会津若松   −戊辰戦争の業火に焼かれた会津藩城下町−

幕末 幕府軍の主力として孤軍奮闘した会津藩は
二十三万石の藩土もろとも 戊辰戦争の業火に身を投じた
町は焦土と化し 藩は壊滅し 白虎隊の悲劇が生まれた
灰燼に帰した町はいま 観光都市として人々を集めている



 

 


 

町の特徴



 会津若松の町中に、江戸期からの古い町屋や武家屋敷の名残を残している町並みはほとんどありません。
 戊辰戦争の兵火により町は灰燼に帰し、壊滅状態の会津藩は斗南に移ることを強制され、町の復興は思うように行かなかったようです。
 昭和40年に復元された天守閣と往時のまま残された内堀だけが、かろうじて激動の歴史を今に伝えてくれますが、地図を片手にこまめに町を歩くと、城下町時代の痕跡をいくつか見つけることができます。



左:旧大手門(甲賀町口門)に残る石垣  右:札辻 会津五街道の基点の辻は城下町独特の食違い交差点

 


 

100年前の会津若松


現在の地形図と100年前(明治23年)の地形図を見比べてみます。


 明治23年に、若松を本拠とした歩兵第15旅団司令部により市街地の1/20,000の地形図が作成されています。
 陸地測量部が本格的に全国の地形図を作製したのと同じ時期ではありますが、それに比べて測量技術的にはとても未熟だったらしく、地形図というより絵図をいったほうが正確かもしれません。
 そのため、現在の地形図を重ねることは難しいので、今回は並べて見ていただきます。

城の周辺は旧武家屋敷地だったのですが、郡役所や警察署などいくつかの施設が記されているだけですが、その北側の市街地は外堀の外の旧町屋地区にあたります。
 戊辰戦争により、城下町はことごとく焼け落ちた上に、戦後直ぐに斗南(青森県下北半島)移封されたため、武家地は復興できなかったのでしょうが、町屋はしっかり復興したようで、会津商人たちの力強さがここから窺えます。
 また、城下町時代に城郭内(外堀内)に2つのみ配された寺社のうち、諏方神社は記載されていますが、蒲生氏郷菩提寺の興徳寺は記載されていません。戦後の復興が遅れていたのかもしれません。

 


 

町の歴史


 文治五年(1189)、源頼朝は奥州の藤原氏を滅ぼして平定すると、奥州の地を分割して戦功のあった諸将に与えた。この時、会津四郡は佐原十郎義連に与えられ、以降、佐原氏が20代400年の長きにわたり会津領主として君臨することになります。
 義連の子の盛連からは芦名姓を称するようになり、芦名氏七代目の直盛は、至徳元年(1384)に小高木の地に館をつくり東黒川館と称しました。当時、会津若松は黒川と呼ばれていたので、この館は後に黒川城と改められ、これが若松城(鶴ヶ城)の原型となります。

 戦国時代も末の天正十七年(1589)、隣国米沢の伊達政宗は、葦名氏を滅ぼして黒川城を配下に治めますが、正宗は秀吉の小田原攻めに遅参したことを咎められ、一年あまりで黒川の地を追われます。
 これに代わって、奥州仕置きにより、会津の地を秀吉から与えられたのは蒲生氏郷でした。秀吉の信頼厚い氏郷は、伊達氏を始めとする奥州の大名達の押さえとして、会津の地に封ぜられたのでした。

 当初、氏郷は四十二万石で入部しましたが、後に九十二万石を領するようになり、当時としては、徳川家康、毛利輝元に次ぐ屈指の大大名でした。
 氏郷は、黒川の地を、故郷の近江の国の若松の森にちなんで「若松」と改め、これまでの黒川城を七層の天守閣を持つ城郭に改築して、「鶴ヶ城」と名付け、同時に城下町を整備して若松の町の原型を形成しました。

 当時、会津領内では、村や郷ごとに地頭などが屋敷をかまえ、領内を割拠していたため、黒川城下の家数は少なく、また武士と商人の住居が混在していました。
 氏郷は、外堀(現在では埋め立てられて存在しない)より内側の城郭内を拡張整備して武家屋敷町とし、郭内にあった商工業者の家屋、そして諏方神社と興徳寺以外の寺社をすべて郭外に再配置し、近世城下町若松の原型をつくったのです。

 この後、会津領主はめまぐるしく交代していきます。

 文禄四年、氏郷は40才で没し、その子秀行が家督を継ぎますが、相続争いで家中が内紛したため、その三年後には宇都宮十八万石に減知転封されてしまします。

 蒲生氏の後に入部したのは秀吉五大老の一人、上杉景勝でした。
 景勝は百二十万石を領しますが、関が原の戦いの前に石田三成と通じて家康に反旗を翻したため、戦後は米沢に三十万石で移封され、わずか3年余りで会津を去ります。その後、関が原の戦いで功のあった蒲生秀行が、六十万石を与えられて再び会津領主になりましたが、その子忠郷が25歳で病死した上に後継ぎがなかったため、寛永四年(1627)に六十万石は再び幕府に没収されることになります。

 その年の5月、加藤嘉明が伊予国松山から四十万石で会津に移封されますが、その子明成が重臣の堀主水との確執から幕府の忌諱に触れ、寛永二十年には自ら会津四十万石を奉還してしまいます。

 そして、山形から二十三万石で会津藩主になるのが、三代将軍家光の異母弟である保科正之です。
 保科氏は、三代正容のときに幕府から松平姓と葵の紋を許され、会津藩は親藩として幕末まで続きます。

 江戸期を通じて会津藩領内の人口はおおよそ20万人だったといわれています。
 うち、武家の家臣は約4000人(ただし、その半分は半農の臨時雇い的な下級家臣)いて、家族や郎党合わせた武士階級が1.5万人いたといわれます。また、城下町在住の町人(商工業の従事者)は約2万人で、残りが領内の郷に住む農民でした。

 幕末の会津藩主松平容保は、美濃国高須藩(岐阜県海津市)の藩主松平義建の子であり、養子縁組により会津藩主の家督を継ぎました。容保の兄弟には、松平定敬(桑名藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、徳川茂徳(尾張藩主、のちに一橋家相続)などがおり、高須藩松平家は英邁な君主をだす家柄でした。

 文久二年(1862)、容保は京都守護職を任されると、新撰組などを配下に幕府の最大戦力となり、禁門の変、鳥羽伏見の戦いなどの幕府軍主力として戦います。
 戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津で篭城しますが、城下町は戦火により灰燼に帰し、飯盛山での白虎隊の悲劇などを残して会津藩は壊滅します。敗戦後、会津藩は再興を許されますが、わずか三万石の斗南藩(青森の下北半島)に移され辛酸をなめることになります。

 戊辰戦争の後、外堀は埋め立てられ、残された天守閣も明治7年に陸軍省の命により取り潰されますが、昭和40年には現在の姿に再建され、会津若松観光の中心として多くの観光客を集めています。

 廃藩置県により若松県が設置され、その後直ぐに旧福島県、磐前県と合併して、会津若松は福島県に属するようになります。
 明治32年、市制施行により福島県で最初に市として人口3万人で若松市となり、同年には、磐越西線が会津若松駅まで開通します。新しい駅は旧市街地の北のはずれにおかれ、町はますます北側に発展することとなります。
 昭和30年、周辺の7村を合併したのを期に若松市から現在の会津若松市に変更されています。

 


 

町の立地条件と構造


 福島県は大きく3つの地域に分けることができます。

 阿武隈山地の東で太平洋岸のいわき、相馬を中心とした「浜通り」地域。
 阿武隈川流域で白河、郡山、福島などの諸都市が南北に並び、東北本線、新幹線、東北自動車道が通る福島県の中心地帯の「中通り」地域。
 そして、安達太良山から那須山へと続く山地から西側、阿賀川(新潟県にはいると阿賀野川)の流域で福島県の西半分を占めるのが「会津」地域であり、その中心が会津盆地にある会津若松です。

 阿賀川は、地元では大川とよばれ、那須山などの日光国立公園の北山麓を源流として南会津地方を北上し、会津盆地において、尾瀬沼から流れ来る只見川、猪苗代湖からの日橋川と合流し、新潟平野にぬけて日本海に注ぐ大河です。
 また、会津若松は、東に磐梯山と猪苗代湖の観光地を控え、白虎隊の悲劇に代表される幕末戦乱の地として観光名所となっています。

 若松城と城下町は、会津盆地の南東の端に位置し、黒川(湯川)が会津盆地に流れ出て、阿賀川に合流するまでの扇状地に形成されました。
 また、城下町の大外堀を形成していた黒川は、城下町を避けるように南側を大きく迂回しており、城下町建設当時に町の南側に付け替えられた可能性があります。

 このように、若松城は南東西方向を山地と黒川に囲まれ、南東から北西方向にわずかに傾斜する微高地に位置し、時代とともに北の方向に城下町を発展させていくことになります。



 城郭の内外は、外堀と土井(土手)により区分されていました。
 芦名氏時代のものといわれる絵図によると、黒川は若松城の東で分流し、若松城を南北に挟んで流れた後、城の西側で再び合流していたようで、外堀はこの流れを利用して造られたようです。

 外堀の幅は15m程度、深さは2〜3m、土井の高さは5m前後あったと江戸期に作成された正保絵図では記載されています。しかし、戊辰戦争後に外堀はすべて埋め立てられ、現在では天寧寺町にすこしだけ土塁が残されているだけです。


左:天寧寺町に残る土塁の跡  右:黒川(湯川)


 会津地方の中心地、会津若松は四方から街道が入り込む交通の要所でもありました。

 城下町から北東方向へは、猪苗代湖を南下して白河に通じる白河街道と湖の北側を東に向かい二本松に通じる二本松街道の2街道がありました。
 城下町の南西方向へは、下野国(栃木県)に通じる下野街道(南山通り)、城下町の西方向へは、七日町から阿賀川沿いを越後に通じる越後街道が、そして、北方向へは米沢に出る米沢街道がそれぞれありました。




 これら5つの主要街道はすべて、郭外の大町の札辻を基点としていました。

 現在、その場所には、かつて札辻だったことを示す石碑しか残されていませんが、城下町当時の道路幅しかないのに車の通行量はとても多く、今も昔も往来の中心であることには代わりはないようです。
この辻の南東の角には商人司簗田氏の屋敷が、北東の角には近江から氏郷に従い会津に入った倉田氏が町検断として大きな屋敷を構えていました。


左:札辻も食い違いの交差点  中:下野街道に通じる大町通り  右:越後街道に通じる七日町通り


 現在の地形図からは分かりにくくなっているのですが、城下町時代の町割りを復元した下図をみると、若松城下町のもついくつかの特徴に気づきます。



出典:「日本都市史入門 T 空間」東京大学出版会



 郭内の武家屋敷地区も郭外の町屋地区も、整然としたグリッド状に区画されているのですが、町屋地区のほうが、武家屋敷地区より5度程度時計回りに振った方向を基準線として道路が配置されているのがわかります。
 また、一見すると整形街区で町割りされているようにみえる町屋地区の道路ですが、東西方向の道路は南北方向の道路との交差点で、規則的に食い違っています。1/25000の地形図では判り難いのですが、現地を歩くと交差点で5m程度ずれていることがよく分かります。
 これらはいずれも視覚的に見通しが利かないように意図的に計画されたものといわれています。
 郭内の武家屋敷地区の町割は、黒川城時代に形成されていたため、これをベースに蒲生氏郷が城下町を北方向に拡大整備する際に、意図的に曲げたのではないかというのです。


左:馬場町通りと東西方向の通りとの食違いの交差点  右:南北方向の馬場町通りは一直線


 また、蒲生氏郷による城下町の拡張整備により、それまで城郭内にあった寺社は、諏方神社と蒲生氏菩提寺の興徳寺を除いて郭外に移され、城下町の外延部、特に外敵に攻め込まれやすい北面に集中して配置されました。
 町の外延部に寺社を配し、兵站地として防衛上の機能をもたせたので、城下町建設ラッシュのこの時代に各地で行われてきたことですが、会津においては伊達政宗の軍勢により町が破壊されたことも再配置を促した要因かもしれません。
 また、中世以来、町中に存在した町衆と寺社との密接な関係を断ち切り、新たな城主の支配下で再編成する意味合いもありました。

 若松城下にある寺院は95を数え、うち真言宗が24寺、浄土宗が23寺、浄土真宗が18寺で、真宗や法華宗の寺の少ないのが特徴だといわれます。
 城郭内にある興徳寺は、氏郷入部以来、歴代の城主に保護されてきた臨済宗の寺で、氏郷の墓標があります。同じく城郭内にある諏方宮は、葦名盛宗が黒川領主の時代に、戦勝祈願として信州諏訪宮を勧請したことに始まります。
 現在では、どちらの寺社も境内も狭く、それぞれのもつ歴史の長さほど境内は立派ではありません。戊辰戦争で焼失した上に会津藩自体が移封されてしまったため、かつても威風を取り戻すほど十分に復興できなかったかもしれません。



左:諏方神社の入り口    右:神社の拝殿


 特に興徳寺は、狭い繁華街の通りの奥まったとても分かり難い場所にあり、由緒ある歴史を感じさせてくれません。また、神仏分離以降に再建された臨済宗の寺にもかかわらず、本殿の前には狛犬と天王社の象徴の牛の像があり、一風変わった境内となっています。


左:興徳寺へはこんな道を通る  中:寺はこの奥にある  右:本殿の前に座っている狛犬


 本丸、二の丸、三の丸のあった場所は、現在では公園として綺麗に整備されています。
 天守閣は、明治7年に取り潰されました後、昭和40年に再建されたものですが、鉄筋コンクリート造丸出しの城で、そのディテールには首を傾げたくなるところがありますが、観光客の人気は高いようで、観光都市会津若松のシンボルとなっています。
 模造品のような天守に比べて、内堀はとても優美で心和む景観を残しています。無骨な石垣はほんの一画だけで、ほとんどは緑に縁取られた綺麗な水面を見せています。


左:若松城  中右:緑に縁取られた内堀


 城下町の西端に位置する七日町は、越後街道沿いに繁栄した町屋の名残を残し、土蔵などが数多く残されています。
 すべて明治期以降に建築されたもののようですが、その多くは綺麗に修復保存されて、店舗などに活用されています。


七日町通りの町並み


七日町通りの札辻近くにはレトロな建物が並ぶ  右は創業300年の会津漆器の老舗「白木屋」(大正2年建築)


 現在の繁華街は栄町付近になりますが、城下町時代の位置でいうと、城郭内の北の端にあたり、大手門(甲賀町口門)や興徳寺、外堀と土井のあった場所になります。
 甲賀町口門のあった場所は、門跡の石垣が残されていますが、微妙なS字カーブとなっていて、直線の道路ばかりで構成される市内にあって、ここが門前の辻広場だった名残がみられます。


左:甲賀町通りは微妙なS字カーブ  中:大手門跡の石垣  右:栄町のメイン通り


 


 

まちなみ ブックマーク

 

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七日町にあるノスタルジックな洋風建物


 正面には「DepartmentStore 呉服百貨店」と書かれています。
 七日町には古い町屋や土蔵だけでなく、明治末期から昭和初期にかけて建てられたと思われる洋風建築が目に付きます。
 その代表格が「白木屋」ですが、私的にはこちらの方が面白いと思います。なにやら「ニューシネマパラダイス」の映画館みたいな・・・
土蔵を改造した住宅


 小屋組みを金属の屋根に葺き替えて改修したようですが、屋根材メタルの質感とパラボラアンテナそして漆喰の外壁のコントラストがとても面白く、思わずシャッターを切りました。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2006.8


参考資料

@「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」
A「日本都市史入門 T 空間」東京大学出版会
B「図説 福島県の歴史」河出書房社
C「会津若松市史」

使用地図
@1/25,000地形図 「若松」昭和63年修正、「会津広田」昭和56年修正
A1/20,000地形図 明治23年 歩兵第15旅団司令部調製


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