山 口   −歴史遺産の上に建設された新都市−

室町時代 西国一の守護大名 大内氏の拠点として繁栄した山口
今でも 古刹の多さに 華やかな文化の痕跡がみられる
幕末期には明治維新の策動地となり 明治以降は官公庁、文化施設が集中した
わずか人口14万人の県庁所在地は
600年前の史跡の上に建設された政治のための新都市のようだ



 

 


 

町の特徴

 山口市は、これといった大きな産業立地があるわけでもない地方の中規模都市にもかかわらず、中心部には、県庁舎をはじめ多くの官公庁が集積し、美術館、博物館、図書館などの立派な文化施設が数多く建ち並んでいます。
 特に、並木道のパークロード沿いは、さながら計画的に建設された新都市のようでもあり、その終端にあって市街地を見下ろすようにそびえ建つ山口県庁は、訪れるものに威圧感さえ与えます。

 一方で、山口の町は、室町中期に、当時西国一の守護大名大内氏により建設され、一時期は京の都を凌ぐほどの華やかさを見せたため、町中には、室町時代創建などと伝えられる神社仏閣が多く存在します。
 しかし、屋敷や町屋などに古い建物は少なく、江戸期まで遡るものになるとほとんど無いのではないでしょうか。
 町の歴史に関する予備知識をもたず、ただ漫然と歩いていても、山口が600年も前にできた町だとはとても気づかないのではないかと思います。

山口は、600年前の史跡の上に建設された新都市のようなものです。

 


市内一の高層ビル 山口県庁(左) 室町時代に大内氏が京より勧請した八坂神社(中)と天満宮(古熊神社・右)

 


 

100年前の山口

現在の地形図と100年前(明治32年)の地形図を見比べてみます。

 山口は周囲を山に囲まれた盆地にある町で、もともとは街道沿いにL字型をしていたことが判ります。また、直線の道路と整形の街区は計画的な街づくりが行われたことを窺わせますが、宿場町や城下町とは違う町の形をしています。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史

大内氏による中世山口の建設

 山口は、周防山地に点在する盆地のひとつで、瀬戸内から20kmも内陸へ入り込み交通要所からもはずれた辺鄙な土地であり、大内氏がこの地を拓くまでは荒涼とした寒村にすぎなかったようです。

 瀬戸内に面し、周防国の国衙の所在地である三田尻(現防府市)にその本拠を定めていた豪族大内氏が、一族を率いて山口へ根拠地を移したのは14世紀後半のことでした。  室町初期、周防・長門の2国(現山口県)の守護に任ぜられていた大内氏24代弘世(ひろよ)は、京の都に強烈な憧憬を抱き、京に似て「四神相応」の地理的条件にかなう山口の地に「小京都」を建設することに心血を注ぎました。

 盆地を南流する一の坂川を鴨川に見立てて、町を碁盤の目状に区画し、その中央に政庁と自分の館をおき、大路、小路といった京風の町名にしました。その地には現在でも「竪小路」「伊勢大路」「大殿大路」などの歴史的町名が残っています。
 さらに、京の都から祇園社(八坂神社)や北野天満宮などを勧請し、瑠璃光寺(現国宝)をはじめとした数多くの寺院を建立しました。また、京都から多くの京童を連れてきて、町の辻々に立たせ、京言葉を教えたという伝説まで残っています。

 それから2世紀の間、大内氏は自らの政治的、経済的な隆盛を基盤として、箱庭のごとき小京都の建設に情熱を注ぎ込み、山口は西日本における文化の中心地となりました。大内氏末期の天文19年(1550)に山口へ来訪したフランシスコ・ザビエルは、カトリック本部への書簡において「日本国内でいちばん栄えている山口」「この地の戸数は一万戸以上」と、山口の繁栄の様子を残しています。

 大内氏の全盛期は義興・義隆の時代です。
 明応8年、足利義稙が将軍職を追われて山口に下向してきた際、義興は山口に居館を設けて義稙を手厚くもてなし、やがて義稙を擁して上洛し、将軍職に復職させます。その後、山口に帰るまでの10年間を、管領代として山城守護を兼ねて在京することになります。
 義隆の代には、周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ケ国の守護を兼ねる中国・九州の一大勢力となり、中国や朝鮮への窓口である関門海峡や博多を押さえ、明国や李氏朝鮮との貿易を独占することとなります。
 この頃の有力豪族の多くが源氏の末裔を名乗っていたにもかかわらず、大内氏は百済(古代朝鮮の国)の聖明王を祖としており、この点で朝鮮国とも好意的な友好関係があったのだと思われます。

 このような強力な政治的、経済的基盤をもって、大内氏は西国山口の地に「西の京」を建設したのです。
 特に、応仁・文明の乱(1467〜1477)により京が荒廃した時期には、雪舟、連歌師宗祇(そうぎ)、歌道の三条公敦など、当代きっての禅僧、文人、公家たちが都を嫌って下向し、西国一の守護大名大内氏の下に活動の場や庇護を求めて訪れたのです。

 このように200年続いた「西の京」の栄華は、大内氏の家臣の陶晴賢の反乱によってあっさり幕を閉じます。
 戦国の世にあって、戦いが各地で頻発していたにもかかわらず、軍事はもっぱら陶・内藤・杉氏らの守護代級の武将に一任し、義隆自身は自らの館にあって学問や芸能に耽ていたのです。やがて側近同士の内紛から、義隆自身が陶晴賢の反乱によって自害に追い込まれ、最後には、安芸の毛利元就に攻め込まれ、山口は毛利氏が支配することとなります。
 この戦乱で山口の町は戦火につつまれ、大内時代に建てられた多くの社寺や町家は焼け落ちて「西の京」の面影は消え失せたのです。

江戸期以降の山口

 関ケ原の戦いのあと、防長二国に封じ込められた毛利輝元が萩に城下町を建設すると、山口には藩の勘場(代官所)やお茶屋(藩宿泊所)がおかれたものの、中世大内時代の繁栄を忘れ、山間のさびしい小都市となって、わずかに商人や職人が活動する町にすぎなくなりました。
 しかし、山口が萩から瀬戸内の西国道に出る交通の要所にあたることから、京、大坂、江戸などとの交通が頻繁になった幕末期の文久三年(1863)には、長州藩は政庁を山口に移すことになります。
 これにより、山口は明治維新の策源地として再び政治の中心地となり、近代日本成立のイニシアチブをとることとなります。今も山口市内には、維新時の遺跡が各所に残されていて、その活動を物語っています。

 明治4年の廃藩置県により、防長二国全域を範囲とする新しい山口県が成立し、藩庁がそのまま山口県庁となりました。明治22年の市・町村制によって山口町が誕生し、町内には官公庁が相次いで設置されて、山口は県内の政治中心都市としての性格を強めていきます。

 しかし、周辺町村との合併により町域は広がり、官公庁は開設されても、市制施行の条件であった人口3万人にはなかなか届きませんでした。全国の県庁所在地で昭和になっても市制施行ができずにいたのは、埼玉県浦和と山口だけでした。
 現在でも山口市の人口は14万人で、全国で最も人口少ない県庁所在市です。
 市域面積は、山口県内市町村のなかでは最大であるのに、人口シェアは9%しかなく、全国の県庁所在市の多くが、県内人口の30%前後を占める中で、非常に特殊な例といえます。

 山口の都市的発展が遅れたのは、交通条件の悪さが大きな原因でしょう。
 山陽鉄道が全線開通するのは明治34年ですが、当初の計画では三田尻(防府市)から山口を通り小郡にでる予定でした。しかし、山口では鉄道を通すことに反対の声が強かったため、結果的に鉄道路線から外れてしまい、その後の新幹線の駅も南側隣接の小郡町に設置されることになりました。

 山口市中心部の地図を見ると、陸上自衛隊関連の施設が目立つばかりで、特に大きな工場や住宅地などは見当たりませんが、官公庁と文化施設だけは相当立派なものです。

 山口市の中心部に亀山と呼ばれる小高い丘があり、この付近に県庁、市役所、国の総合庁舎などの官公庁が立地しています。この地区はもともと、明治期以降に旧制高校、高等商業学校、師範学校などが集中して建設された文教地区でしたが、戦後これらの高等教育機関を集めて山口大学が発足し、昭和41年から順次市内の平川に移転されました。その跡地に広い並木道のパークロードがつくられ、沿道には美術館、博物館、図書館、教育会館なども配置され、今では業務と文化の一大ゾーンが形成されています。

 


 

町の立地条件と構造


 山□は北東から南西方向に流れる椹野川(ふしのがわ)沿いに発達した埋積盆地です。椹野川は、北西側から一の坂川の緩やかな扇状地が張り出しているため、流路を盆地の南東側に片寄らせています。
 現在では椹野川は護岸工事が完了していますが、明治期には川沿いは洪水の頻発する氾濫原だったようで、地形図には昔の河道の痕跡を読み取ることができます。

 また、山口には、長州藩都の萩から、一の坂川に沿って山口をとおり、瀬戸内の港町三田尻(現、防府市)まで通じる萩街道(萩往還)と、石見国(現、島根県西部)から、椹野川に沿って山口をとおり、山陽道沿いの小郡、厚狭へ通じる山陰道(石州街道)とが交差する場所でもありました。

 山口の町は、2つの街道が交差し、一の坂川の造りだした扇状地の上に立地しているのです。


 大内氏時代に萩往還があったかどうかはわかりませんが、山陰道と萩往還の合流場所に大内氏の館(現龍福寺)があり、亀山を迂回するかのように街道はL字型に曲がっています。
 幕末期の萩藩庁(現山口県庁)は盆地の奥まった場所にあり、なにやら亀山の陰に隠れて倒幕の密談をしていたようにもみえます。

 山口は椹野川谷筋にありますが、周囲に尾根筋が迫出したり、小山があったりして盆地の形状をしています。そして、山口盆地にはいくつかの目につく小山があります。
 仁保川と椹野川の合流地点にある姫山。小郡方面から山口の町を仕切るようにある向山(障子岳)。盆地中央部の亀山。そしてなにより目を引くのが鴻ノ峰(標高340m)で、大内氏の高峰城跡がある山です。
 防府からの萩往還は真前にこの峰を見ながら山口の町に入ることになりますし、北から山陰道を南下しても前方によく見える山で、軍事上の拠点だったことが容易に想像できます。

 大内氏がこの地に拠点を構えたのは、京の都に「四神相応」などの立地条件が似ていただけでなく、交通上も、軍事上も要所であったからだと思わずにはいられません。

 明治期の地形図を拡大して見てみると、道が整形に並んでいることが判ります。ただし、亀山とそれを回り込んで流れる一の坂川があるため、方型グリッドはいくらか崩れてはいるものの、これが大内時代の名残だと思われます。


 現在の山口の町を見てみます。

 大正2年に開通したJR山口線は、旧町屋エリアと椹野川の間を縫うように敷設されて、間の一番広い場所に山口駅が設置されています。
 昭和39年に開通した国道9号線と昭和57年に山口県庁前まで開通した山口バイパスは、旧街道を拡幅することなしに別ルートで整備されています。
 美術館、博物館、図書館、教育会館などが沿道に配置されている広幅員の並木道パークロードが、山口駅と県庁を結んでいます。国道9号線以南は商業施設の中心地であり、以北は官公庁と文化施設が集積しています。


 パークロード終端には、昭和59年に完成した15階建ての山口県庁があります。
 そもそもこの場所は、山口盆地を流れる一の坂川の扇状台地の高台に位置し、そこに市内一の高層ビルを建てたため、県庁は山口市内を見下ろすかっこになり、県庁最上階の展望フロアからは山口盆地が一望に見渡せます。

 そして、パークロードそのものが山口駅から県庁に続く「御前道路」のようにも見え、山口が今でも防長二国の政治都市であることを実感させられる建物です。


山口県庁最上階15階からの眺め。真前にみえる小山が亀山、その左にパークロードと両側に文化施設と官庁。
その向こうの谷筋が防府への往還道。


パークロード

 山口駅前から西門前商店街(旧街道筋)までも綺麗な並木道ですが(左)、国道9号線から県庁前までは、”パーク”ロードにふさわしく、広い歩道と立派な並木、そして緩やかな曲線が美しい街路を創っています(中)。終端には県庁の高層ビルがみえます(右)。



旧街道筋

 防府からつづく萩往還は、目の前に鴻ノ峰を見ながら山口市街地に入ることになり(左)、街道沿いにはいくつかの古い町屋が見られます。(中・右)

 山陰道と萩往還は本町で合流し、ここからは西門前商店街となっています。
 西門前商店街では美しいアーケードが目につきますが、5年ほど前にサティ、ダイエーなど大型店舗が閉店し、国道9号線沿いなどの郊外型大型店舗の進出に対して苦戦を強いられているようです。
 旧街道筋は商店街がきれたところで左に曲がり、竪小路にはいります。(中・右)
 この沿道にも明治大正期の町屋がいくつか残っていて、間口の広い町屋で重厚感があります。



一の坂川沿い

 川の両岸に並木がつづき、落ち着いた町並みを形成しています。
 コンクリートの橋、アスファルト道路、ブロック積み護岸、ではありますが、かつての雰囲気を残しているのではないでしょうか。山口のまちあるきの中で、一番のお気に入りエリアです。

 


 

まちなみ ブックマーク

町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました

 

ふるさと伝承総合センター

 下竪小路の旧街道沿いにある旧商家
 明治19年に酒造商家として建築された旧野村家の住宅で、平成2年に現在の形に整備され、大内塗(漆器)など大内氏時代の文化遺産の紹介などがされています。
 パークロード沿いの3階建てRC建物

 西門前商店街と交差する手前のパークロード沿いには、写真のような3階建てのRC建物が連続しています。

 どれも昭和初期のものだと思うのですが、建物以上にの高さのある並木とともに、とても心地いい道路景観を創りだしています。
 瑠璃光寺 五重塔

 嘉吉2年(1442年)頃に大内義弘を弔うために建立された高さ30mの供養塔で、大内氏文化遺産の代表作です。
 全国に現存する五重塔の中でも10番目に古く、その優美な姿は、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺の五重の塔とならぶ、日本三名塔のひとつに数えられる国宝で、山口市内の観光のシンボルでもあります。

 ぼんやりとベンチに腰掛けて、池に映る瑠璃光寺五重塔を眺めていると時間を忘れてしまいます。

 


 

★ 情報リンク

 

山口市ホームページ
あじなまち・・・山口市
市役所のホームページにはめずらしい「あじな」トップページです。


ホームタウン ホームページ 山口



ふるさと学習コンテンツ 知っちょる!? やまぐち
子供向けにつくられた山口の情報紹介ページですが、なかなか充実した内容です。


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2004.08.01


参考資料

@「山口県の歴史散歩」山川出版社
A 山口ふるさと伝承センター 資料
B「山口市史」

使用地図
@1/25,000地形図「山口」「小郡」平成8年修正
A1/20,000地形図「山口」明治32年測図


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