「 番外編 その3  木曽路 五宿 」

木曽路  薮原宿 <やぶはら>
〜 木曽路の難所 鳥居峠をひかえた木曽川の源流の里 〜

 

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」
幕末期の公武合体政策に伴い将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮
彼女はこんな歌を残して木曽路を江戸に下った。
江戸で和宮を待っていたのは、4年後の家茂の死と徳川幕府の崩壊だった。
総勢2万人とも3万人ともいわれる史上最大の花嫁行列は、
京を発って13日目には、ここ薮原に投宿している。

 

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町を南端から望む(左)  旧街道の町並み(右)

 鳥居峠越えを前にして、江戸から上ってきた旅人が宿泊するのが奈良井ならば、京から下る旅人は薮原に宿をとることになります。
 ここは、両側から山が迫る、木曽川の最上流域に位置します。峠を越えた奈良井宿に流れる奈良井川は、やがて梓川、千曲川、信濃川となって日本海に流れ出ますが、木曽川はそのまま太平洋側の伊勢湾まで流れていきます。


地形図(1/50,000)

 山間地のため、住人は木櫛の製造や宿場関係の職業で生計を立てる人が多く、「お六櫛(おろくぐし)」の産地として、最盛期には住民の大多数が櫛関連の仕事で生活していたといいます。そもそも、鳥居峠を挟んだ、薮原、奈良井、そして奈良井の枝村である平沢の村々は、古くから木曽地方における漆器産業の中心地でした。
 木曽の漆器の歴史は古く室町時代中ごろまでさかのぼり、木曽福島町八沢で起こったとされています。薮原、奈良井では木櫛に朱色漆器を塗った塗櫛などが作られ、その華麗な色彩感覚は上方や江戸の女人衆に愛用されたそうですが、機械力で量産できない食卓用のちゃぶ台や汁椀など、いわゆる手作りの実用品だけが生き残ってきたようです。鳥居峠を挟んで東西に位置する奈良井も薮原も、木曽を代表する奈良井の曲物、薮原のお六櫛がともに発展したのは、工芸品を作って旅人に販売するしか方策のなかった山間部の集落の宿命だったのでしょう。

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お六櫛 と 町中にある櫛問屋

 町中の建物に古いものは少なく、「米屋輿左衛門」の看板を掲げた旧旅籠が目に付く程度で、この町も幾たびもの大火に合ったことが容易に想像できます。
 町の真ん中あたりに防火高壁の跡が残っています。その説明書きには、
「元禄八年(1695)、薮原宿の大火の後、防火を目的に各戸の間口を一間につき一寸の割合で出し合い、寄せ集めて路地を生み出し広小路を設けた。後年そこに石垣を築いて基礎とし、その上に土塀を設けて防火に備えたもので、この石垣は当時のままのものである。」
とあります。

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「米屋輿左衛門」の旧旅籠(左)  防火高壁の跡(右)

 

皇女和宮の降嫁

 文久元年(1861)、総勢2万人以上といわれる史上最大の花嫁行列が、この山間の宿場町に宿をとりました。第14代将軍徳川家茂に降嫁する皇女和宮の行列です。
 和宮親子内親王は、孝明天皇の異母妹、明治天皇の叔母にあたり、幕末の混迷した時局を乗り切るために、公武合体政策のとして、徳川将軍家に降嫁された話は小説などにも描かれ、幕末哀話のひとつとして知られています。
 和宮は幼くして婚約した有栖川宮熾仁(たるひと)親王がおり、江戸城への降嫁を嫌っていたといいますが、親子ほど年の違う兄孝明天皇のたっての望みで、止む無く決意されたといいます。
 しかし、一旦嫁いでからは、尊皇攘夷で揺れ動く幕末の、多事多難な将軍職にある夫家茂を良く助けたといわれている。輿入れから4年後、第二次長州征伐のため、大阪城で総指揮を取っていた家持が急逝します。時に21歳でした。二人が共に暮らしたのは実質二年余りのようです。急死した夫を思慕した「うつせみの 唐織ごろも何かせん 綾も錦も君ありてこそ」と読んだ歌が残されています。

 京を出発した和宮の一行は、一ヶ月をかけて江戸に到着していますが、これを迎える街道筋の緊張は大変なものだったようで、準備や使役の苦労、取り締まりの厳しさなどを伝える記録が、中山道沿いの各地に残っているといいます。
 沿道の建物の新築や建替えを行う宿場町も多く、いずれの宿場町もかなり大掛かりな準備をして一行を迎えたらしく、町並み整備、宿泊、食事、荷役に当たる人手の調達など目の回る忙しさだったといいます。この突貫工事は「嫁入り普請」「姫普請」などの名で今も語り継がれています。藤村の「夜明け前」にも舞台の馬籠宿でのてんやわんやの様相が描かれています。
 和宮が通過しただけの馬籠宿でさえ大騒動なのですから、投宿した山間の薮原宿での混乱の大きさは、容易に想像がつくでしょう。

中山道は別名「姫街道」と呼ばれ、和宮をはじめ将軍家へ嫁いだ皇女や公家の姫君、また、その反対に天皇に入内した2代将軍秀忠の娘和子(かずこ)らが通りました。
 それは、東海道に比べ中山道は交通量が少なく、山紫水明で変化に富んだ景色が見られること、女官など多くの女性従者を伴った大行列の通行には、大きな渡しが なく川止めや事故、船酔いなどによる混乱や警備の問題が少なかったこと、がその理由であると考えられています。
 また、婚礼のための旅であることから、東海道の「今切りの渡し」や「薩(去った)峠」などの地名が敬遠され、「馬籠(孫目)」「上松(あげまつ)」などのめでたい地名がある中山道に、縁起を担いだからともいわれます。