、これに沿う形で町屋地区が形成されています。
 長崎街道の通る町屋地区のうち白山2丁目と呉服本町は現在アーケード街になっています。佐賀駅から県庁などのある旧城郭までの唐人町通りが、大きく拡幅されて新たな都市軸となっている今、それと直交するアーケード街には少し違和感がありますが、他の城下町都市に残された寂れ果てたアーケード街に比べると十分に活気があります。

 町屋地区における各街区の背割り(敷地の裏)には必ず水路があります。
 町屋の表側には道路、裏側は水路に面するように配置されていて、水網の城下町の名残を見ることができますが、いずれも数メートルの幅があり、水路というよりも掘割りといったほうが正解かもしれません。
 町を歩くと何度も橋を渡ることになるのですが、どの水路も流れは緩く(というより流れが感じられない)水位は高いのですが、決してドブ川ではなく、むしろ清流といえるほど水は澄んでいます。



左:旧長崎街道沿いの大正期建築の福田家の木塀  中:同じく旧長崎街道沿いの旧家 明治大正期の建物だが佐賀市街地では最も古い  右:これら町屋の裏には水路がある



 旧佐賀城郭内には、佐賀県庁をはじめ、県立図書館、県立の博物館や美術館、県立佐賀西高校などが立地して、他の城下町と同じような県庁所在都市の風景が見られます。
 かつての佐賀城本丸の跡地には、佐賀の乱を生き抜いた建造物として鯱の門が残されていますが、最近、本丸の石垣も復元され、本丸内には藩主御殿が「佐賀城本丸歴史館」として復元建築されています。
 佐賀城郭は、東西、南北とも約700mにわたる広さをもっていますが、地形的に低平で立体感に乏しいため、視覚的にはより広く感じられます。
 また、残されている北西南の内堀はどこも50メートル前後の幅があり、堀端が石垣や崖地になっているわけでなく、水位が高く、直ぐ手の触れられる高さに水面があるためより、より広がりが感じられます。



左:鯱の門  中:佐賀城本丸歴史館  右:旧本丸南側の内堀



 佐賀の町歩きの中で、もう一つ目に付くものに楠の大木があります。
 樹齢100年をゆうに超えていそうな、幹回り数メートルもある楠の大木が町中に点在しています。
 有明海の海成沖積土壌が楠の生育に適しているのか・・・、佐賀人にとって楠を植えることに特別な意味を持つのか・・・、いずれにしても、楠の大木は、町歩きにおいてとても印象に残る要素となっています。



左:旧本丸前にある楠  中:県立病院の敷地内にある楠  右:松原神社にある樹齢600年を越える楠の大木

 


 

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佐賀城本丸歴史館


江戸期の藩主御殿が佐賀藩の歴史資料館として木造で復元されたものです。
長崎の歴史文化博物館(立山奉行所の復元)や福井の「養浩館」横の郷土歴史博物館などと並んでとても立派で、建築物としても博物館としても、一見の価値ある資料館です。
松原神社の門前町通り


 松原神社は現在では佐嘉神社(昭和8年造営)の境内にありますが、もとは鍋島家の始祖直茂を祀る神社として、安永元年(1772)に創建されたもので、「日峯さん」の通称で呼ばれています。
 本殿が南(佐賀城の方向)を向いている佐嘉神社と違い、松原神社は東方向を向いていて、その先にある参道がこの通りです。
松原神社北側の水路


とっても綺麗に整備されています。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.9


参考資料

@「佐賀県の歴史散歩」
A「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「佐賀」
A1/20,000地形図「佐賀東部」明治33年測図


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