「 番外編 その3  木曽路 五宿 」

木曽路  上松宿 <あげまつ>
〜 木曽の木材集積地で周辺には奇観の名所 〜

 

天下分け目の関が原の合戦
東海道を西進する徳川家康の本隊とは別に、
三万余の兵を率い中山道から美濃国関が原に向かった徳川秀忠。
途中思わぬ足止めをくったため、合戦に遅参してしまう。
関が原でちょうど雌雄が決しようとしていた時刻、
秀忠軍は、ここ上松のあたりを死に物狂いで疾走していた。

 

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上松宿の北はずれより望む(左)  旧宿場の町並み(右)

 

 古来から、木曽谷の人々の生活は木材によって支えられてきましたが、その中でも、上松はその中心地でした。寛文5年(1665)、尾張藩はこの地に材木役所を設置し、いわゆる「木曽五木」の出入りを厳しく取り締まりました。
 「木曽五木」とは、ヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコのことで、すべて松科に属し、非常に見分けがつき難いといわれています。

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木曽五木 左からネズコ、サワラ、ヒノキ、コウヤマキ、アスナロ、

 木曽の山々は、古くから優秀な木材を産出することで知られていましたが、江戸時代の初期に城下町の建設などで濫伐が進み、荒廃してしまいました。このため、幕府直轄支配の後にこの地を管理することとなった尾張藩は、木曾の外に出る材木はもとより白木(材木の半製品)に至るまでを統制し、刻印のある物以外は木曽から搬出させませんでした。
 特に「木曾五木」は伐採が禁止されるなど厳しく取り締まり、「枝一本 腕一本、木一本 首一つ」といわれるほどの厳罰が科せられたといいます。この厳しい保護政策の結果、木曽にはヒノキの大径木が数多く存在するようになったのです。

 このような厳しい取締りを行う木材役所が設置された上松の地は、木曽木材の一大集積地として江戸期には大いに発展したのです。


地形図(1/50,000)

 この町の特長は、木曽川から離れた山側を通っている街道沿いの宿場町と、木材の集積場所としての木曽川沿いの地区との間で、町が形成されていることです。
 街道から木曽川の方向へは道が幾本も下りていて、ここに、川から運んできた木材の集積場や加工所、それを扱う商家などが立ち並んだようです。木材役所は旧街道沿いに置かれました。今も川沿いは、木材の集積所や加工所が広がり、林業の町らしく檜の香気が漂っています。

宿場町としての上松

 宿場町は、北(江戸側)から上町、本町、仲町、下町と続いています。他のほとんどの宿場町では、京都側を「上町」、江戸側を「下町」としているのですが、なぜかここは反対方向に町名をつけています。木材役所のおかれた歴史が関係しているのかも知れません。
 昭和25年の大火により宿場のほとんどが消失し、古い家並みは上町付近の100m前後に残るだけとなっています。

 上町の100mぐらいの間には旧家が残されていますが、蔀戸はガラスの引違い戸となり、出梁にかかる松皮葺きの小屋根はトタン屋根になり、二階にはアルミ製の手すりがつけられています。一般の住宅として個人が旧来の姿を保存することの難しさを見せつけられました。
 これらの旧町屋は、旅館や土産物屋に姿を変えて、行政が補助金を出して村総出の保存活動をしないと、残っていかないものなのだと感じました。

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街道から木曽川に下る道(左)  上町に残る旧町屋(右)

 

木曽の桟(かけはし)

 「かけはし」は、木曽川にかかる橋ではありません。かたや見上げる絶壁、かたや岸壁の谷間という、崖の途中の道の切れたところに渡したもので、初期の頃には丸太を二本並べただけであったろうと想像されます。中世には木曽路の方々にあったのでしょうが、それが次第に修復されてきて減り、江戸時代には、上松宿の北にある波計(はばかり)桟道と呼ばれるものだけになります。
 それも正保四年(1648)、通行人の落とした松明で桟道が焼け落ちてしまいました。そこで尾張藩は橋を板橋にし、両側に石垣を築いたのです。現在、木曽の桟として石垣が残されていますが、それがこのとき築いた石垣です。これを最後に、蔦かずらにすがって歩いた吊橋のような桟道は姿を消したのでした。

 しかし、その後もこの桟は数々の歌に詠まれています。

 松尾芭蕉は、
「桟橋や いのちをからむ つたかずら」
と詠みましたが、もちろん芭蕉が渡った「かけはし」は石垣になってからです。

 また、皇女和宮は、
「旅衣ぬれまさりけりわたりけく 心もほそき木曽のかけ橋」
と詠み、江戸に下る悲しみの心境をつづっています。

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波計桟道付近の渓谷(左)  国道の下に残る桟の石垣(右)  

小野の滝

 中山道69次の浮世絵(広重、英泉の合作)に描かれている上松はこの小野の滝の光景です。
 細川幽斎がこの地を訪れたとき、「神戸布引の滝や、大阪箕面の滝にも劣らない。」と絶賛しています。幽斎は忠興(細川ガラシャの夫で熊本細川藩の祖)の父で、戦国期に織田信長に仕えた武将ですが、当代随一の文人としても名高い人です。
 寝覚の床にも見られた花崗岩の方丈節理がここにも見られ、白いブロックを積み上げた先から滝が流れ落ちる光景はみごとです。

 昭和42年にJRの鉄橋が滝の真上に架けられました。この鉄橋の桁は、橋脚スパンが短いせいかとても軽やかで、通貨車両の裏側が見えるほどです。車両通過の時の轟音はすさまじく、折角の清涼な景観が台無しになっています。

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浮世絵の小野の滝(左)  現代の小野の滝と鉄橋(右)  

寝覚の床 (ねざめのとこ)

 木曽川の侵食が創りだした古来からの旅の名所です。花崗岩の方丈節理により巨石が四角に切り出されたように並んでいます。確かに奇観名所でしょう。
 九州の高千穂峡が天孫降臨神話の地とされ、西国の山奥に平家落人伝承が残されるように、ここには浦島太郎に関する説話が残されています。竜宮城から帰った浦島がここで玉手箱を開けたというものです。ここは忘れられた名所「小野の滝」と違い、一大観光地をなっていますが、これはこれで悲しいものがあります。
 この近くの街道沿いに、寝覚立場の茶屋本陣で、現在民宿として利用されている"たせや"が残っています。切妻平入り造りではなく、この辺りには珍しい「入り母屋造り」が目を引きます。出梁造りは踏襲されていますが、建具や二階の造りを見ても、建築当初から木曽路特有の様式では造られていないようです。

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河川侵食の創りだした奇観(左)  民宿たせや(右)

 

関ヶ原の合戦に遅参した大将 徳川秀忠

 徳川家康の三男で、後の徳川第二代将軍になる秀忠は、自分が生きている間だけでなく、以後何百年にもわたって、こう言われ続けることになりました。
 秀忠はこのとき21歳。しかも初陣でした。秀忠率いる兵約三万はひとつの城と中山道の悪路に苦しめられ、「天下分け目の戦い」遅参してしまいます。この遅参が計画されていたとの説もありますが、歴史的には永久に「汚点」として残ってしまいます。
 石田三成が挙兵したとき、徳川軍は会津上杉攻めのために関東方面にいました。美濃のあたりでこれを撃つべく、徳川家康の本隊は東海道を西進しますが、それとは別に、秀忠は三万余の兵を率い中山道から美濃国関ヶ原に向かいました。

 その途中、真田幸昌、幸村父子の籠城する信濃上田城を約1週間にわたり包囲しますが、小競り合いの末、落城させることもせず囲みを解き、再び関ヶ原に向かいます。関ヶ原に急ぐ軍勢が、途中の小城をただ包囲するだけで本格的な攻撃もせず、しかも命令も待たず城に攻撃を仕掛けた先鋒隊の処罰を巡っての評定にも時間をかけています。このような不可思議な行動が、後の歴史家から「計画的」だと邪推される要因となります。
 これに加え、降雨により木曽川の水位は上がり、それでなくても険しい道のりはさらに悪条件が重なり、秀忠軍の進軍を妨げていました。

 そんなこんなで、家康が関ヶ原に布陣して決戦の時を待っていた時、秀忠軍はようやく木曽路に入ったところでした。
 秀忠が、木曽路の本山宿(塩尻と奈良井の中間地点)に入ったのが9月14日。翌日の早朝、関ヶ原合戦の火蓋は切って落とされます。勝敗は一日で決着し、徳川東軍の勝利で終わりますが、その日の夜、秀忠軍はようやく妻籠宿に着いています。といっても、現在の木曽路をみると、本山宿から妻籠宿までは距離にして約80kmもあります。しかも、平坦な道ではなく、山道あり、谷越えありの道で、季節は9月の中旬。暑い暑い。さぞ大変だったことでしょう。

 走るほうも大変ですが、それを迎える沿道の町々もさぞや大騒動だったことでしょう。

 三万の隊の中には、20kg前後もある武具甲冑をつけた武者達に加え、武器弾薬や食料、陣立て道具等々を運ぶ荷駄の大行列が続いたはずです。これだけの大部隊が一日80kmも疾走していくためには、先行の道案内だけではなく、通行道の確保、水食料の供給、怪我人の収容、反乱分子の取り締まり等々を行う沿道の協力が不可欠になります。これに全面的に協力したのが、木曽氏の家臣だった木曽福島の山村尽兵衛らでした。山村氏はこの功績に対し、木曽福島の代官職を与えられています。