臼 杵   −岩でつくられた魔崖の城下町−

臼杵は岩の町だ
苔むした暗褐色の凝灰岩が町を覆っている
城郭は断崖に囲まれ 石垣の屋敷町が丘陵に広がる
この岩が 地形をつくり 町をつくり 魔崖仏までつくりだした



 

 


 

町の特徴


 臼杵は、戦国大名の大友氏が築いた城下を基盤として、江戸期に稲葉氏五万石の城下町として栄えました。
 県庁となった大分市が、工業都市として大きく発展し、それゆえ空襲でことごとく歴史遺産が破壊されたの比べて、発展の遅れた臼杵の町は、今でも当時の城下町の骨格をとてもよく残しています。

 その城下町の骨格には特徴があります。
 切り立った崖上にある臼杵城本丸(現臼杵公園)、山の斜面に広がる武家屋敷町とその内側にある町屋町と寺町。一般的な城下町とは違う構造になったのは、臼杵の地形と歴史が関係しています。

 また、町の印象を決めているものに、町の丘陵地にみられる暗褐色の凝灰岩があります。
 臼杵城本丸跡の断崖や旧武家屋敷町の二王座には、凝灰岩の露頭と石垣が多く見られます。臼杵の地形は、この凝灰岩がつくりだしたといえます。


 


 

100年前の臼杵

明治大正期の地形図が手に入らなかったので、今回はお休みです。

 


 

町の歴史



 臼杵に数多く見られる磨崖の石仏たちは、大部分が藤原期(平安後期)の傑作として、全国にその名を知られています。
 臼杵の地は、古来から東九州の地方文化の中心地として栄えてきたようです。

 この石仏文化を育てた臼杵氏は、平安時代に臼杵荘を開発し一帯に勢力をもっていたようで、やがて京の摂関家・九条家に寄進されて、その保護を受けることになります。
 しかし鎌倉後期には、執権北条氏の支配するところとなったようです。
 南北朝期に入ると、豊後国守護の大友氏がしだいに領国支配を固めるのに伴い、臼杵荘は大友氏の直轄地に取り込まれ、以来、大友氏がこれを領有していきました。
 戦国時代の英傑でキリシタン大名として有名な大友宗麟は、臼杵を府内(現大分市)と並ぶ政治上、軍事上の拠点として、永禄6年(1563)に臼杵城を築城して自らここに移り、キリスト教の保護など進取の政策を積極的に進めたのです。

 以降、天正14年(1586)の島津軍の侵入によって、町のほとんどが焼き払われるまでの間、臼杵城下町は明やポルトガル等との貿易港であると同時に、キリスト教布教の中心として、大きな賑わいを見せるようになります。
 「フロイス日本史」には、城下町に教会やノビシャド(修道士養成学校)が築かれ、豊後国のローマとよばれるほど華やかな都市であったことが記されています。

 島津軍の侵入の翌年、宗麟は津久見で逝去するのと時を同じくして、豊臣秀吉は一転してキリスト教弾圧を開始します。
 また、宗麟の子義統は、文禄2年(1593)秀吉により豊後の国を除封され、キリスト教とともに発展した戦国城下町としての臼杵は、ひとつの時代を終えたのでした。

 慶長元年(1596)、臼杵は太田一義の所領となりますが、関ヶ原の戦いを経て、慶長5年(1600)、美濃より稲葉貞通が5万石でこの地に入り、以降、15代久通まで270年にわたり、稲葉氏が臼杵藩を治めることになります。
 稲葉氏の入封を期に、臼杵は、後背の大野川中流右岸までを含む臼杵藩の政治的、経済的中心として、再び発展することとなります。

 臼杵城下町は太田氏と稲葉氏によって拡大されました。
 祇園州を城内に取り込んで「三の丸」とし、ここから徐々に北東方向に埋め立てを行い、「洲崎」とよばれる埋立地が形成されますが、城下町の大部分は、中世以来の構造をそのまま受け継いだようです。

 明治4年の廃藩置県にともない、この市域は、一時臼杵県となりますが、同年11月には大分県に統合されます。その後、大分県の中心機能が県庁所在地の大分市に集中していくにつれて、臼杵市の物流拠点としての役割は低下していきます。
 大正4年に鉄道が(現日豊本線)が完成した結果、県南の物資は臼杵を素通りして大分市に集まり、さらに豊肥本線の開通はそれに拍車を掛けることになりました。

 


 

町の立地条件と構造



 臼杵城下町は、大友宗麟が丹生島に臼杵城(現臼杵公園)を建設したことから始まります。

 臼杵の地は、阿蘇の火山灰による凝灰岩(ぎょうかいがん)で形成された急峻な山地形と臼杵川が運ぶ土砂が堆積した低地で形成されています。

 宗麟は、断崖の要塞丹生島に城を築き、対面する原山の斜面に家臣団を住まわせ、その間の低地に街道、船着場、町人街を整備して南蛮貿易の拠点としたのです。
 続く稲葉氏は、町人街(町八町)の北側の低湿地帯を埋めて武家屋敷を拡充し、臼杵支配の基盤を整えました。


 江戸期の臼杵城本丸は、断崖に囲まれた孤島であって、この西端にある大手口で陸地とつながっていました。
 JR臼杵駅から北側にひろがる現在の中心市街地は浅瀬の海面(または低湿地帯)で、鉄道敷設にあたっては、旧市街地である二王座、平清水の南を大きく迂回して、大分方面に向かうことになったようです。

 また、寺町が城下町の外縁部になく、町屋(町八町)と武家屋敷(仁王座)の間に位置している理由には定説はないようです。
 大友氏時代の教会など切支丹関連の施設の跡地に、稲葉氏が寺社を再建したため町人がいに隣接して建設されたとか、城下町の内外の区別がなく、原山の尾根筋に漫然と広がる二王座の精神的な押さえとして、この場所に寺町が建設されたとか、さまざまな説があるようです。

 町の中心は、高札場であり、街道の結節点でもあった、大手前の辻(広場)です。
 津久見道、府中(大分)道、野津道の臼杵を通る主要街道はここを基点としています。二王座の北麓(いまの切通し)を通っていたのを、大友宗麟が城下町建設に伴い辻広場を通るように付け替えたといわれています。


 町屋地区は唐人町、畳屋町、掛町など8つの町で構成されていたため町八町とよばれていた。

 町八町のメイン街路は、辻広場を中心に放射状に伸びていて、城下町の道路構成としてはとても珍しいものです。この辻は高札場でもあり、城主の視線がここを中心に広がるといえ、町人町は常に本丸の視線にさらされたのです。
 大友時代、ここを訪れた南蛮人が、この街路計画に影響を与えたのかも知れません。

 海岸に面する掛町、唐人町は、南蛮船が荷揚げする船着場だったようで、特に唐人町には、宗麟の時代に到来した明人が、江戸期にも多数居住していたといわれていますが、いま街中をあるいてもその面影はまったくありません。


左:現在の辻広場  中:辻広場から放射状に一直線に伸びる道路
右:断崖上にある臼杵城跡 復元された大手門と畳櫓がみえる


 二王座は、原山北麓に広がるかつての武家屋敷町で、隣接する寺町とともに坂の多い景観の変化にとんだ地区を形成しています。

 ここには、往時の町並みがよく残されています。
 臼杵石とよばれる凝灰岩の石垣や白壁などの土塀に囲まれた屋敷が多く、長屋門もいくつか残され、これらが狭い坂道と見事に調和していて、まるで時が止まったかのような錯覚に陥ります。

 阿蘇の火山灰による凝灰岩は、軟らかく加工が容易なため石垣などに使われています。また、時がたつと暗褐色になるため、石垣が多用された二王座は、重々しく暗い印象を与えます。


二王座の町並み  玄武岩の石垣と坂の小路が特徴的です


左:こんな長屋門がごく自然にある  中・右:切り通しの道にならぶ寺町の寺社


 二王座の麓に位置する本町八町大通りは、城下町時代の町並みを再現しようと、アーケードが取り除かれ町屋のファサードが再生されていて、二王座に広がる武家屋敷町と寺町の町並みと合わせて、歴史を感じさせる景観を形成しつつあります。


左:本町八町大通り  中:二王座に建設された臼杵市ふれあい情報センター  右:旧後藤家の長屋門

 二王座が中下級の武家屋敷町なのに対して、上級武士の屋敷は埋立地である祇園洲につくられました。ここは格子状の明快な道路構成をとっていて、祇園州の南西角で船着場の対岸に八坂神社があります。

 二王座から西南方向へのびる府中街道沿いの平清水には、下級武士と職人の混住地区が広がり、反対の東南方向へ続く津久見街道沿いは足軽、鉄砲組屋敷などの下級武士の居住地とされていました。


左:祇園洲の稲葉家下屋敷の木塀  中:祇園洲にある八坂神社  右:平清水にある龍原寺三重塔

 


 

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臼杵城(丹生島城)


 かつての大手口から復元された大手門と畳櫓を見上げる。

 周囲に高い建物がなかった時代には、テーブルマウンテンのように周囲を断崖に囲まれた丹生島は、威容を見せていたに違いありません。


二王座のある風景


 細い石畳の坂道を登ると、突然視界が開け、行き止まりになっている。

 この門にはギャラリーの看板がかかっていました。


 


 

 情報リンク

 

臼杵市ホームページ



臼杵市観光情報協会のホームページ



吉田さんの運営する臼杵に関するNO.1ホームページ


 


 

歴史コラム


切支丹大名大友氏と南蛮人


 大友義鎮(宗麟)は、享禄3年(1530)に大友家20代義鑑の長男として生まれ、20歳で家督を継ぎ、40才を前にして剃髪して休庵宗麟(きゅうあんそうりん)と称したため、大友宗麟が馴染みやすい名前となっています。

 永禄2年戦国の武将として頭角をあらわした宗麟は、将軍足利義輝から筑前豊前の守護に任ぜられ、北九州6ヶ国を領有する大大名となりました。宗麟は、天文20年、フランシスコザビエルを招いて、キリスト教の布教を許可しました。ザビエルが日本に上陸したのが天文18年であり、その2年後のことでした。

 当時、キリスト教のことを、切支丹(きりしたん)と呼んでいました。宗麟が切支丹の布教を許可して以来、南蛮貿易が盛んとなり、ポルトガルや明との通商をひらき、鉄砲、火薬をはじめ、珍奇な文物が伝来しました。

 ここでいう「南蛮」とは、中国生まれの伝来語であり、南方にいる人々と、南方から来る人々とを一括して称した言葉でした。ポルトガル人やイスパニア人、東インド諸島の人々は、南蛮で、彼らの乗ってくる船が南蛮船といわれました。

 大友氏の本拠がある府中(現大分市)とともに、臼杵にも南蛮人街が形成されたようです。
 宗麟が切支丹となった天正6年に、島津氏との日向(宮崎県)耳川の合戦で大敗し、豊後一国を残して領主権を失い、さらに、宗麟の後を継いだ義統は、秀吉による朝鮮出兵の際に秀吉の逆鱗に触れ、お家断絶、改易されて、鎌倉時代から400年余り続いた名門大友氏は滅亡します。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.2.16


参考資料

@「日本の城下町12」ぎょうせい

A「うすきの歴史的環境と町づくり 臼杵 観光計画」(財)観光資源保護財団
B「稲葉氏臼杵入場400年 中世の町並みと臼杵の美風を残す」臼杵市立臼杵図書館

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「臼杵」


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