篠 山   − 大きな城郭をもつ 小さな城下町 −

小さな篠山の町に比べ、城郭跡はあまりにも大きい
見上げたときの石垣は高く、かなりの威圧感を感じる
今も往時のまま残る堀は、川か湖と見まちがうほど広い
篠山の町はこの巨大な歴史遺産の上に成り立っている
そして、400年前の築城当時から町の構造はなにも変っていない



 

 


 

町の特徴

 篠山の町は篠山城をぬきにして語ることでできません。

 関が原の合戦の直後、篠山盆地の小高い丘陵地に城郭が築かれ、石垣、堀、街道筋から寺社、武家屋敷、町屋にいたる、すべての町の構成要素が、本丸を中心とした正方形の枠に沿って配置されました。

 そして、大きなな城郭に比べて城下町は小さく、明治以降もさほど市街地が拡大しなかった篠山の町では、現在でも城郭は巨大にみえます。

 400年前に造られた町の構造は、現在でもなんら変わっていないようです。


篠山城築城当時の想像図
西から東方向(京都方面)をみる。
(篠山城大書院内の展示絵を撮影)

篠山城本丸から東方向(京都方面)をみる

内堀の外、三の丸南方面から本丸石垣をみる

 


 

100年前の篠山

 篠山に関しては、明治、大正期の地形図が手に入らなかったので、正保絵図(江戸初期)と現在の地形図を見比べてください。

 正保絵図は、本丸を大きく、外側にいくほど小さく描かれ、特に城下町はかなりデフォルメされているため少し見難いのですが、現在の町の骨格は江戸初期にはほぼ完全に出来上がっていたと考えていいでしょう。
 正方形の内堀と外堀はほぼ完全に残されています。その外側には城下町が等距離に広がっていますが、現在の地形図をみると、武家屋敷があった南側、西側は疎らになっていて、町屋のあった北側、東側は密になっています。
 旧城下町の地区から外側は今でも田畑が残っていて、町の範囲は江戸初期からほとんど拡大していないことがわかります。

 

 


 

町の歴史

 

篠山城の築城以前

 京の都に近く、山に囲まれた丹波国には、京都東寺の荘園などいくつかの荘園があり、室町幕府の管領細川氏が丹波守護として治めていました。応仁の乱の後の細川氏の内紛に乗じて、荘園を管理していた波多野氏が急速に勢力を伸ばし、やがて篠山を含む多紀郡全域を勢力化におきました。
 天然の要塞ともいえる山々に囲まれた丹波は、彼らを直接支配する土豪たちの勢力が大きかったため、戦国期に一大勢力をもつ戦国大名は生まれませんでした。氷上郡には荻野氏が黒井城を拠点として、多紀郡には波多野氏が八上城を中心として、それぞれ勢力を競う群雄割拠の状態だったのです。
 篠山の南西にある八上山に築かれた八上城を拠点とした波多野氏は、当時京に入っていた織田信長に組しなかったため、配下の明智光秀に攻め滅ぼされます。新たに丹波国を治めることになった光秀は、亀岡に城を築き丹波支配の拠点としました。

 江戸期まで、亀岡は山陰道と篠山街道が分岐する交通の要所であり、丹波国の国分寺や一宮である出雲大神宮もこの地に鎮座していて、中世には、地方豪族の本拠地となるなど、亀山は丹波国の政治の中心でした。
 京都と篠山を結ぶ篠山街道は、京の丹波口を起点に、桂、大野原、そして山城と丹波の国境、老ノ坂峠を越えて、亀岡から篠山へと通じていました。篠山から西へは、古市、社を通り播磨国の姫路へと通じ、播州街道とも呼ばれていました。


「天下普請」による築城

 関が原の戦いから8年後の慶長13年、徳川家康は、譜代大名、松平康重を常陸の国の笠間城から丹波国の八上城に移封し、篠山盆地のほぼ中央の笹山丘陵が、東の黒岡川、南の篠山川にはさまれた要害の地であるとして、この地に直ちに築城を命じたのです。

 大阪城には、いまだ秀吉の遺児、秀頼を要する豊臣一派が勢力を保っており、西国には毛利氏などの戦国大名や加藤氏、福島氏など秀吉恩寵の諸大名がひしめいていました。家康は、笹山に譜代大名をおくことで、大阪城と西国大名の分断を図り、さらに、外様大名に夫役を負担させることで経済力を削ごうと目論んだのです。

 縄張り奉行には築城の名手の伊勢国の津城主藤堂高虎、普請奉行には播磨国姫路城主の池田輝政を任じ、助役を福島正則、加藤嘉明ら西国の15ヶ国21家の諸大名に命じました。

 「天下人」家康自らが諸大名を動員して総力をあげて行う「天下普請」でした。

 築城工事は翌年の慶長14年の3月から始まりましたが、笹山の固い岩盤に阻まれ、工事は難航しました。豊臣方との決戦まで日がないことにあせる家康は、高虎に早期完成を強く催促し、昼夜を分かたぬ突貫工事が行われたいいます。総勢8万人が動員され、半年後の9月には、主要工事である石垣普請が終了しました。
 天守閣や隅櫓は必要ないとの家康の意向に従い、あくまで実践的な築城を最優先させたため、城は2重の堀で囲み、三の丸には北東南の三方に馬出しが造られ、手厚い防御策を講じましたが、一方で、本丸に天守台は造られたものの、最後まで天守閣は築かれませんでした。

 このように築城された篠山城は、現在でも本丸の西辺りの石垣に岩盤が露出していて、極めて堅固な地質であることを物語っており、この場所が独立した岩盤の丘陵地であることも示しています。篠山の盆地には、城の周囲に、東に王地山、北に春日山、西に飛の山、南に丸山などの独立した丘陵地が点在しており、さらに篠山川と黒岡川が自然の防御の要となった場所なのです。

 初代城主の松平康重はこの城から大坂の陣に出陣し、その戦功により元和5年(1619)に岸和田城に転封された後、藤井松平家が二代、形原松平家が五代続き、続いて青山家が亀岡から移封され、青山家六代の城主が明治まで篠山の地を治めました。

 

維新以降の城郭解体

  維新以降、版籍奉還、廃藩置県と続く王政一新の思想の下で、封建時代のものはすべては排除しようという考えが支配しました。明治6年、城郭取り払い令が出されるや、篠山城もその対象となり取り壊しが命じられました。二の丸の建物や、三の丸の土塁も取り除かれ、堀の石垣も取り払われ、大手門をはじめ、門という門はすべて取り除かれたのです。
 明治以降、外堀内にあった建物のうち唯一破壊を免れていた大書院は、明治期には小学校や女学校として利用され、大正12年から多岐郡の公会堂となっていたが、昭和19年1月に灰燼に帰してしまいました。平成12年に地元のご尽力により復元され、今では篠山の観光名所となっています。

 現在篠山には鉄道は通っていませんが、明治以降、何度か鉄道敷設が行われ廃線となってきました。明治32年、阪鶴鉄道(現福知山線)が敷設されるとき、現在の篠山口駅から町中心部まで大きく東に迂回させることが計画されましたが、篠山の住民側が鉄道の乗り入れを拒んだため、現在のように町から西に5kmほど離れた場所を通ることになりました。
 大正4年(1914)、篠山軽便鉄道が現篠山口から篠山城北側まで敷設されましたが、昭和19年に国鉄篠山線が篠山川の南側を通り山陰線亀岡駅まで開通したことで、廃線となりました。そして、その国鉄篠山線も赤字路線のため昭和47年には廃線となっています。

 


 

町の立地条件と構造

 篠山川が東から西に流れる篠山盆地には小高い丘陵地が点在しています。城郭はそのうちのひとつ「笹山」に築かれました。平地は篠山川に向かって緩やかに傾斜していますので、南側から見た石垣はとても高くなっており、篠山川と黒岡川が天然の大外堀として機能するため、町の防御は北、西、東の順に厚くなりました。
 播磨の国から京に通じる篠山街道は、城下町の建設に伴って、町の北側を大きく迂回するよう付け替えられたようですが、川を渡らせることにかなり無理があったのではないかと考えてしまいます。

 

 町は本丸の天守台を中心とした正方形を基準に造られています。

 町の北側を大きく迂回する篠山街道は、天守台から等距離にある正方形の北東、北西の角で屈曲し、それぞれ2寺院が配置されています。また、京口にあたる東の川原町にも3寺院が配置されており、これら7つのうち、経福寺は常陸国から、残り6つの寺院はもともと八上城下にあったものを、築城時に移転配置したもので、有事の際には防衛の役割を担わせるとともに、武家、町人の信仰の拠り所としました。また、誓願寺と尊宝寺は西から京に進むときのアイストップとして、景観形成上も重要な機能を有しています。

 内堀と外堀が東西南北の軸線からわずかに左方向に傾いているのは、街道からの一直線の見通しを避けるために、意図的に少し角度をふったのかも知れません。

 幕末期の地図をみると、黒岡川は現在のように篠山川にすぐに合流せず、町の西側までしばらく並行して流れており、町の南側はかなり広範囲な湿地帯だったようです。

 北方の春日山にある春日神社と東方の王地山にある稲荷神社は、築城時にここに配置されたものです。
 春日神社はもともと城のある笹山にあり、築城にあたり北方の現在の地に移されました。春日神社は、貞観年間(870年頃)に奈良の春日大社を勘定したとされる古社であり、慶長15年9月に盛大な遷宮式を行い、以降歴代の城主はここを祈願所としました。
 稲荷神社は元和5年(1619)に八上城下から遷座したもので、「まけきらい稲荷」とよばれる勝利守護の神として必勝祈願の人々の参詣でにぎわいます。

 篠山の旧市街の中で、特に歴史的景観が残る地区としては、次の4つがあります。
@ 篠山城跡
A 旧街道沿いの町屋
B 河原町(妻入町屋のまちなみ)
C 御徒町(武家屋敷)

 篠山旧市街の新たな道路整備は、これらの歴史的景観を潰さないように配置されています。
 昭和30年頃に行われた篠山川の改修工事により、川沿いの幹線道路(バイパス)が開通し、旧市街の中の通過交通がなくなりました。現在は、旧市街の北側にもう一本の幹線道路を整備中で、南北2本の幹線道路つなぎ、旧街道を横断するように、中心部へのアクセス道路を整備しています。
 このように、安易に旧街道を拡幅して歴史的まちなみを壊すことのないようにしています。

 

@ 篠山城跡

 既に述べたとおり、明治期当初に城郭は破壊されたのですが、いまでは歴史遺産が観光資源として見直され、少しずつ元の姿に戻す努力がされています。
 平成12年に行われた大書院の復元は一大事業でしたし、それ以外でも、堀の石垣の整備や外堀内の公園化が進んでいます。
 また、外堀の外三方に設けられていた馬出しですが、北側の大手門のものは、大正12年にすべて埋め立てられましたが、東の馬出しは、明治26年に多岐郡役所となった後、最近まで建物がありましたが、現在では建物は撤去され公園化しています。南の馬出しは、一時民家などが立っていましたが、昭和の時代に公有地化して、今では土塁と堀が復元されています。 


復元された大書院(左) 石垣に露出する岩盤(中) 本丸に残る岩盤をくり貫いた井戸(右)

復元された東の馬出し(左) 大書院内の模型による馬出し(右)

 

A 旧街道沿いの町屋

 市街地の中心部に近いぶん、河原町に比べて建物のリニューアルは顕著で、土産物屋などが軒を並べる商店街となっています。ただ、所々に古い建物が残っていて、歴史的な雰囲気がします。


土産物屋が軒を並べる(左) 旧街道のアイストップとなる誓願寺(中)と 尊宝寺(右)

 

B 河原町

 河原町の東端は京口とよばれ、京から続く街道の篠山への入り口でした。
 河原町が栄えたのは、江戸時代中期から明治時代に掛けてで、特に明治期に入ってからは多紀郡の商業の中心地だったようです。この頃は京都の経済圏に属していて、京飛脚が仕入れなどのために毎日車を引いて京都との間を往復し賑わったといいます。

 河原町の特徴は、街道沿いの商家の配置が、一般的な「平入り」ではなく、「妻入り」であることです。

 妻入り町屋は河原町だけのものではなく、この地域一帯の特徴なのですが、それが集積して残っているのが珍しいため、河原町のそれは特に有名になりました。

 なぜ、妻入りが多くなったのかは諸説あり明確にはわかりませんが、町屋の平均的な敷地形状が、間口3間(約5m)、奥行20間(約35m)以上であり、一般的な町屋に比べてかなり細長くなっています。こんな敷地に建つ建物に効率的に屋根をかけるとしたら、やはり妻入りになるのでしょう。


河原町の町並み


間口の狭さに比べ奥行きがとても長い敷地(左) 京口橋から河原町をみる(右)

 

C 御徒町(武家屋敷)

 もともと武家屋敷は城郭外堀の周囲に大きく広がっていましたが、ここだけに古い屋敷がいくつか残されています。
 「残された」というより、町の発展から取り残されたため、「残ってしまった」というべきなのでしょう。ほとんどの建物は建て替わっているのですが、大きな敷地が分割されて建売住宅やアパートなどになっていません。そのため、今もいくつか残る江戸期の茅葺住居などと合わせて、江戸期の下級武家屋敷の雰囲気が残っています。

 この町は、篠山城が完成し、城下の町割が行われたときにできたようで、南北の通りの両側に平均8間の間口を割り当てて、徒士(城主を警護する下級武士)を住まわせたのです。
 天保元年(1830)に火災があって、町の大部分が焼失したと伝えられていて、この火災からの復興に際して、屋敷を約6尺後退させたといわれています。現在、道の西側の住宅には、道路と築地塀の間に犬走り状の空地があり、これがその時に後退したものといわれています。


 


 

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御徒町の町並み


 萩、松江、金沢といった観光地の武家屋敷に比べると「ママゴト」みたいなものですが、一度なくなってしまったものを再建しているのですから、かなり頑張っているほうだとおもいます。

 その辺の門から「たそがれ清兵衛」が出てきそう・・・
 本丸南側の外堀


江戸期にはこの周囲にも武家屋敷がありましたが、いまでは自然のままの川のようになっています。
誓願寺


 誓願寺は天正年間(1540頃)八上城下に創建された寺で、篠山城の築城により慶長15年(1610)現在の地へ移築されました。
 写真の楼門は、移転後に数々の修理はされていますが、本堂とともに室町後期の建築様式をよく残しています。篠山に現存する寺院の中で一番見ごたえがあります。

 


 

★ 情報リンク

 

篠山市ホームページ
市役所のホームページとしては、コンテンツの充実度、ページの見易さ、内容のやわらかさ、はピカイチ。ぜひとも訪れてみましょう。


丹波焼
日本六古窯のひとつに数えられる丹波焼を紹介するサイトです


kみむサンのホームページ
kみむサンの訪れた日本のお城の数は半端ではない。篠山城も紹介されています。


城めぐ・COM
こちらに掲載しているお城の数も圧巻。同様に1ページをつかい篠山城を紹介しています。


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.05.02


参考資料

@「丹波篠山/その歴史文化空間の蘇生」篠山市教育委員会
A「伝統が息づき現代感覚の匂う町」兵庫県
B「篠山」嵐 瑞澂
C「ささやま風土記」篠山地方観光協会
D「篠山城」篠山町教育委員会


使用地図
@1/25,000地形図「篠山」平成9年修正


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