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まちあるきへの思い   



街が、その場所にできたのには理由があります。
街が、いまの姿になったのにも、ちゃんと理由があるのです。

それを読み取るには、まず、街の歴史を学びます。
ある街は、戦乱の室町後期に真宗門徒により造られた、生活、防衛、信仰のための寺内町であり、
ある街は、新たな国家体制のできた江戸初期に造られた、政治、軍事のための城下町であり、
また、ある街は、城郭がなくなり、寺院が勢力を失っても、平和の世の中で商人たちの活躍により繁栄した在郷町でした。

次に、地形図をみます。
明治20年から40年頃にかけて、西欧から導入した近代測量技術を用いた地形図が作られ始めます。
明治時代の地形図からは、市街化の進展した現在の地形図では消えてしまった、等高線が読み取れます。
どんな地形に街が造られたのか、それがよく判ります。

歴史と地図を重ね合わせると、その場所に街ができた理由が判ってきます。
街道が分岐・交差する交通要所であったり、領地が見渡せ防衛に適した小高い場所であったり、天然の良港をもつ水運の要所であったりします。
山や森、池や田畑が消えて、見渡すかぎり市街地となっても、もともとの地形は簡単には変りません。
砦のあった小高い丘は、今でもやはり丘のままそこにあります。
古来からある街道は、今でもつぎの街まで続いています。

「まちあるき」をすることで、そこに街ができた理由が、実感できるのです。



それぞれの街にはそれぞれの歴史があり、歴史が積み重なった結果が、いま、私たちが目にする「街のすがた」です。

歴史は街のいたるところに、その「痕跡」を残しています。
それは、江戸期からある町屋や神社仏閣、堀や石垣などの城郭の跡、といったものだけでなく、
土塁や堀の跡が、地形の凹凸に残っていたり、城門や番所が消えて、鉤型の道路だけが残っていたり、
時には、火災や水害の爪あとが残されていたりします。

現在の地図を見ていると、いくつかの疑問がわいてきます。
なぜ、この場所に官公庁の施設が集まっているのか・・・
なぜ、駅前から大きくはずれた通りに商店街があるのか・・・
なぜ、道路が不自然に曲がっているのか・・・
なぜ、急に道路幅が狭くなっているのか・・・

街の歴史を知り、江戸期の絵図や明治期の地形図と、いまの地図を比べることで、その理由が判ってきます。
丹念に「まちあるき」して「痕跡」見つけることで、それが実感できるのです。



「歴史的街並み」とよばれるものは、高度成長期の急速な都市化の中で、「残そう」として残ったものではなく、結果として「残ってしまった」ものです。
それは、ある時期まで、「歴史的街並み」は街のコンプレックスだったはずです。

江戸時代から明治大正にかけて隆盛を誇った街も、産業構造の変化や政治的機能の低下、そして、人馬往来から鉄道、自動車への陸運事情の変化により、時代の進展からすっかり取り残され、まるで時間が止まってしまったかのように往時の姿を残しているものがあります。
歴史的街並みが「残ってしまった」典型的な例です。

一方で、「街」から「都市」に発展をとげた街は、自らの発展の過程において「歴史的街並み」を、単なる「古いもの」で「新しくすべきもの」として位置づけてきました。
そして、街の発展を妨げる「じゃまもの」として排除してきたのです。

かつて武家屋敷が広がっていた場所には、官公庁や業務ビルが建ち並び、商家が軒を並べた街道は、拡幅されて町屋は姿を消しました。
何百年もかけて築き上げた自らのアイデンティティを都市になるために切り捨ててきたのです。
大きく成長した「歴史ある都市」は、いま、失ったものの大きさに後悔しているはずです。

残ってしまった街も、排除してきた街も、街中に残った歴史的な「遺物」を、かけがえのない「資産」として明日のまちづくりのために、いかに保全し活用していくかを模索しています。

それを「まちあるき」により実感したいのです。



ぶら〜り と ひと〜り で まちあるきして
私は 確かめたい。

そこに街ができた理由を
街に残った歴史の痕跡を
歴史遺産がいまの街でどう生きているのかを


  私はこれを
  「まちあるきの考古学」
  とよびたいと思います。