柳 井   −瀬戸内の海運が造った白壁の町並み−

室町期に大内氏が湊を開き 江戸期には商工業都市として栄えた
その基盤は瀬戸内の海運にあった
明治末期以降、陸上交通の要所になれなかった柳井は
往時の美しい町並みを残したまま今日に至っている



 

 


 

町の特徴

 柳井の特徴はなんといっても白壁のつづく町並みです。
 といっても、白壁の商家が軒を連ねるのは、およそ200m程の距離に過ぎないのですが、寄せ棟妻入り、切妻平入りの混ざる商家はすべて塗籠造りとよばれる防火建築で統一され、短い距離といえどもそれが軒を並べる景観は見応えがあります。


 


 

100年前の柳井

明治大正期の地形図が入手できませんでしたので今回はお休みです。

 


 

町の歴史

 

 柳井はその昔「楊井」と呼ばれていました。

 楊井は、楊井本庄とよばれる京都蓮華王院領の平安時代からの荘園で、鎌倉期の東大寺文書などにその名が表われています。

 室町期には、防長で勢力をなした大内氏が東の海門とした港町でした。応仁の乱においては、大内正弘が大軍を率いて兵庫に向けて出陣、乗船していますし、大内氏の財力の源であった日明貿易の拠点港の一つでもありました。

 町中にある4つの寺は、いずれも室町期以前の創建を伝える古刹です。その中のひとつ普慶寺は弘法大師の創建とされており、鎌倉期に大内氏が百済から持ち帰った千手観音を奉じ、本尊として祭るようになったといわれています。

 柳井は、瀬戸内にのぞむ港町として早い時期から開かれていたのです。

 江戸期、柳井は毛利氏萩藩の支藩のひとつ吉川氏岩国藩に属します。

 寛文年間(1660年代)の柳井の絵図が残されています。
 柳井川と姫田川に挟まれた場所に柳井の町が描かれ、今日の古市、金屋町、久保町、亀岡町、魚町、今市、新町、土手町の8町がすでに成立していたことが分かります。また、久保町の西側には、海が細長い入り江を形作っており、江戸前期の柳井の湊の位置を表しています。

 享保年間(1730年頃)の絵図には、柳井川に宝来橋が架けられていて古市と古開作が結ばれています。ここが柳井川の最下流に架かる橋なります。

 天保年間(1830年代)の絵図には、柳井川河口に新しい湊(現在の柳井西港)が開かれているのが見えます。これに伴い、旧湊は埋め立てられ、現在の町の姿ができたのではないかと思われます。

 江戸期を通して、岩国藩は干拓事業を行いました。

 遠浅の海を埋め立てた古開作が市街地の南に造られ、市街地と古開作の間に現在の柳井川ができました。その後も、中開作、宮本開作といった干拓地(新開作)が造られました。

 江戸中期以降、これらの干拓地には、次第に綿花が栽培され始め、綿織物はこの地の代表的な地場産業として柳井木綿の名で全国的に知れ渡ることとなります。

 柳井木綿を取り扱う商人、菜種、綿実油を絞って販売した商人、そして醤油醸造業に携わった人々が中心になって、江戸中期以降の柳井の繁栄は築かれ、柳井は「岩国藩の御納戸(おなんど)」と称されるようになったのです。

 元禄期(1700年頃)から70年の間に、柳井の町は100軒以上の家屋を焼失する大火に4回みまわれています。
 特に明和5年(1768)の大火では、古市、金屋町などの180軒が焼失しており、これを契機として町のあちこちに火伏地蔵や愛宕権現が建立されます。宝来橋のたもとにある愛宕権現もこの頃のものと思われます。

 明治期に入っても柳井の繁栄は続きます。

 明治30年に山陽鉄道が開通すると、古開作には柳井津駅(現柳井駅)が開設されます。
ここから旧市街地金屋町に向けて一本の道路(現 麗都路(レトロ)通り)が開通し、柳井川には本橋が架けられ、この通りが柳井の中心地となっていきます。
 明治32年には柳井を本拠とする周防銀行が設立され、本店が旧山陽道と本町通りの交差点に建築されます。これが現在の「町並み資料館」です。

 昭和5年から始まる金融恐慌は、日本各地に深刻な不況をもたらしますが、柳井においても地場産業である織物産業を次々に倒産に追い込んでいきます。
 昭和9年には岩国と徳山を結ぶ岩徳線が開通し、その沿線からはずれた柳井の町は、時代から取り残され、繁栄した時代の町屋がそのまま残ることとなりました。

 また、江戸期からの干拓地(古開作)は、柳井駅の南側において昭和47年から区画整理事業が始められ、町はこの方向に拡大することになります。
 このことも、旧市街地の古い町並みが残された一因のようです。

 


 

町の立地条件と構造


 柳井の旧町屋は、江戸初期には柳井川の河口に位置しており、江戸期から続く幾たびかの埋立により、現在では内陸部に位置するようになりました。


 寛文年間の絵図にある江戸前期の旧柳井湊は、今では痕跡も残されていませんが、金屋町の小さな水路がその位置に当たるといわれています。湊は江戸後期に柳井川河口の松ヶ崎に新たに開かれ(現柳井西港)、現在はその更に東に柳井港が整備されています。
 山陽道は防府から柳井までは海岸沿いを通り、柳井から徳山まで山道を行くことになります。


 江戸期の絵図からわかる柳井町屋の範囲は、柳井川と姫田川に挟まれた場所で、旧山陽道は旧柳井湊(江戸後期に埋め立て消失)の手前で右折し、金屋町、古市を通った後、宝来橋で柳井川を渡り徳山方面に向かっていました。


 古刹4ヶ寺は町の東外縁部に位置しますが、どの寺も際立ったが伽藍を誇るわけでもなく、古い町並みに溶け込むようにひっそりと静まり返っています。


左:柳井川  中:姫田川  右:弘法大師創建と伝えられる普慶寺山門


 白壁の町屋が軒を連ねているのは、古市と金屋町の山陽道沿道です。
 古市には、醤油造や酒造などの醸造業を営む家々が、大構えな屋敷を構えています。
 古市の隣の金屋町には、中世の時代から鋳物師が数多く住んだ町として、町名にその名残を残しています。


寄せ棟妻入り、切妻平入りの商家が軒を並べる古市、金屋町の白壁の町並み


左:魚町は今は繁華街  中:柳井名物 甘露醤油の蔵  右:掛屋小路 この先の川辺に荷揚げ場があった


 山陽道の南側の屋敷のいくつかは、柳井川の川べりまで奥深く続いていて、花崗岩で護岸された川岸には、川へ下りる石段がところどころに築かれています。江戸期の船着場の跡です。


左:宝来橋 今は仮設橋  中:宝来橋の脇の愛宕権現と船着場の跡  右:徳山に向かう山陽道は今も残る


 町中で年代が明らかな家屋は国森家住宅で、明和の大火(1768)の後に建設されたものです。この時期は、柳井商人が後背地農村部の産物を扱い、躍動を始めた時代であり、その経済力をもって防火建築である塗籠造りの商家を建てています。


左:商家博物館「むろやの園」旧室屋・小田家の屋敷  右:国森屋は改装中で写真の取れる状況ではなかった


 柳井駅前から一直線に延びる広い道路は、麗都路(レトロ)通りと名づけられた幹線道路で、沿道の新しい建物はレトロ調に造られ、歩道などにもそれらしい細工がしてありますが、通りの終点にある旧周防銀行本店のイメージを延長しているのでしょうが、こいつはどうも奇異な感じがしてなりません。


駅前から延びる麗都路通りとその先にある旧周防銀行本店(右)


 


 

まちなみ ブックマーク

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町並み資料館

館内にある町の模型
町を歩いていても面でしか見えない町並みが、立体的に理解できとても面白い。
甘露醤油の蔵

内部は一般に開放されていますが、一歩中に入ると醤油の匂いが強烈ですが、この醤油樽はなかなか見応えがあります。

 


 

 情報リンク

 

柳井市ホームページ



電脳柳井観光案内所



柳井商工会議所HP



 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2005.6


参考資料

@谷沢 明「瀬戸内の町並み」未来社

使用地図
@1/25,000地形図「柳井」「大畠」平成13年修正測量


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