会津若松 −戊辰戦争の業火に焼かれた会津藩城下町−
幕末 幕府軍の主力として孤軍奮闘した会津藩は |
町の特徴
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![]() ![]() 左:旧大手門(甲賀町口門)に残る石垣 右:札辻 会津五街道の基点の辻は城下町独特の食違い交差点 |
100年前の会津若松 現在の地形図と100年前(明治23年)の地形図を見比べてみます。 明治23年に、若松を本拠とした歩兵第15旅団司令部により市街地の1/20,000の地形図が作成されています。 陸地測量部が本格的に全国の地形図を作製したのと同じ時期ではありますが、それに比べて測量技術的にはとても未熟だったらしく、地形図というより絵図をいったほうが正確かもしれません。 そのため、現在の地形図を重ねることは難しいので、今回は並べて見ていただきます。 城の周辺は旧武家屋敷地だったのですが、郡役所や警察署などいくつかの施設が記されているだけですが、その北側の市街地は外堀の外の旧町屋地区にあたります。 戊辰戦争により、城下町はことごとく焼け落ちた上に、戦後直ぐに斗南(青森県下北半島)移封されたため、武家地は復興できなかったのでしょうが、町屋はしっかり復興したようで、会津商人たちの力強さがここから窺えます。 また、城下町時代に城郭内(外堀内)に2つのみ配された寺社のうち、諏方神社は記載されていますが、蒲生氏郷菩提寺の興徳寺は記載されていません。戦後の復興が遅れていたのかもしれません。 |
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町の歴史
文治五年(1189)、源頼朝は奥州の藤原氏を滅ぼして平定すると、奥州の地を分割して戦功のあった諸将に与えた。この時、会津四郡は佐原十郎義連に与えられ、以降、佐原氏が20代400年の長きにわたり会津領主として君臨することになります。 |
町の立地条件と構造 福島県は大きく3つの地域に分けることができます。 阿武隈山地の東で太平洋岸のいわき、相馬を中心とした「浜通り」地域。 阿武隈川流域で白河、郡山、福島などの諸都市が南北に並び、東北本線、新幹線、東北自動車道が通る福島県の中心地帯の「中通り」地域。 そして、安達太良山から那須山へと続く山地から西側、阿賀川(新潟県にはいると阿賀野川)の流域で福島県の西半分を占めるのが「会津」地域であり、その中心が会津盆地にある会津若松です。 阿賀川は、地元では大川とよばれ、那須山などの日光国立公園の北山麓を源流として南会津地方を北上し、会津盆地において、尾瀬沼から流れ来る只見川、猪苗代湖からの日橋川と合流し、新潟平野にぬけて日本海に注ぐ大河です。 また、会津若松は、東に磐梯山と猪苗代湖の観光地を控え、白虎隊の悲劇に代表される幕末戦乱の地として観光名所となっています。 若松城と城下町は、会津盆地の南東の端に位置し、黒川(湯川)が会津盆地に流れ出て、阿賀川に合流するまでの扇状地に形成されました。 また、城下町の大外堀を形成していた黒川は、城下町を避けるように南側を大きく迂回しており、城下町建設当時に町の南側に付け替えられた可能性があります。 このように、若松城は南東西方向を山地と黒川に囲まれ、南東から北西方向にわずかに傾斜する微高地に位置し、時代とともに北の方向に城下町を発展させていくことになります。 城郭の内外は、外堀と土井(土手)により区分されていました。 芦名氏時代のものといわれる絵図によると、黒川は若松城の東で分流し、若松城を南北に挟んで流れた後、城の西側で再び合流していたようで、外堀はこの流れを利用して造られたようです。 外堀の幅は15m程度、深さは2〜3m、土井の高さは5m前後あったと江戸期に作成された正保絵図では記載されています。しかし、戊辰戦争後に外堀はすべて埋め立てられ、現在では天寧寺町にすこしだけ土塁が残されているだけです。
会津地方の中心地、会津若松は四方から街道が入り込む交通の要所でもありました。 城下町から北東方向へは、猪苗代湖を南下して白河に通じる白河街道と湖の北側を東に向かい二本松に通じる二本松街道の2街道がありました。 城下町の南西方向へは、下野国(栃木県)に通じる下野街道(南山通り)、城下町の西方向へは、七日町から阿賀川沿いを越後に通じる越後街道が、そして、北方向へは米沢に出る米沢街道がそれぞれありました。 これら5つの主要街道はすべて、郭外の大町の札辻を基点としていました。 現在、その場所には、かつて札辻だったことを示す石碑しか残されていませんが、城下町当時の道路幅しかないのに車の通行量はとても多く、今も昔も往来の中心であることには代わりはないようです。 この辻の南東の角には商人司簗田氏の屋敷が、北東の角には近江から氏郷に従い会津に入った倉田氏が町検断として大きな屋敷を構えていました。
現在の地形図からは分かりにくくなっているのですが、城下町時代の町割りを復元した下図をみると、若松城下町のもついくつかの特徴に気づきます。
郭内の武家屋敷地区も郭外の町屋地区も、整然としたグリッド状に区画されているのですが、町屋地区のほうが、武家屋敷地区より5度程度時計回りに振った方向を基準線として道路が配置されているのがわかります。 また、一見すると整形街区で町割りされているようにみえる町屋地区の道路ですが、東西方向の道路は南北方向の道路との交差点で、規則的に食い違っています。1/25000の地形図では判り難いのですが、現地を歩くと交差点で5m程度ずれていることがよく分かります。 これらはいずれも視覚的に見通しが利かないように意図的に計画されたものといわれています。 郭内の武家屋敷地区の町割は、黒川城時代に形成されていたため、これをベースに蒲生氏郷が城下町を北方向に拡大整備する際に、意図的に曲げたのではないかというのです。
また、蒲生氏郷による城下町の拡張整備により、それまで城郭内にあった寺社は、諏方神社と蒲生氏菩提寺の興徳寺を除いて郭外に移され、城下町の外延部、特に外敵に攻め込まれやすい北面に集中して配置されました。 町の外延部に寺社を配し、兵站地として防衛上の機能をもたせたので、城下町建設ラッシュのこの時代に各地で行われてきたことですが、会津においては伊達政宗の軍勢により町が破壊されたことも再配置を促した要因かもしれません。 また、中世以来、町中に存在した町衆と寺社との密接な関係を断ち切り、新たな城主の支配下で再編成する意味合いもありました。 若松城下にある寺院は95を数え、うち真言宗が24寺、浄土宗が23寺、浄土真宗が18寺で、真宗や法華宗の寺の少ないのが特徴だといわれます。 城郭内にある興徳寺は、氏郷入部以来、歴代の城主に保護されてきた臨済宗の寺で、氏郷の墓標があります。同じく城郭内にある諏方宮は、葦名盛宗が黒川領主の時代に、戦勝祈願として信州諏訪宮を勧請したことに始まります。 現在では、どちらの寺社も境内も狭く、それぞれのもつ歴史の長さほど境内は立派ではありません。戊辰戦争で焼失した上に会津藩自体が移封されてしまったため、かつても威風を取り戻すほど十分に復興できなかったかもしれません。
特に興徳寺は、狭い繁華街の通りの奥まったとても分かり難い場所にあり、由緒ある歴史を感じさせてくれません。また、神仏分離以降に再建された臨済宗の寺にもかかわらず、本殿の前には狛犬と天王社の象徴の牛の像があり、一風変わった境内となっています。
本丸、二の丸、三の丸のあった場所は、現在では公園として綺麗に整備されています。 天守閣は、明治7年に取り潰されました後、昭和40年に再建されたものですが、鉄筋コンクリート造丸出しの城で、そのディテールには首を傾げたくなるところがありますが、観光客の人気は高いようで、観光都市会津若松のシンボルとなっています。 模造品のような天守に比べて、内堀はとても優美で心和む景観を残しています。無骨な石垣はほんの一画だけで、ほとんどは緑に縁取られた綺麗な水面を見せています。
城下町の西端に位置する七日町は、越後街道沿いに繁栄した町屋の名残を残し、土蔵などが数多く残されています。 すべて明治期以降に建築されたもののようですが、その多くは綺麗に修復保存されて、店舗などに活用されています。
現在の繁華街は栄町付近になりますが、城下町時代の位置でいうと、城郭内の北の端にあたり、大手門(甲賀町口門)や興徳寺、外堀と土井のあった場所になります。 甲賀町口門のあった場所は、門跡の石垣が残されていますが、微妙なS字カーブとなっていて、直線の道路ばかりで構成される市内にあって、ここが門前の辻広場だった名残がみられます。
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七日町にあるノスタルジックな洋風建物 正面には「DepartmentStore 呉服百貨店」と書かれています。 七日町には古い町屋や土蔵だけでなく、明治末期から昭和初期にかけて建てられたと思われる洋風建築が目に付きます。 その代表格が「白木屋」ですが、私的にはこちらの方が面白いと思います。なにやら「ニューシネマパラダイス」の映画館みたいな・・・ |
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土蔵を改造した住宅 小屋組みを金属の屋根に葺き替えて改修したようですが、屋根材メタルの質感とパラボラアンテナそして漆喰の外壁のコントラストがとても面白く、思わずシャッターを切りました。 |
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まちあるき データ
まちあるき日 2006.8 参考資料 @「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」 A「日本都市史入門 T 空間」東京大学出版会 B「図説 福島県の歴史」河出書房社 C「会津若松市史」 使用地図 @1/25,000地形図 「若松」昭和63年修正、「会津広田」昭和56年修正 A1/20,000地形図 明治23年 歩兵第15旅団司令部調製
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