高 梁   −なんとなく懐かしい山間の城下町−

備中の山間部にたたずむ かつての城下町 高梁
江戸期の町屋が軒を並べるわけでも
大きな長屋門が数多く残っているわけでもない
しかし、高梁には かつての城下町の面影が色濃く残っている
この町は なんとなく懐かしさを感じる町なのです



 

 


 

町の特徴

 高梁の町には、江戸期に建築された町屋が軒を並べているわけではありませんし、立派な長屋門が町中にいくつも残されているわけでもありません。
 にもかかわらず、高梁にはかつての城下町の面影が色濃く残っています。
 それは多分、町中がとても静かで落ち着いていることと、旧武家屋敷町に数多く残る石垣が、その雰囲気を醸し出しているのだと思います。



旧武家敷地区の町並み  土塀は復元されたものだが、石垣は往時のものだと思う

 


 

100年前の高梁



 明治大正期の地形図が手に入りませんでしたので、江戸初期の正保の城下町絵図と現在の地形図を見比べてみます。
 城下町絵図に描かれている城下町の範囲を赤線で囲い、現在の地形図には鉄道を分かりやすく書き入れています。

 駅前の中心地が江戸期には田畑であり、鉄道は城下町の東端をとおり寺町を分断するかのように敷設されたことがわかります。


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町の歴史


 高梁は、明治維新以前までは備中国松山とよばれていましたが、四国の松山との混同を避けるため、維新後、新政府により高梁に変更させられました。

 承久の変の功労で、相模国三浦氏一族の秋庭三郎重信が、有漢(うかん)郷(今の高梁地方)の地頭として入国し、仁治元年(1240)に大松山に築城したのが、松山城(高梁城)の起こりといわれています。
 鎌倉末期の元弘元年(1331)、幕府の執権北条守時の家人、高橋九郎左衛門宗康が備中守護職として入国したことで、本格的な城下町づくりが始まったとされます。
 鎌倉政府滅亡以降、室町期、戦国期を通して、高梁の戦略上の位置付けは高く、備中国支配の拠点として実力者の争奪の的になり、高、秋庭、上野、庄、三村氏らが、興っては滅び、滅びては興り、城下町も同じように興亡を繰り返しました。

 その中で、備中の国人では最大の領土を得た三村元親が、元亀元年(1570)に松山入城を果した時が、城下町が最も繁栄した時期でした。しかし、これも4年後には毛利輝元の大軍の前にあえなく落城し、城下もすっかり荒廃してしまったようです。

 現在の町割りは、関ケ原の戦いの後、小堀政次が備中代官として、嗣子の正一(桂離宮の設計者で名高い小堀遠州)と共に赴任し、陣屋町としたのに始まります。

 元和三年(1617)、池田長幸が、六万五千石をもって因幡国鳥取から入封します。代官に過ぎなかった小堀家とは違い、家臣の数も3000人以上とけた違いに多く、人口急増による屋敷割りの再編成が行われました。この時点で城下町の基礎ができたといえます。
 それは、南北に長い高梁の盆地に対して、盆地北端にある臥牛山上の山城を本丸として、南に向けて城主館、武家屋敷町、町屋町を輪切りに並べたもので、東側の山間部から高梁川に流れ込む支流の川によりそれらは区分されました。

 今の城下町が完成したのは水谷(みずのや)氏の治世です。池田長幸の子長常には世継がなかったため除封され、その後をうけて水谷勝隆が入国したのは寛永19年(1642)でした。
 水谷氏の家臣団は土木技術に秀でていたらしく、松山入国後の、県北の領内に多くあった鉄山の開発を増進し、その輸送を大幅に増やすため、高梁川の改修工事や高瀬舟の建造、城下の護岸工事を兼ねた船着場の増設、松山藩の外港であった玉島港の建設と付近を干拓して大新田を造成するなど、産業振興に目覚しい発展を見ました。
 その子勝宗の時代に、南町と東町を城下に取り入れて、現在の新市街地部分をのぞく旧松山城下6ヶ町が完成しています。

 この水谷氏も、三代目の勝美に世継がなく、池田家と同様に除封されます。元禄七年、幕府の命により、城を受け取りに来た浅野匠頭長規は、在城する水谷家家臣の頑強な抵抗を覚悟して、3700人余りの軍勢に大砲2門を引いて入城します。長規は即日帰国しましたが、その名代の大石内蔵助は3万5千石の処遇で、翌年8月まで滞在しました。

 その後も領主はめまぐるしく変わり、安藤氏二代、石川氏一代と続き、延享元年(1744)板倉氏が五万石で入封し、以後、廃藩置県までこの地を領しました。

 備中松山藩の経済的繁栄を支えたのは、高梁川を往来する高瀬舟の海運でした。
水谷氏時代に「継船制」を確立し、高梁川上流と下流との通り抜けを禁止、上り下りする荷物の一切を城下の問屋に陸揚げさせ、そこに運上金を課して藩の財源としたのでした。

 動乱の幕末期に藩主板倉伊賀守勝静(かつきよ)は江戸幕府の老中首座となります。
 慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦の後、勝静は将軍徳川慶喜の供をして大坂より江戸に逃れ、さらに桑名藩主松平定敬(さだあき・会津藩主松平容保の弟)らとともに東北へ向けて江戸をも脱出しました。

 藩主を失った松山藩では重臣達が協議の上、明治新政府から松山藩討伐の沙汰を受けた岡山藩池田氏の軍勢に恭順の意を示し、全藩士が城下から退き、城下町は明治新政府に没収されました。
 高梁川流域で中止的役割を担っていた高梁の海運問屋は、松山藩の後ろ盾を失ったため没落し、これとともに城下町の繁栄も終わりを告げたのです。
 さらに、流通手段が海運から鉄道へと移り変わり、昭和3年に岡山・倉敷と松江・米子をつなぐ伯備線が全線開通すると、高梁の旧城下町は単なる通過点に過ぎなくなりました。
 ほかの城下町と同様に、旧武家屋敷町には学校や官公庁が立地し、町屋町は住宅地に移行しました。旧城下町から離れた盆地の南側に高梁駅が設置され、その駅前に新たに成立した栄町に中心が移ると、旧城下町には往時の雰囲気を色濃く残したまま、緩やかな時が流れていったのです。

 


 

町の立地条件と構造


 備中高梁は、岡山県の中西部を流れる高梁川の中流域に位置し、周囲を5〜600m級の山々に囲まれた盆地にあります。
 市街地を歩くと、東西南北の各方向に印象的な山が目に付きます。
 北にある臥牛山(標高420m・松山城天守)、西にある稲荷山(標高418m)、南の高倉山(標高383m)などがそうです。
 これらの山々が、町の軸線のアイストップになり、町の方向性をより明確にしてくれます。


 また、高梁の町の構造を決定付けている最大のものは、何といっても高梁川です。
 高梁川は、鳥取県と岡山県との境界にある新見付近を源流として、高梁盆地、倉敷平野をとおり、水島臨海工業地域で瀬戸内海に流れ出ています。
 高梁盆地を北から南に流れる高梁川に対して、東からは小高下川、紺屋川、下谷川が、西からは車谷川が、それぞれ扇状地を形成しながら流れ込んできます。古来より高梁川は、この狭い盆地内を東へ西へと流路を替えてきたようですが、16世紀頃には今のように盆地の西側の流路に安定したといわれています。

 盆地の北にある臥牛山上に松山城天守があり、城下町は盆地の北半分に建設されました。高梁川が天然の外堀となり、それに流れ込む小高下川、紺屋町川、下谷川が補助的な内堀、外堀として機能し、この地形が細長い盆地を羊羹切りしたような城下町の構造を造りだしました。


 天守の真下が御根小屋と呼ばれる城主の居館兼政務役所で、上級家臣の屋敷町とともに二の丸を形成し、内堀として位置づけられる小高下川と、南から来た本町通りとが交差する場所が大手口となっていました。
 今その場所は三角形の広場的な道路屈曲部になっています。


左:高梁川 沿道に国道180号線が通り、境界には白壁がつづく 遠景に臥牛山がみえる
中:小高下川  右:大手門のあった場所



 この旧大手口から南側の川沿いが町屋町で、山沿いが武家屋敷町となっていました。
 いま高梁の町は、城下町の町並みを徐々に復元しています。

 旧町屋地区では、本町通りを中心に、住宅や店舗が改修されて平入り2階の町並みが再現されつつあります。
 旧武家屋敷町では、石火矢町の通りを中心に、黒瓦に白壁の土塀と表門や長屋門の町並みが再現されつつあります。


火石矢町の町並み  左:長屋門の保存されている現資料館 160石馬回り役を務めた旧折井家
中右:一般住宅も沿道には土塀を設置している




左:紺屋川 ここも旧城下の雰囲気が残る  中:川沿いにある旧商家
右:商家資料館の旧池上家 江戸後期に醤油製造で財をなした




住宅、店舗も通り沿いは町屋風  コンクリートや鉄骨などは使わず、あくまで木造、瓦での復元をめざす



 また、山沿いの一段高い麓には、城下町の安寧を見守るように、また、戦時には強固な砦となるように、多くの寺社が並んでいます。城郭と見間違うほど立派な石垣が、城下町における寺社の位置づけを現代に伝えています。


左:巨福寺 鉄道が城下との間を分断している   松蓮寺(中)と頼久寺(右)の城郭を思わせる石垣



 このように町ぐるみの歴史修復のおかげで、旧城下町の町並みが徐々に復元されていますが、もともと高梁の町には城下町の匂いが色濃く残っていたのではないかと思います。

 それは、高梁の町の構造が城下町の雰囲気を残るようになっていたことだと思います。

@ 一番の原因は、かつての本丸や武家屋敷などの町の中心が盆地の北端にあり、鉄道駅が設置された盆地南側に新市街地が形成されたことです。
 城下町の中心部にいくほど新市街地から離れるため、市街化の影響を受けにくく、往時の雰囲気が残る結果となります。萩(山口県)や近江八幡(滋賀県)などと同じケースです。

A 国道(180号線)を鉄道(伯備線)が、ともに旧城下町を避けるように東西端に敷設されたため、旧城下町内はとても静かなことです。
 しかし、国道は本町通りと高梁川を分断し、かつて海運で栄えた船着場が消滅してしまい、また、鉄道は山裾に敷設されたため、高台にあった本丸や寺社と城下とを分断しまいました。
 できれば、両方とも高梁川の西側に敷設してほしかった・・・

B そして、盆地の北端の臥牛山頂に天守があり、その麓に尾根小屋と呼ばれた城主館(現高梁高校)、そして武家屋敷があり、川沿いの最も低い場所に町屋がある。その高さ関係が山間の城下町らしさをつくっています。
 尾根小屋に向かって道は上り坂になり見晴らしがよくなります。
 旧武家屋敷町では敷地の高低差があるため、石垣があちこちに残って(または再建されて)います。
 そしてなにより、その背後に控える城山の存在感が山間の小藩城下町のイメージにぴったりくるのです。ただし、城はみえません・・・



左:旧上級武家屋敷(現内山下)に残る石垣  中:尾根小屋の石垣(現高梁高校) 右:旧城下町の北端




新市街地  左:駅前通り  中:JR高梁駅  右:栄町の商店街



 


 

まちなみ ブックマーク

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備中松山(高梁城)


 備中松山城は、全国に現存する12の天守閣のうち唯一の山城です。
 明治六年の廃城令により、松山城も他の全国の城とともに取り壊しを命じられます。明治政府は城郭一式を競売にかけ、城下に住むある人が天守閣など主要施設の取り壊しを条件に落札します。
 しかし、標高420mにある天守閣は解体もままならず、荒れるがままに約60年間放置され、昭和15年になってようやく天守閣の解体修理が行われ、全国唯一の山城が甦ったということです。


高梁市郷土資料館


 明治37年建築の旧高梁尋常高等小学校を利用した民俗資料館です。

 2階建ての資料館の中は、商家の家具、農機具、蓄音機、教科書などから御輿、機織、はては高瀬舟まで、まさしく所狭しと並べられています。

 「資料館」というより「倉庫」

 「がらくた」にも見えるし「お宝」にも見える・・・



 道路標識も全国唯一の現存山城をもつ城下町らしいです・・・

 


 

 情報リンク

 

高梁市ホームページ



備中高梁観光案内所



高梁川流域ものがたり



備中松山城に関する個人HP


 


 

まちあるき データ

まちあるき    2004年3月


参考資料

@「日本の城下町 中国」
A「日本の古地図5 城下町」
B「図説 日本の歴史33 岡山県の歴史」

使用地図
@1/25,000地形図「高梁」「豪溪」昭和41年測量 平成6年修正


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