津和野 −山間にたたずむ美しい城下町−
青野山の懐に抱かれて静かにたたずむ城下町 |
町の特徴
「山陰の小京都」津和野は、中国山地の山間に静かな佇まいを見せているとても小さな城下町です。 |
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100年前の津和野 明治大正期の地形図が手に入りませんでしたので今回はお休みします。 |
町の歴史
津和野という地名は、「つわぶきの生い茂る野」からきたといわれています。 |
町の立地条件と構造 津和野は、石見国(島根県西部)の西端の山間部に位置し、津和野川の流れる細長い盆地にひっそりとたたずんでいます。 津和野川は、津和野盆地を南から北に蛇行して流れ、日原町で高津川と合流し益田で日本海に注ぎます。 日本海側の益田から、津和野川沿いを上ってきた山陰道は、ここから津和野川とわかれ野坂峠を越え、今度は瀬戸内に注ぐ阿武川沿いを山口に向かうことになります。 町の南側で南東方向から流れ込んでくる2本の川により、津和野川は盆地の西側に押されて流れることになりますが、北側では、逆に大きく東方向に蛇行しています。城下町建設時に付け替えられたのかもしれません。 津和野の町から見て、津和野城跡のある城山以上に目立つのが青野山です。標高907mのこの山は、お鉢を伏せた形をしたとてもシンボリックな山で、町中の道路のいくつかは、青野山をアイストップにしているものがあります。 城址には近くまでリフトで簡単に登ることができます。 山頂に残る壮大な石垣の上に立つと、眼前にそびえる青野山と小さな津和野の町が一望できます。
江戸初期に制作された正保絵図をもとに現在の地形図に、武家屋敷地区、町屋地区、街道、堀などを書き入れて見ました。 旧城下町は津和野川を外堀として南北に細長く造られています。 一部、川の東側に広がる武家屋敷地区には、津和野川から水を引いた外堀が整備されていたらしく、今では埋め立てられて、旧山陰道が拡幅されています。現地にある不釣合いなほど広い道路はその名残だと思います。 津和野城下町にはゾーニング的に変わったところがあります。 まず、武家屋敷地区と町屋地区を貫通して街道が通っていることです。 通常、城下町は中心部から外縁にむかい、城郭−武家屋敷−町屋の順に配置され、町屋地区の街道筋が通っているものですが、津和野はこれに当てはまりません。狭い盆地の城下町ならではの配置だと思います。 また、武家屋敷町の配置としては、北が上級武士、南が下級武士の屋敷町で、堀割りのある殿町は家老屋敷があり、上級武家屋敷町が町屋地区と隣接していることも珍しいことです。 森鴎外や西周の屋敷は、正保絵図の頃には田畑だったようですが、逆にその南側にあった下級武家屋敷の地区は今では田畑に戻っています。江戸期に町を南北に通っていた道路が、かろうじて残っているに過ぎません。
津和野観光のメインは何といっても殿町の景観でしょう。 菖蒲が咲き、清水の流れる掘割には鯉が泳ぎ、白漆喰と海鼠壁の土塀と立派な屋敷門の形成する景観は、誰でもが美しいと感じるはずです。
城下町にしては広い道路と掘割の水は、防火のためだといわれていますが、流れる水はどこから流れてくるのでしょか。 当初、私は西の山の谷筋からの小川と思っていたのですが、実は津和野川から引いていました。 津和野川の川床は町の地盤よりかなり低いので、当然上流から引いてくることになります。現在は、旧藩主邸(現津和野高校グランド)横でポンプで川から汲み上げているようですが、往時はもっと上流から引いてきたのだと思います。
殿町の北側に広がるのが町屋地区で、旧街道沿いにはかつての商家が軒を並べています。 特に造り酒屋が目に付きます。どの家も軒先にそれぞれ杉玉を上げていて、それぞれの地酒を醸造、販売していました。 今も残る商家は、どれも切り妻平入りの中二階建又は二階建で、石州瓦(桟瓦)の赤瓦葺、二階は白漆喰の袖壁があり、虫籠窓か格子窓が一般的のようです。 町屋地区で、旧街道に直行する道路から東をみると、ほぼ必ず青野山が見え、この山を機軸に道路が配置されたように思います。
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殿町 養老館跡 なんといっても この景観が、最も津和野らしく、最も美しい。 ここを訪れる観光客は、みんな決まって清流を泳ぐ鯉と菖蒲を写していました。 |
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目を引く木造3階建て 「骨董古布」の暖簾のかかる土産屋のようですが、変わった構造をしています。 二階の小屋組はどう架かっているのだろうか? |
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情報リンク
津和野町ホームページ 津和野町観光協会ホームページ |
まちあるき データ
まちあるき日 2005.6 参考資料 @「日本の城下町 中国」ぎょうせい 使用地図 @1/25,000地形図「津和野」平成13年修正測図
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