佐世保 −岩山と埋立でできた軍港の町−
明治20年 佐世保に軍港が建設された |
町の特徴
佐世保は軍港建設とともに生まれ、成長してきた町です。 |
左:戦時中の防空壕を利用したトンネル横丁 中右:アーケード街からみえる崖地 |
100年前の佐世保 明治34年、大正13年、平成4年の地形図を順番に表示させます。
明治34年は、鎮守府が開設されてから約10年、鉄道が開通した直後にあたります。 市街地の中心は現在に比べて北側にあり、現在のJR佐世保駅周辺にはなにもありません。 佐世保港の埠頭はまだみられませんが、海軍鎮守府、海兵団、海軍病院などがみられ、特に造船所(現在の第5ドック)が既に完成していたことが確認できます。 この時以降、終戦まで佐世保の地図から海軍施設は抹消されているので、この地図は海軍施設が表示された最初で最後の地図となりました。 大正13年の地形図では、海軍の施設はすべて空白で表現されています。 この時期の軍事施設は国家機密としてあらゆる地図から削除されていたのですが、その輪郭から、佐世保港は現在の形になっていたことがわかりますし、また埠頭は元々あった島や岬の位置を考慮して建設されたこともわかります。 また、市街地は、南方向(佐世保駅方向)と東方向(山の手方向)に大きく拡大していることが見てとれます。 昭和60年の地形図では、白地になっていた旧海軍施設が表示され、東側が米軍施設、西側が佐世保重工(の造船所)と表示されています。 市街地は、佐世保駅の東側山の手方向及び港の北側山の手方向に大きく拡大しています。 |
町の歴史 長崎市に次ぐ県下第2の都市、佐世保市も、江戸期には、平戸藩に属する戸数800余りの鄙びた村にすぎませんでした。 この寒村に、突然軍艦が現れて村民を驚かせたのは明治16年のこと。第三海軍区鎮守府設置の調査のためでした。 明治20年の初めに着工し、突貫作業で、埋立て、港湾建設、道路整備に兵舎等の建設作業が行われ、22年7月には佐世保鎮守府が開庁しています。 日清、日露の戦争では連合艦隊の集結地となり、鎮守府司令官には、後に連合艦隊司令長官となった東郷平八郎や首相となった米内光政ら、帝国海軍の重鎮が歴任しました。 明治31年には鉄道(現JR佐世保線)が開通して福岡、佐賀方面とつながり、明治35年には早くも人口4.5万人を数え、町制をひくことなく村から一挙に市に昇格しました。 太平洋戦争中には、軍港や造船所ひしめく海軍の街としてますます栄え、最大時で人口30万人を数える大都市になりました。(現在の佐世保市人口は24万人) 昭和20年6月28日、B29の大編隊が佐世保に焼夷弾の雨を降らせます。死者1200人と焼失12000戸に上った佐世保大空襲は、原爆を除くと長崎県で最大の空襲で、まさしく佐世保の街を灰燼に帰しました。 終戦直後、佐世保は海外引揚船の基地となります。 終戦に伴う海外からの引揚者は600万人以上に上っていますが、針尾島の浦頭(うらがしら)にも、中国大陸や南方諸島からの引揚者約140万人が上陸しました。現在この場所は、記念平和公園として整備されています。 そして、佐世保はいまも軍港の街です。 佐世保湾内にある造船所は元海軍工廠跡で、現在では佐世保重工となり、その東には在日アメリカ海軍の基地があります。 海軍鎮守府跡に続く橋は海軍橋とよばれ、昭和43年原子力空母エンタープライズの日本初入港の際に、ここで展開された警官隊と全学連との激しい攻防は全国の注目を浴びました。 アーケード商店街を歩くと多くのアメリカ人や若い水兵を見ることができます。佐世保は日本でのハンバーガー発祥の地として知られ、チェーン店でない小さな店が町中にあふれ、オリジナルの佐世保バーガーの味を競っています。そして、夕刻になるとアーケード街にはジャズが流れ一気にアメリカナイズされます。 佐世保市域には、もともと西海国立公園の九十九島(くじゅうくしま)を始め、弓張岳、烏帽子岳(えぼしだけ)など景勝地が多く、これに西海橋や、最近ではハウステンボスが加わるなど、観光都市としての色彩を強めています。 |
町の立地条件と構造 佐世保の地形を理解するのには、明治34年の地形図をみるとわかりやすい。 黒灰色で表示された市街地と白地の海軍施設が、佐世保川を挟んでほぼ同じ広さで広がり、佐世保の平地はこのどちらかで埋め尽くされています。 それ以外は山地で、大正期以降の人口激増に伴う市街地の拡大は山地へと向かいます。佐世保駅を降りたったときに目の前に見える、山の斜面に張り付くように広がる白南風町はその代表格といえます。 市街地は佐世保川に沿って整形に区画されていますが、海軍施設は海に向かい、市街地は海軍施設に向いているように見えます。 海軍鎮守府設置以前からの佐世保村(現在の元町)、設置と同時に建設された初期の市街地、そして米軍基地と佐世保重工を現在の地形図に着色してみました。 狭い佐世保側沿いの谷筋に市街地が埋め尽くしたため、佐世保駅から北に延びる松浦鉄道は、その市街地を避けるように蛇行して岩山を貫いて敷設するしかなかったようです。 佐世保駅が昔からの佐世保の町の中心から大きく南に外れていることが分かります。 また、松浦鉄道の「佐世保中央」という駅が商店街との交点付近にあります。はじめての人には見つけられないほど奥まった場所にあり、利用者もほとんどいないようで、一体どこが中央駅なのかさっぱり分かりませんが、位置的には確かに中央にあるのです。 明治19年に海軍鎮守府設置のために作成された測量図が残されています。 それによると、鎮守府設置以前の佐世保は、佐世保浦(現在の元町)のみが唯一の集落であり、そこが江戸期平戸藩時代からの佐世保村でした。また、元町の南、現在のニミッツパークの辺りには塩田が広がり、そこが佐世保川の河口だったようです。 鎮守府設置以前、米海施設と佐世保重工のある場所は海で、小島や半島、岬が点在していたようです。現在でも、そこには立神、金毘羅、小島などの字名みられます。
現在の町の中心は「四ヶ町アーケード」「三ヶ町プラザ」と呼ばれる商店街です。 この2つの商店街は連続していて、佐世保駅の北側から佐世保橋(旧海軍橋)の通りまで、約1kmにわたり一直線に延びています。 sasebo_struct02 ここには名前の通り合計7つの町があり、佐世保駅側から下京町、上京町、本島町、島瀬町、栄町、常磐町、松浦町と続きます。 ちょうど商店街の中心部にあたるジャスコや親和銀行のあるあたりが本島町、島瀬町で、その裏から佐世保川までの共済病院のある崖地が島地町といいます。
いずれも、旧字名を引き継いだ町名で「島」の字がつくものが多いのが分かります。鎮守府が開設されるまで、このあたり一帯は湿地と田で、岩山の島地町(小字名「島の地」)は、まさしく島だったようです。松浦鉄道はこの「島」をくりぬいて通っているのです。 一直線に伸びる「四ヶ町アーケード」を歩くと不思議な光景に出会います。海際のはずなのに商店街の真横に20mを超える崖があったり、商店街の天井を電車(松浦鉄道)が横断します。 直線距離の長さだけでなく、他にも見所一杯のおもしろい商店街なのです。
商店街の次には白南風町を彷徨ってみるのがお勧めです。 佐世保駅を下りて目の前に見える斜面の町がそれです。 大正13年の地形図にはすでに建物がちらほらとみえますが、現在ほど建て詰まったのは昭和期に入ってからのようです。ほとんどの道は人が通れるだけの幅しかなく、一体どうやって家を建てたのかとても不思議に思います。 尾道のように寺院と別荘はありませんが、彷徨い歩くには十分な広さと時々ドラマチックな光景にも出会えます。
白南風町を下りたら戸尾市場とトンネル横丁の商店街を歩きます。 トンネル横丁は、戦時中に岩山に掘られた防空壕を利用した市場で、半間ほどの間口で奥に深いお店がずらりと並んでいます。横丁のある岩山のうえは学校のグランドになっていて、他では見られない珍しい光景です。 戸尾市場には、五島灘でとれた海の幸が並ぶ鮮魚店をはじめとして、水産加工品、青果、肉類、お茶、お菓子、日用雑貨、衣料などなどの店が軒を並べ、飛び交う声といろんな匂いが雑多になった、町のエネルギーの塊のような市場です。
米軍基地と佐世保重工の周辺は余りにも広大で歩けませんでした。 佐世保の平野の西半分は、広い道路と緑がいっぱいで、東半分の一般市街地とは余りにも違います。 やはり、佐世保の軍港のための町なのです。
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トンネル横丁 なにわともあれ、とりあえず行ってみましょう。 前の国道にかかる横断歩道に上ってみるとこの風景を見ることができます。 |
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三浦町教会 佐世保駅前の左正面の丘上に天高くそびえるカトリック教会。 鎮守府開設後の人口の激増により佐世保市に移住してきた信徒が増えてきたことから、明治中頃に仮聖堂が建てられ、昭和6年に現在のゴシック式聖堂が建てられました。 戦時中の大空襲でも不思議とこの教会は戦火を免れています。 |
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親和銀行本店コンピューター棟 設計者 白井晟一は独自の作風から異端の建築家といわれていますが、その代表作が1975年竣工の親和銀行本店コンピューター棟です。 白井カーブと呼ばれる緩やかな弧を描くを石張りの塊は、建築物というより石碑のようで、長崎県諫早産の砂岩を使っています。 アーケード沿いにある銀行本店の建物も名建築ですが、そのファサードはアーケードが隠しているため見えません。 |
情報リンク
佐世保市ホームページ SIGHT 佐世保 観光協会の佐世保情報サイト 佐世保の歴史を調べよう 小学生用の佐世保歴史サイト |
歴史コラム
海軍鎮守府とは
鎮守府とは、古代、朝廷が蝦夷地(陸奥・出羽地方)を支配するために配した役所のことで、そこの長官を「鎮守府将軍」といいました。 明治19年(1886)、 海軍条例の制定により、日本の沿岸、海面を5海軍区に分け、各海軍区に鎮守府と軍港が設置されることになり、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、室蘭の5都市が指定されました。 その後に室蘭は取止めとなり、旅順口(満州)鎮守府が新設・廃止され、ワシントン軍縮条約により舞鶴が一時廃止となりますが、横須賀、呉、佐世保は日本の3大軍港として終戦まで重要な役割を果たします。 それぞれの鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦船の統率・補給・出動準備から兵員の徴募・訓練までを管轄し、鎮守府司令長官(大・中将)は軍政に関しては海軍省の、作戦計画に関しては軍令部(海軍の参謀本部)の指示を受けました。 赤煉瓦の鎮守府跡以外にも佐世保にはその名残を見せる工作物が残されています。 佐世保の南約8kmにある針尾島に建ち並ぶ高さ135mもの巨大な3本のコンクリート製の無線通信塔です。 これは大正12年に建てられた旧海軍が外洋艦隊に無線送信するためのもので、昭和16年12月、真珠湾攻撃の命令暗号「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」はこの無線塔から連合艦隊に発信されました。 現在も、そのひとつは海上自衛隊と海上保安部で共同使用されています。
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まちあるき データ
まちあるき日 2005年11月 参考資料 @「地図で見る佐世保」平岡昭利 使用地図 @1/25,000地形図 「佐世保北部」「佐世保南部」 昭和60年修正 A1/25,000地形図 「佐世保北部」「佐世保南部」 大正13年測図 B1/20,000地形図 佐世保」「相浦」 明治34年測図
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