「 番外編 その3  木曽路 五宿 」

木曽路  奈良井宿 < ならい >
〜 奈良井千軒 といわれた木曽路最大の宿場町 〜

 

木曽路の難所「鳥居峠越え」をひかえ、
多くの旅人が峠の手前の奈良井に宿をとったため、
「奈良井千軒」を言われるほどこの宿場町は栄えた。
典型的な宿場町の形態を残すこの町は、
天保期以降はさしたる大火もなく、
昭和40年頃からの町並み保存運動の成果もあって、
近世宿場町の形態を現在までよく継承している。

 

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南側峠道からみた宿場町全景 と 街道沿い町並み

 奈良井宿は、街道に沿って約1kmの間に200軒以上の民家建築が並び、木曽路11宿のなかで最大規模を誇っていました。
 その理由は木曽路の中で最大の難所といわれた鳥居峠を控えていたからです。急勾配の上り道もさることながら、山中には追剥ぎ、山賊の危険があり、奈良井宿で一夜を明かし、翌朝一番に越えてゆく旅人が多かったようです。

 奈良井の現在の町並みは天保八年(1837)の最後の大火後の建築によるものですが、貞享三年(1686)の絵図と比較しても、基本的な町の形態は大きく変わっておらず、近世宿場町の形態を現在までよく継承しています。
 町の両端に鎮神社(京都側)と八幡神社(江戸側)が祀られ、その間に展開する町は、京都側から上町、中町、下町の三つの町に分かれています。町の境になる2箇所には、谷筋の水を集めた水場と、「鍵の手」といわれるクランク状に道が折れ曲がった場所があります。また、街道からはずれた山側には寺が5つあり、それに続く参道が街道から垂直に延びています。


鍵の手(左) と 大宝寺につづく参道(右)


簾と提灯がつるされていた(左)  鳥居峠方向を見る(右)

 町を構成する町屋の特徴としては、板葺きの石置屋根、切妻平入、そして出梁造(だしばりづくり)と鎧庇(よろいひさし)になります。特に一階と二階の間にある鎧庇は、四、五枚の板をしころに重ね、猿頭という桟木で吊り、それを金具が補強するといったこの地方特有の形態をとっている。
 また、通りに面した一階の建具は、くぐり戸のついた大戸の入口と床上部分には上下に三分割した蔀と呼ばれる建具が収まっている。
 平面的には、いわゆる「うなぎの寝床」であり、一階は通りに面した「みせの間」から、奥に囲炉裏のある台所兼食堂の「勝手」、そして「中の間」、「座敷」と続き、庭とトイレがある。二階は表二階と裏二階があり、間は「かって」の吹き抜けで行き来することができません。

この教科書的な町屋つくりをもつのが、天保期の櫛問屋だった中村利兵衛の旧邸宅で、現在は楢川村が取得し資料館として一般公開しています。


町屋の正面意匠


中村屋の平面図

 


中村屋の正面(左) と 勝手の間(右)

奈良井の町を訪ねて

 奈良井では毎年8月の11、12日に鎮神社の祭礼が行われます。この日は、各家とも「みせの間」前面に簾をかけ、囃子、神輿などを迎えることが習わしのようです。
 私がこの町に宿泊したのは祭りの翌日の13日だったのですが、半分程度の宿は営業しておらず、予約を取るのが大変でした。遠方の親類達が多数里帰りしているためと思います。
 各家には簾がかけられ、屋号と家紋の入った提灯が軒先につるされ、夕方には玄関先で送り火がたかれていました。どの家も親戚の人たち多くが通りに出て、みんな花火をしていました。中には大変立派な打ち上げ花火をする人もいて、通り一面にそれが繰り広げられる様子はある意味で幽玄の世界を感じます。


お祭りの翌日夜の風景 送り火と花火

 通り沿いの前面は江戸期の町並みがよく継承されていますが、どの家も中は相当改修されているようです。
 私の宿泊した民宿も、建築当時は、規模は小さいながらも旧中村邸と同じつくりをしていたようですが、約30年前に民宿を始めてから改築を重ねてたようです。吹き抜けだったはずの「勝手」は、二階の床がかけられ、上下とも客室に改築されていて、「座敷」の奥にも2階建てで増築がされていました。私の部屋は「表二階」の部屋でしたが、ここだけは昔どおりで、他の2階の部屋から場独立して、急階段を元の「勝手」から上がる構造になっていました。