「 番外編 その3  木曽路 五宿 」

木曽路  宮ノ越宿 <みやのこし>
〜 木曽義仲が平家追討の旗挙げをした歴史の町 〜

 

武士として初めて征夷大将軍をなった木曽義仲
木曽の地で育った義仲は、ここ宮ノ越で挙兵した。
栄華を誇った平家一門を京の都から追討し朝日将軍と呼ばれるが、
後白河法皇らの政略に翻弄されたあげく逆賊の汚名を着せられ、
源義経に討たれ二度と木曽の地を踏むことはなかった。

 

.
宮ノ越は広い平野部をもつ(左)  宮ノ越北隣の渓谷「巴が淵」(右)

 

 宮ノ越は木曽路の中では珍しく広い平野にあります。
 薮原宿から宮ノ越宿まで、木曽川は狭い谷間をぬって蛇行しており、ここは昔は木曽路の難所の一つだったかも知れません。

 旧宿場町の手前(北側)約1kmのあたりで谷筋は終わり広い平野部に出ます。この谷の西側が山吹山で木曽義仲の愛妾の名前が付けられています。
 山吹山の対岸の尾根の先端には、南宮という神社があります。美濃国一宮の金山彦命を勧請したものを、義仲が宮ノ越に居を構えた時に現在の地に移されたといわれ、「宮ノ越」という地名は、南宮神社の宮の腰(中腹)という意味から命名されたのだそうです。


地形図(1/50,000)

 旧宿場町は、幾たびもの大火と街道の拡幅工事のため、昔あった松並木は伐採され、道路も広くなり、昔の面影はほとんど感じられません。普通の田舎町に見えます。ただ、木曽大工と呼ばれた出稼ぎ大工が多くいたところだけに、二階の出梁造りを支える持送りの家をまだ数軒見ることができます。
 木曽路の宿場町の中では一番広い平野部をもちながら、南隣の代官所と関所の置かれた木曽福島宿、木材集積所となった上松宿、などに比べてさほど発展しなかったのは、何か政治的な理由があったのかも知れません。

.
現在の旧宿場町(左) と 中山道の中間地点(右)

宮ノ越は中山道の中間に位置

 宿場町の南約2kmにあるJR原野駅の近くには、中山道の中間地点の碑があり、京都と江戸からそれぞれ67里38町(268km)の位置にあると書かれています。
 また、明治44年、東西2方向から施設された中央本線が、この地点で連結され全線開通したそうです。

木曽義仲の挙兵の地

 宮ノ越宿のある木曽川沿いの広い平野部は長野県日義村の村域にあたり、村の名は朝日将軍木曽義仲の「日」と「義」をとってつけられたそうです。
 村には大変立派な木曽義仲の資料館があります。義仲は村のヒーローであり、村おこしの起爆剤として大変期待されている存在なのでしょう。

.
木曽義仲資料館にある義仲と巴御前の銅像 と 旗揚げ八幡宮

 木曽義仲は久寿元年(1154)、八幡太郎源義家の孫にあたる源義賢の次男として、武蔵国に生まれました。源頼朝とは従兄弟にあたります。
二歳の時、父が非業の最期を遂げたため、斉藤別当実盛のよって母と二人、信濃国木曽の豪族中原兼遠の元に預けられ、兼遠の屋敷のあった木曽福島の地で育ったといわれます。その後、木曽の山中で義仲がどのように育ったのかは、ほとんど不明だそうです。

 しかし20数年後、義仲は突如として歴史の表舞台に登場します。

 治承4年(1180)、以仁王(後白河上皇の次男)から受けた平家追討の令旨に従い、木曽谷のここ宮ノ越に反平家の旗を上げた義仲は、やがて倶梨伽羅峠の戦いで平家の軍勢を破り、一気に都へ攻め入って平家を西海に追いました。
 一時は武士とは初めて征夷大将軍にも任命されましたが、栄華もつかの間、源頼朝と対立し、義経の軍勢に攻められて敗走し、近江粟津で討たれます。宣旨により征夷大将軍になってからわずか10日後のことでした。
 「平家物語」や「源平盛衰記」にその活躍が描かれているが、山中育ちで無教養な荒武者であったという評価が暗になされています。

 義仲が平家追討の旗揚げをした「旗揚げ八幡宮」の辺りが、義仲の館跡さといわれていて、付近には義仲伝説にちなむ遺跡が点在します。先の山吹山やその下には巴御前の名をとった巴ケ淵などがあり、徳音寺には、義仲の墓とならび母の小枝御前、愛妾巴御前、今井兼平の墓標が苔むして立っています。