津和野   −山間にたたずむ美しい城下町−

青野山の懐に抱かれて静かにたたずむ城下町
菖蒲と鯉のいる堀 白壁と赤瓦の町並み 山上にみえる城跡
津和野は 城下町のもっていた「優美さ」を今も残す町です



 

 


 

町の特徴


 「山陰の小京都」津和野は、中国山地の山間に静かな佇まいを見せているとても小さな城下町です。

 津和野を観光地として有名にしたのは、鷺舞と森鴎外、そして堀割のある殿町の景観です。

 白漆喰となまこ壁の土塀と屋敷門がならび、菖蒲が咲き鯉が泳ぐ堀割がある殿町の景観は、やや出来すぎの感もありますが、万人の心を惹きつける町並みであることは確かです。

 しかし、津和野には、殿町だけでなく町全体にかつての城下町の雰囲気が残っています。石垣や堀があるわけではないのですが、それはかつての津和野城下町がもっていた、上品さや優美さの名残かもしれません。



 


 

100年前の津和野


明治大正期の地形図が手に入りませんでしたので今回はお休みします。

 


 

町の歴史


 津和野という地名は、「つわぶきの生い茂る野」からきたといわれています。
 津和野城が蕗城(ふきじょう)と呼ばれるのと同様に、山間の町にふさわしい名前です。

 津和野城は、海抜370mの山頂にあり、現在では石垣が残っているだけですが、町中からでもよく見えるため、それだけで城下町の雰囲気が漂います。

 津和野城の築城は、二度目の蒙古来襲(弘安の役)の後に、能登国から西石見の沿岸防備のために入部した吉見頼行により、永仁三年(1295)に始められたと伝えられ、以後吉見氏14代が、320年間の長きに渡り居城としました。

 室町期、山口に本拠を置く大内氏の台頭により、吉見氏はその傘下に入りますが、その後、毛利家が中国地方全域に勢力を伸ばすとそれに従います。

 初期の城下町は吉見氏によって築かれたといわれますが、今日の津和野の礎を築いたのは、関ケ原の戦いの後、吉見氏に代わり津和野城主となった坂崎出羽守直盛でした。
 坂崎氏は、宇喜多氏の一族であり、城主だった16年の短期間に、津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いたのでした。

 坂崎氏が「千姫事件」で失脚すると、元和(1617)年に因幡国鹿野城主だった亀井政矩が、4万3千石の藩主として入部します。
 以後、歴代藩主は産業開発と教育の振興に力を注ぎ、一時は実録15万石といわれるほど華栄しました。

 産業の中心は和紙生産でした。製紙原料の楮の増産を図り、製紙技術をひろく領内に普及し、この和紙を藩の専売制として莫大な収入を得ました。

 また、藩校「養老館」の創設など、歴代藩主の人材育成重視の施策が、幕末から明治、大正期にかけて活躍した日本を代表する人物たち、国学者福羽美静、近代日本の哲学者西周、文豪森鴎外などの輩出につながります。

 維新後の廃藩置県によって津和野は浜田県(のちに島根県)に属し、明治12年には現在の町役場(殿町)に鹿足郡役場が設置されます。  大正11年に山口線が開通し、津和野は瀬戸内側と日本海側の両方につながり、昭和22年には津和野町と近隣3村が合併し、現在の津和野町が誕生します。

 


 

町の立地条件と構造


 津和野は、石見国(島根県西部)の西端の山間部に位置し、津和野川の流れる細長い盆地にひっそりとたたずんでいます。
 津和野川は、津和野盆地を南から北に蛇行して流れ、日原町で高津川と合流し益田で日本海に注ぎます。
 日本海側の益田から、津和野川沿いを上ってきた山陰道は、ここから津和野川とわかれ野坂峠を越え、今度は瀬戸内に注ぐ阿武川沿いを山口に向かうことになります。


 町の南側で南東方向から流れ込んでくる2本の川により、津和野川は盆地の西側に押されて流れることになりますが、北側では、逆に大きく東方向に蛇行しています。城下町建設時に付け替えられたのかもしれません。

 津和野の町から見て、津和野城跡のある城山以上に目立つのが青野山です。標高907mのこの山は、お鉢を伏せた形をしたとてもシンボリックな山で、町中の道路のいくつかは、青野山をアイストップにしているものがあります。

 城址には近くまでリフトで簡単に登ることができます。
 山頂に残る壮大な石垣の上に立つと、眼前にそびえる青野山と小さな津和野の町が一望できます。


津和野城址から青野山、津和野の町を望む


 江戸初期に制作された正保絵図をもとに現在の地形図に、武家屋敷地区、町屋地区、街道、堀などを書き入れて見ました。

 旧城下町は津和野川を外堀として南北に細長く造られています。
 一部、川の東側に広がる武家屋敷地区には、津和野川から水を引いた外堀が整備されていたらしく、今では埋め立てられて、旧山陰道が拡幅されています。現地にある不釣合いなほど広い道路はその名残だと思います。


 津和野城下町にはゾーニング的に変わったところがあります。

 まず、武家屋敷地区と町屋地区を貫通して街道が通っていることです。
 通常、城下町は中心部から外縁にむかい、城郭−武家屋敷−町屋の順に配置され、町屋地区の街道筋が通っているものですが、津和野はこれに当てはまりません。狭い盆地の城下町ならではの配置だと思います。
 また、武家屋敷町の配置としては、北が上級武士、南が下級武士の屋敷町で、堀割りのある殿町は家老屋敷があり、上級武家屋敷町が町屋地区と隣接していることも珍しいことです。

 森鴎外や西周の屋敷は、正保絵図の頃には田畑だったようですが、逆にその南側にあった下級武家屋敷の地区は今では田畑に戻っています。江戸期に町を南北に通っていた道路が、かろうじて残っているに過ぎません。


左:下級武士の屋敷町だった場所は田畑になっている  右:正保絵図に描かれている江戸初期からある道路


 津和野観光のメインは何といっても殿町の景観でしょう。

 菖蒲が咲き、清水の流れる掘割には鯉が泳ぎ、白漆喰と海鼠壁の土塀と立派な屋敷門の形成する景観は、誰でもが美しいと感じるはずです。


殿町の町並み
左:旧家老多胡家の屋敷門  中:土塀沿いに流れる堀割  右:屋敷門の奥にある町役場(旧鹿足郡役場)


 城下町にしては広い道路と掘割の水は、防火のためだといわれていますが、流れる水はどこから流れてくるのでしょか。

 当初、私は西の山の谷筋からの小川と思っていたのですが、実は津和野川から引いていました。
 津和野川の川床は町の地盤よりかなり低いので、当然上流から引いてくることになります。現在は、旧藩主邸(現津和野高校グランド)横でポンプで川から汲み上げているようですが、往時はもっと上流から引いてきたのだと思います。


左:殿町の堀の鯉と菖蒲  中:津和野川  右:堀の水を汲み上げている場所(旧藩主邸前)にある石垣


 殿町の北側に広がるのが町屋地区で、旧街道沿いにはかつての商家が軒を並べています。

 特に造り酒屋が目に付きます。どの家も軒先にそれぞれ杉玉を上げていて、それぞれの地酒を醸造、販売していました。

 今も残る商家は、どれも切り妻平入りの中二階建又は二階建で、石州瓦(桟瓦)の赤瓦葺、二階は白漆喰の袖壁があり、虫籠窓か格子窓が一般的のようです。

 町屋地区で、旧街道に直行する道路から東をみると、ほぼ必ず青野山が見え、この山を機軸に道路が配置されたように思います。


旧街道沿いに残る商家 植木卸や造り酒屋が軒を並べる


旧街道から外れた場所にある古い宿屋  道路向こうに見える山は青野山


 


 

まちなみ ブックマーク


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殿町 養老館跡


 なんといっても この景観が、最も津和野らしく、最も美しい。
 ここを訪れる観光客は、みんな決まって清流を泳ぐ鯉と菖蒲を写していました。

目を引く木造3階建て


「骨董古布」の暖簾のかかる土産屋のようですが、変わった構造をしています。
 二階の小屋組はどう架かっているのだろうか?

 


 

 情報リンク

 

津和野町ホームページ



津和野町観光協会ホームページ



 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.6


参考資料

@「日本の城下町 中国」ぎょうせい

使用地図
@1/25,000地形図「津和野」平成13年修正測図


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